旅立ち、あるいは序章

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「いい答えだ」  老人は、優しい眼差しをみことちゃんに向けた。 「今この瞬間から、そなたは世界を裏側から支える者の後継者となり、わたしはそなたを導いてゆく。わたしのことはリューイと呼びなさい。導く者という意味だ」 「わかった」 「そしてそなたに名を授けよう。ノキアだ。そなたはこれから後継者として世界をまわる間、ノキアと名乗ることとなる。古き言葉で、大地という意味を持つ。今の名に未練はないか」  うん、とみことちゃんはうなずいた。 「もう、この名前もいらない」 「では、準備をしよう。こちらへ」  まゆが何も言葉を挟めないでいるうちに、老人とみことちゃんは隣の部屋へと姿を消してしまった。  みことちゃんが、行ってしまう。  今起きていることに、まゆはまるで実感がわかなかった。何から何まで、展開が早すぎる。  まゆがみことちゃんを誘って公園へ向かっていたのは、いったいいつのことだったろう。雨に降られて橋の下へ駆けこんだのは、いったいどのくらい前のことだったろう。ずいぶん前のようにも、ついさっきのことのようにも思える。  まゆのせいだ。まゆがみことちゃんを誘ったせいで、みことちゃんが行ってしまうことになってしまった。  後悔はとめどなく襲ってきたが、ではあのときあのまま、みことちゃんはあの部屋でおなかを空かせたまま、うつろな目で洗濯物を干していたほうが良かったのだろうか。  わからない。まゆには、わからなかった。  やがて隣の部屋から戻ってきたとき老人は、すっかり外見が変わっていた。  髭をきれいに剃り旅装束に着がえただけで、老人は老人でなくなり、まゆのお父さんくらいの年齢に若返っていたのだ。  先程まで老人であったはずの男性は、みことちゃんにも旅支度を施していた。みことちゃんはフードつきの真新しいマントを着て、荷袋を背負っていた。 「え、もう行くの? 今すぐに?」  うろたえるまゆに、リューイと名乗った男性は言った。 「じきに、この部屋は消え去る。その前におまえは、自動的にもとの場所へ戻るだろう」 「自動的って、どういうこと?」 「残念ながら、それをわたしは知らぬ。ただ、その情報がわたしのなかにあったというだけだ」  あいかわらず、彼の言いようはまゆにはわからないことだらけだ。  リューイは、この部屋にあるただひとつの扉へ近づくと、取っ手の下にある鍵穴に鈍色(にびいろ)の太い鍵を差し入れ、ゆっくりと回した。がちゃりと重たい音がする。  そしてリューイは、力をこめて扉を、押し開けた。  とたん、乾燥した空気が押し寄せてくる。  扉の向こうは荒野だった。  土と岩ばかりの平地に、土ぼこりがたっていた。見渡すかぎり、何もない。ただ風の音だけがしている。 「出発だ」  リューイが扉の向こうへ足を踏み出し、みことちゃんも後について部屋から出た。 「じゃあね、まゆちゃん」  学校の帰りに別れるときのように、みことちゃんは小さく手を振って笑った。くしゃっとなる、いつもの笑い顔だった。  まゆは笑えなかった。何を言っていいかわからず、結局何も言えなかった。  ただ手を振った。最初は胸の前で、それから顔の横で、しまいには頭の上で大きく振った。  歩き始めると、みことちゃんはもう振り返らなかった。リューイと、もうすでにノキアとなったみことちゃんの小さな後ろ姿が、土ぼこりにけむる荒野へと遠ざかってゆく。  まゆは、その後ろ姿を見届けなければならないように思った。  けっして目をそらしてはいけない気がした。  それがまゆにできる最後の、たったひとつのことだと思った。  でも、見つめているうちにだんだん、薄れてゆく。何度も目をこすってみるけれど、リューイとみことちゃんの姿が、荒野の光景が、どんどんかすんでゆく。そのうち、すべてがかき消えてしまった。  気づけばそこは、まゆの家の玄関先だった。  まゆは玄関の三和土(たたき)に立っていて、ドアの外には見慣れた門扉と向かいの家があった。頬にあたる風が湿気を含んでいる。  向かいの屋根の上を、濃い灰色の雲が流れ去ってゆく。  後ろから足音が聞こえて、振り返ると、台所から出てくるお母さんが見えた。 「まゆ、雨が降りそうだから、出かけるなら傘、持って行きなさいよ」  どんなにケンカをしても、お母さんはまゆを無視したりせず、普段どおり心配したり声をかけたりしてくる。言い争いをした後に見せるいつもの少し気まずそうな顔で、玄関に立つお母さんがそこにいた。  まゆはこらえきれず、お母さんに抱きついた。  胸につまっていたものが、涙になって溢れ出した。  突然泣き出したまゆを、お母さんは不思議そうに抱きとめた。それから、まゆが泣き止むまでお母さんは、何も訊かず、ずっと背中をさすってくれた。
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