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「ややっ、どうしたんだね石水君」 「……実は『道理庵』のことが頭から離れず、剥製師とのすったもんだがあった翌日、矢も楯もたまらず『道理庵』に翻訳家を訪ねていったのです」 「それで?」 「植松氏の事件に関する話題をそれとなく振ったのですが、何やら煙に巻かれるがごとくうやむやにされてしまいました。そこから話がなぜか怪し気な方向に行きまして……」 「怪し気なというと?」 「今、外国の戯曲を訳しているんだが、どんどん登場人物にのめり込んで行って、気がつくと自分が翻訳をしているのか登場人物になって物語を訳させているのかわからなくなってくるんですよ、なんて言い始めましてね。気がつくと主に誘われて地下の一室に足を踏みいれていたのです」 「地下室に?何の目的で?」 「なんでも見せたいものがあるとかで……中に入った途端、主が「しばらく待っていて下さい」と言い残して次の間らしき別室へと消えてしまったのです。すると突然、部屋の明かりが消えて真っ暗になってしまい、僕は恐怖でその場に立ちすくんでしまいました」 「ほう、悪ふざけにしてはやけに念が入っていますな。それで?」 「再び灯りがついた時、僕の前には女の人が立っていました。そして女の人は何と……片方の手に人間の生首を乗せていたんです」 「人間の生首だって?」  流介は仰天した。殺人事件までは現実に起こり得る猟奇の範疇だが、女が首を手にしていたとなると、怪談以外の何者でもない。 「さらにですね……女が手にしている生首をよく見ると、うっすらと笑っているのです」  流介は講談めいた宗吉の語りにはて、どこまでが実際に見た話だろうかと訝った。 「女は薄暗い部屋の中を踊るような動きで一周すると、手にしていた生首をテーブルの上に乗せました。生首はテーブルに置かれた後、僕の方をまっすぐに見て、今度は大口を開け歯を見せて笑ったのです」 「石水君、そいつはきっと見世物のたぐいだよ。飲み物に薬でも入っていたのだろう。なんのために君を脅かしたのかはわからないが、たぶん殺人事件の話題を忘れて帰るよう主が仕組んだ物に違いない」  流介がそう言うと、宗吉は「そうですかねえ……確かに見たんですが」と身体をぶるりと震わせた。 「ううむ、道理庵……あいつは魔術師ですよ。あいつに奇妙な物を見せられたせいで、昨日から調子が狂いっぱなしなんですから」 「おい、倒れるなら家に帰ってからにしたまえ」 「とにかくお店か「蔵」に連れて行きましょう」  亜蘭が言い、流介は「仕方ないな、どれ……」と言って宗吉の身体を担ぎ上げた。
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