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「安奈!」  亜蘭の呼びかけに振り向いたのは、店先で水まきをしていた若い女性だった。 「あら、亜蘭じゃない。ええとお隣にいらっしゃるのは……まあ、どなたかと思ったら飛田さんじゃありませんか。亜蘭と知り合いだったとは驚きですわ」  流介に気づき目を丸くしたのは白い肌に大きな瞳の娘――――安奈(あんな)だった。  安奈は宝来町の酒屋で働く看板娘で、水守天馬の許婚者であると同時に酒屋の地下にある秘密のカフェ―『匣の館』のオーナーでもあった。 「わざわざお二人で来られたということは、私に何か御用かしら?」 「ええと、ちょっとこれから聞き込みに行くのですが、少し間を開けたくて……」 「つまり暇つぶしにいらっしゃったってことかしら?……でしたらちょうど夏向きのお菓子を作ってみたからひと口、召し上がって行って」  安奈は「外で申し訳ないけど」と言うと、流介と亜蘭に店の前にある縁台に腰を下ろすよう促した。  しばらくして安奈が運んできたのは、近頃噂のアイスクリンらしき洋菓子をレモネードに浸した不思議な菓子だった。 「うわあ、こいつはうまいや。アイスクリンは一度食べたことがあるけど、それとも比べられないな」 「喜んでもらえてよかったわ。昼間からビールをお出しするわけにもいかないし、そのお菓子で勘弁してくださいな」 「いや、ありがたい気遣いです。……そういえば、例の『港町奇譚倶楽部』とやらはまだやっているのかな」 「もちろんですわ。今週も開く予定です。……ただ、そろそろ謎のお題が切れてしまいそうで……飛田さん、何か魅力的な謎をご存じありませんか」  いきなり安奈の大きな瞳で見つめられ、流介ははっとした。 「ううん、ないこともないですが」 「もしよかったら聞かせて頂けません?お菓子をもうひと皿差し上げますわ」 「いや、それには及びません。お話するのは構わないのですがその……まだ僕にもどういう事件なのかよくわかっていないのです」  流介はそう前置くと、植松恵次郎殺害の顛末を断片的に語り始めた。                 ※ 「いらっしゃいまし……あら飛田さん」 「この間来たばかりだけど、蕎麦を食べに来ました。……それと少々、女将に聞きたいことがあって」  『梁泉』の戸を開けた流介は、女将である浅賀(あさが)ウメに唐突に切りだした。 「どうかなさったんですか」 「実は先日亡くなった植松恵次郎さんという人についてなんだが……」 「植松さん?……気の毒な事件でしたね」 「うん。実はその植松さんが亡くなる少し前に、その……遊郭の人と思しき女性と親しくしていたという話があるんだ。聞くところによるとここにも二人で顔を出していたと言うんだけど……見た覚えはあるかな」 「飛田さん、あたくしは商売柄、お客様について個別にお答えすることはできないのです。どうか察してくださいまし」 「見たかどうかだけでも……無理かな」 「見たかどうかと聞かれれば、それらしきお二方は見たように思います。ただお客様から話しかけられない限りは言葉を交わすことはございません。なのでどういった方なのかはとんと存じません」 「そうかあ……いや、無理を行ってすみません。とりあえず蕎麦をいただいて引き上げるとします」  流介がそう言って注文を口にしかけた時だった。見覚えのある若い男がふらつく足取りで店内に現れたかと思うと、「や、これは飛田さん……」と震え声で言った。
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