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1.親友との別れ
「私、ライナス様とはそういった関係ではないわよ? 実際、私は彼と婚約はしていないし、あなたが勝手にそう誤解しただけでしょう? あなたとライナス様との婚約は、書面ではなく口頭のみで正式ではなかったにせよ、幼い頃からの仲。そんなお相手がいるにもかかわらず、ブルーノ様のお気持ちを弄ぶだなんて……。私、あなたと親友であったことを心から恥じるわ、アシュリー」
軽蔑した視線を向けてくる彼女に、アシュリーはそっと唇を噛んだ。
ここは、ランズベリー侯爵家邸内にある応接室。
アシュリーは、ランズベリー侯爵家の嫡男であるブルーノに、大事な話があると呼び出され、ここへやって来た。
この邸の執事に応接室に通され、彼女が一番最初に目にしたものは、三人掛けのソファに互いの身体を寄せあって座る男女の姿。
男はブルーノであり、女の方は、アシュリーのかつての親しい友人、親友とも思っていた、キャスリン・ガードナー伯爵令嬢だった。
「僕は君に騙されていたんだね。口約束とはいえ、婚約者がいただなんて。それなのに、僕からの愛を受け取ろうとするなんて、なんて浅ましい女なんだ。裏切られた気分だよ」
ブルーノが不機嫌な顔で、アシュリーを睨みつける。
婚約者の有無などお構いなく、これと見定めた女に片っ端から声をかける女好きが、聞いて呆れる。それに、アシュリーは彼の想いを受け取った覚えなど、これっぽっちもない。そちらが勝手に懸想し、追いかけまわしていただけではないか。
しかし、ここでそれを言ったところで無駄なこと。なにせ、ブルーノという男は、人の話を聞かない。聞いたとしても、全て自分に都合のいいように解釈する便利な思考回路の持ち主だ。他人にとっては迷惑この上ない。
そんな男とわかっていて、愛を受け取るだなんてありえない。それなのに、一方的に責められるとはどういうことか。
悲しげに俯くアシュリーを見て、キャスリンは口角を上げた。
自分が優位に立つ瞬間ほど気持ちのいいものはない、とでも言いたげだ。もちろん、その顔をブルーノに見られるようなヘマはしない。彼女も俯き加減になっているため、ブルーノはその表情を見ることはなかった。おまけに、キャスリンは小さく肩を震わせてみせる。
「ブルーノ様、かつて友人であった私からも謝罪いたしますわ。本当に申し訳ございません。アシュリーの不実をお許しくださいませ」
「キャスリン、あなたは本当に優しい人だ。そして愛らしい。あなたに免じて、アシュリーを許そう」
「さすがブルーノ様ですわ。アシュリー、ブルーノ様の寛大な御心に感謝することね」
アシュリーは一言も発することがない。とにかく、この時間が早く過ぎることだけをひたすら願っていた。
「アシュリー、何とか言ったらどうなの!?」
「いいさ、キャスリン。僕を篭絡しようとして失敗したことが、よほど悔しいらしい」
「まぁ……」
「アシュリー、僕はもう君など愛していない。何とも思ってやしないよ。だから、二度と僕やこの邸には近づかないでくれ。僕は、キャスリンと結婚する」
「ブルーノ様!」
キャスリンは感極まったように瞳を潤ませる。ブルーノはそんな彼女を見て、だらしなく鼻の下を伸ばしていた。
アシュリーはすっくと立ちあがり、二人に向かって最後の言葉を告げる。
「お話は済んだようですね。それでは、私はこちらで失礼いたしますわ。ランズベリー様、ガードナー様、どうぞお幸せに」
アシュリーは凛とした姿勢で、ランズベリー邸の応接室を後にする。背後からは、アシュリーを非難するキャスリンの声が聞こえてくる。
謝罪もないなんて、あんな性悪だとは思わなかった、とんでもない悪女だ、などなど。
「その言葉、そっくりそのままお返ししますわ、キャスリン」
溜息まじりにそう呟き、アシュリーは顔を上げる。その表情は、ようやく憂いが消え去り、光が差したような清々しいものだった。
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