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白虹
軽やかな走行音を立て、赤色灯のように光るホイールが加速する。その鮮やかな煌めきに民間車が道を譲るよりも早く、小さな車体は最小限の動きで前へ前へと走る。通常パトロール時には晴天のような青に、今はホシを追いかけ流星の如く真っ直ぐ星図を切り裂いていく。
グリップを握り込む年季の入ったグローブがアクリルビーズの反射光を受ける。同じ左手首につけた時計のような端末が明滅した。
「次の角を左へ、その先の大通りを道なりに進んでください。犯人は現在、大通りに出て逃走中。市外へ出ようとしていると予測されます。」
慣れた道。慣れたバイク。いつもの自分。骨を介して伝えられるという話だっただろうか、走行中であるにも関わらずはっきりと聞こえる音声だけが未だに慣れない。
「到着時間は?」
「このままの速度で行けば3分32秒で到着します。」
「おせえ!近道は?」
「ありません。」
「目の前にあんじゃねえかポンコツ」
バイクにタイヤがなくなってからどのくらいの年月が経っただろうか。今の若年世代に問いかけても、古い機材が好きな変わり者以外は答えられないだろう。時代の移り変わりと共になくなったそれは同期との別れのようで、物寂しさをハンドルで握りつぶし高架下をまっすぐに横断する。突然視界に現れた闖入者に遅れてクラクションを鳴らす車、音に驚き振り返る通行人、騒がしさに場所を移すように飛んでいく鳩の群れ。
「非常識な行動です。」
そう無感情な音声で発する画面越しのそれは、しかしこのタイミングで苦言を発するユニークさに男は声なく笑った。
「陽渡警部。新着メッセージが3件、着信が5件来ています。」
「放っておけ。どうせ署に戻ったら同じこと言われんだ。今見たって変わらん」
陽の下で陽気に電気タバコを吸い込み空に息を吹き込む。ポケットから最早アンティークと呼んでも差し支えないライターを取り出しカチカチと弄ぶ。彼は満足げな様子だが、後から到着した隊員は皆彼を白い目で見た。これで違反は何度目かと、よくこれで警部の階級につけたなと、年若い透き通った目には語らずとも反目まで写し込んでいる。
「は〜〜仕事したなあ」
「まだ時刻は正午より前です。私たちの仕事は始まったばかりと言えるでしょう。」
「通りで日が高いと思った。お天道さんも俺たちを労うように真ん中にいるわ。つまり飯を食えってことだ」
「すぐに署に戻るようにとメッセージと警告要請が来ています。」
「バッッカ。お小言なんて聞いた後の飯なんて不味くなるだろ。飯は美味い時間と、場所と、気分が大事なんだ。アップデートしておけ」
「畏まりました。今の陽渡警部の発言から推察するに、きちんとした手順で現場に向かい、容疑者を確保していれば、このような雑事に気分を害することなく昼食を摂れたのでは、とアドバイスしておきます。」
「あーあーあー、小言は聞きたくねえって今言ったばっかじゃねえか!」
「アドバイスです。ポジティブに捉えて頂ければと思います。」
Artificial Intelligence略してAI技術が制限されたのはいつの頃か、これは陽渡が警部職につくもっと以前のことだ。まだ白バイ隊員になって間もない頃、そのニュースはしばらく世間をざわつかせた。
AI規制法の可決。超法的措置が許された場合を除き、医療・司法・警察の3つの現場以外では個人の使用が禁じられた。この法案の可決により現代、様々な論争思想が後を経たない。民間に降りてこない技術など何のためにあるのか、人々の生活を支援するのがAIなのではないのか、法が可決した後数十年が経過してもデモのような犯罪が後を経たず、警察はAIを用いて民間AIの規制をするという有様だ。あと数十年経ってしまえば老人の昔話の一つになるだろうか。
「今日も人気者だなあAIサマは」
腕輪型携帯端末に語りかけるよう呟くが、一ヶ月前支給された刑事補佐用AIからのアクションはない。そのことにふんと鼻を鳴らし、腕を振る。スリープモードのAIに衝撃が行くわけがないので当然ながら苦情の一つも返っては来なかった。
「このまま大通りを走行して下さい。」
「はっ、そこの路地通りゃ逆に検閲してやれるわ」
「いけません。他の隊員との合流を待って下さい」
「待ってちゃ犯人に逃げられんだろうが!」
「……」
「その件の担当は隣の捜査権です。警部が出向く必要はありません。」
「こっちのシマに来る可能性だってあんだろ? 出迎えてやんなきゃ寂しがんだろうが」
「そもそも、あなたは隊を指揮する立場であってホイホイと臨場していい階級では……はあ…あなたの始末書、9割私が出力していることをどうかお忘れなきように。」
「犯人は路地裏に逃げ込んだ模様です。こちらも迂回する必要があります。」
「近道は?」
「ありません。」
「早く教えろって」
「…この先二つ目の信号を渡った120m先の脇道に入ると、犯人と肉薄できるポイントがあります。まあ、今よりもっとスピードを出す必要がありますが。」
「任せやがれ。こちとら何年この街を走ってると思ってんだ!」
「陽渡警部。」
「あん?」
「無茶ですと言っても聞き入れる耳がないのは知っていますが。」
「もう言ってんじゃねえか」
「あなたの大事なバイクがおじゃんになります。」
「んな古い言葉どこで覚えてきた。」
カラカラと笑う陽渡にAIは冷たく「貴方からです。」と相槌を返すと、1人の警察官の顔からスッと笑顔が消えた。この男は、AIと話す時極力お互いの顔が見えるように腕を顔の前に掲げて話す。心拍・脈拍・体温など様々な生体反応から持ち主の感情を読み取るAI相手に、である。昨今人間同士の通話でもこのようなモーションはしない。それでもそれは彼なりの、自分のパートナーへの敬意の表れだった。
返事を促されているのだ、とAIは感じ取った。感じ取ったという表現が通常適切でなくても、この男のパートナーである「自分」にはきっと合致する。
「私とあなたがパートナーになったあの日、なぜこの名前をつけようと思ったのですか?」
「…お前のアバターが娘っ子に見えて、娘の名前なんて自分の娘の名前しか思いつかなかったんだよ。」
なんでこんな時に、とでも言うように伏せられた顔。普段繊細さとは程遠い振る舞いばかりするのに、弱いところを突くとすぐに耳が赤くなる。昔それでよく同期に揶揄われたと、苦々しくも口は笑みの形を作って語っていた。
「15秒後。」
そう言われ、男は己のパートナーAIと向き合っていた腕を下げ、返事の代わりにグリップを握る。もう1人のパートナーとの別れを惜しむように緩慢だった。
「10秒」
9…と無機質な声がカウントダウンを始める。最初はこの声に慣れず夢にも出てきたくらいだが、今となってはこの涼やかな声にざらついていた感情が平らにならされるような心地になる。
この数十年、理不尽に乱される心は砂のようだった。太陽に焼かれ、月に凍えた。笑い合い、涙した。平凡な人生だ。怒って、怒って、怒って、たくさん別れてきた。欠片だけ持ってまた走り出して来た。それだけの人生だ。今この瞬間、自分と共に走り出してくれる声を聞くだけの時間が、唯一意味ある時間と言えるだろう。これがあるから今も警官なんてやっていられる。
アクセルに足をかけた。最高の踏み込みを意識する。視界に捉えるのは隣の建物に取り残された母子。
一瞬、あの時助けられなかった妻子の幻覚を見たが、3…という声がいつも通り異物を取り除いてくれる。
0を告げたのとほぼ同時、駆け出した1機のバイクと男とAI、規程速度を優に超えた暴力的な叱咤が、火花となり車体を焼く。
瓦礫を弾き飛ばし窓ガラスが吹き散る。浮遊感と太陽光に意識が裂かれそうになるのを気合いの一言で一括。相棒が弾き出したベストタイミングに報いるため、グリップを握る腕は離さない。たとえ崩落寸前の建物から瓦礫が落ちてくるのが視界の端に捉えようとも。
何かがぱきりと鳴った。男の腕か、バイクのハンドルかはわからない。それでも男は何代目かの相棒から飛び降り、自由落下するバイクを振り返ることもなく、燃え盛るビルに飛び込んだ。
次に目が覚めた時は目に痛いほどの白。パチパチと瞬きをするものの視界はぼやけて晴れない。目を怪我したのか、頭を打ったのか両方か、痛む四肢は持ち上げることも出来ずに硬いベッドに沈み込む。
「生きてるのか」
意外にも喉は正常で、霞む視界とは対照的にクリアな声が出て驚いた。普段であれば、左腕から「はい。満身創痍ですが。」といったような無情な機械アナウンスが聞こえてくるのだがそれがない。一瞬耳もダメなのかと思ったが、先ほどクリアに聞こえた自分の声を思い出し違うのだと知る。
意を決して腕を持ち上げる。そこにはいつかの誕生日に娘からもらったビーズのブレスレットと医療用タグ以外、何もついていなかった。警官が持つ補佐型AIの存在を警察病院に従事している者が知らないはずがない。外すまではわかるが近くに置いておかないことはないだろう。
ナースコールを押すと、すぐに看護師がやって来る。看護師は興奮した口調で、男が助けた親子は、軽傷を負っているものの命に別状はなく、程なくして退院したことを告げる。とても感謝していたことを告げるとすっと目線を外したがすぐに戻し、「ヒカリは?」と問うた。自分のパートナーAIの名だ。
「えっと…私は詳しいことは聞いていないんですけど、少なくとも運び込まれた時には端末はされていませんでしたよ」
その後は流石に怪我が重く家で療養を命じられた。普段帰っても風呂に入って寝る程度しか過ごしていない我が家にこんなに長くいるのは何年ぶりだろうか。たまにハウスキーパーを雇って掃除してもらっているのでそれほど汚れてはいないが、1人の家はなんとも寒々しくて苦手だ。
まだ腕が本調子ではないが、妻のガーデニング用品を引っ張り出し庭の土を掘る。ある程度掘ったらまた土を戻す。スコップを使い少し小高に盛った所で「ヒカリ」と書いた割り箸を天辺に刺した。
AIの墓には何を埋めるのが正解なのだろうか。あの事件で部品さえ見つからぬほど木っ端微塵に砕けたパートナーAIとは、一年も共にしていないことに少し驚いた。
自分の家の庭の片隅で男が感傷に浸っていると、後ろから「ボディが壊れたぐらいで機能不全になるなんて生物くらいですよ」と声がかかる。スピーカーモードから放たれる声も耳馴染んできた。
「うっせえな。これでも壊した後凹んだんだよ」
「それで庭の隅に墓を?今時幼年期でもそんなことする方いますかね?」
「ここにいんだろうが」
「失礼しました。」
「謝んな!」
「残念ながら、私はあなたたちのように部品が足りなくなろうと、燃えようと、ボディが大破しようとこうやって昨日までとなんら変わりない機能を維持することが出来ます。技術部が常にバックアップをとってくださる限り、です。」
新しい端末を手に取る。腕がだるいためつけることはしないが、前のより画面の色が鮮やかな気がする。いつも目を見て会話していたと思うのに、ヒカリの瞳がこんなに鮮やかな赤色だとは気付かなかった。まるでそこだけ血が通っているようだと、口に出したらまた冷笑を浴びせられることだろう。
「だから少なくともあなたが定年退職するまでは余裕で稼働して行きますので、なくなったものの欠片を集めて、センチメンタルにならなくて結構ですよ。陽渡警部。」
早くバイクに乗って走りたいと思う。このパートナーはこう言うが、バイクの方の修復は不可能らしい。今度は2人で、新しい相棒を見つけに行こうと、口には出さなかったが照れ隠しに端末をゆらゆら揺らして笑った。
「不快です。照れてる顔を見せたくないからってわざわざ視界を揺らさないでください。」
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