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「まさか、それが『道理庵』の主……」 「その通りです。植松氏は自分が愛した人物に、自分の殺害を依頼したのです」 「まったくわからないよ天馬君。二人はなぜそんな手の込んだことをしたんだい」 「最初に言った通りですよ。植松氏と『道理庵』の主は愛し合っていたんです」 「あっ……まさか」 「町の名士と文学者……もっとも巷に広まってはいけない不名誉な噂があるとしたらなんでしょう」 「男色……同性愛ですか」 「その通りです。……もっとも、衆道といえばこの国では歴史も古く極めて普遍的な文化です。しかし御一新からこちら、乱れた行いはけしからんという風潮が世の中に行き渡っています。男色を堂々と楽しむためには、それなりの工夫が必要だったのです」 「工夫と言うと……」 「まず、密会を気づかれぬようにしなければなりません。しかしあまりにも足しげく『道理庵』に通うと帰って疑いが持たれる。そこで遊郭にいる架空の女郎を設定し、それぞれがその女目当てに通っているという体で逢瀬を重ねていたのです」 「それはそれで悪い噂が立ちませんか」 「実業家が女郎屋に通うぐらい、男色の疑いを持たれるのに比べたらどうということはないはずです。文士にしても同様でしょう。つまり女郎や遊郭は彼らにとっては絶好の隠れ蓑だったわけです」 「では、植松氏はなぜ、『道理庵』に自分を殺すよう依頼した?しかも首を切れとまで要求している。同性愛の話はともかく、正常な神経の人間がする要求とは思えない」 「そこに人知れぬ深い苦悩があったのだと僕は考えます。むしろその「本当の事情」こそが奇妙な殺害依頼の理由だったのではないでしょうか」 「本当の事情とは?」 「あくまでも想像ですが……植松氏と田倉氏は同一人物だったのではないでしょうか」 「植松氏と田倉氏が同一人物だって?」 「はい。これに関してはある小説がひとつの手がかりになるかもしれません。スチーブンソンという作家が書いた『ジキル博士とハイド氏』という物語をご存じですか」 「いや、知らないな。それはいったいどういう話なんだい?」 「簡単に言うと、ジキル博士という科学者が別人になる薬を使って『ハイド氏』という無法な人間になって心の奥に秘めた犯罪への欲求を満たすという話です」 「つまり、植松氏には別人になりたい欲求があり、その薬だか何だかを使って「田倉」になっていたというのかい。話を聞く限り田倉氏は植松氏とは真逆で強引な人間だったそうだが、そんな人間になってどうしようというんだい」 「そんな人間だからこそ、あえてなったのかもしれません。真面目な金融業者である植松氏の心の奥に人のことなどどうでもいい横暴な振る舞いをしたい欲求があり、それが薬の力で「田倉」となったのではないかと僕は考えています」
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