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「氷雨、山に行くんだろ? ついでに、町の呉服屋に行ってくれないか」
いつものように山に行こうと思っていると、兄弟子がそう言った。呉服屋に依頼していた衣が出来上がったから、取りに行ってほしいのだそうだ。
「わかりました」
兄弟子に頼まれれば、断ることも忍びない。
ただ、町に出てから、やはり断ればよかったと後悔した。ひとの目が、突き刺さる。みなが氷雨を避けて歩く。
用事を済ませたら、さっさと、ひとのいない通りを歩こう。
そう思ったとき。
道の先が騒がしいことに気づいた。しだいに、その喧騒が近づいてくるようだった。もともと人通りの多い道だっただけに、ざわめきは大きい。
見ていると、その正体がわかった。
みすぼらしい身なりのわりに、手には高価な反物を抱えた男が走ってくる。物盗りだろう。紅の反物がひらひらと空になびいている。その男をつかまえて、と叫び声が聞こえた。
氷雨は考えるより先に、刀の柄に手をのばしていた。
こちらに向かってくる男。
――ああ、なつかしい。この感覚。
氷雨は刀を引き抜いた。吸い込まれるように、男の腹に軌道が乗る。思いきり振り抜いた。男はうめいて、地面に倒れる。
「盗んだもの、返してください」
うっ、とか、ひっ、とか叫ぶ男から反物を奪い返した。そうしてまわりを見たとき、はっとした。
しまった。
そう思っても遅い。氷雨の鼓動が早鐘を打ち、手に汗が浮かんだ。みな、おびえた顔で氷雨を見ていた。輝く刀に、顔を青くさせている。
「あの……、峰で打っただけですから、たいした怪我ではありませんので」
言い訳のように、氷雨は言った。事実、男の腹からは一滴たりとも血が出ていない。町中でひとを斬り捨てるほど、自分も鬼ではない。だがそれでも、民たちは氷雨に近づこうとしなかった。
どうしていいかわからず、氷雨は刀をぎゅっと握る。
逃げたい。
「――人斬り」
だれかが、ぼそりと言った。
「……え?」
小さな声だった。それなのに、氷雨の頭に重く響いた。どくん、と心の臓が鳴る。
――あ、れ?
不思議だった。胸をおさえる。どうしてだろう。釘で打ちぬかれたように、胸が痛い。
たくさんの眼が、氷雨を取り巻いている。おびえ、恐れ、憎む視線。口のない視線たちが、無言で痛いほどに訴えてくる。それが、なぜか、とても恐ろしい。逃げ出したい。
氷雨の手から、紅の反物がひらりと落ちた。
地面に落ちた反物が、瞬間、びしゃりと音を立て、血だまりとなった。
息をのむ。
もちろん、幻だとわかっていた。それでも、紅が、目に焼き付いた。広がった血だまりの、ぬらりとした水面に映る顔から、目がそらせない。
その顔は、幼い氷雨だった。民たちと同じように、おびえた目でこちらを見ている。
視線が刺さる。
氷雨は一歩退いた。
いやだ。ここは、いやだ。
逃げるように走り出した。
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