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 石水善吉が流介に語って聞かせた二ヵ月前の殺人事件はなるほど猟奇の名を冠するにふさわしい異様な事件だった。  殺されたのは金融業を営む植松恵次郎という男で、死んだ場所は宝来町にある『冲船屋』というカフェ―風酒場の二階だった。  事件当日、恵次郎は女性らしき人物と共に店の暖簾をくぐっており、遊女のようにも見えたというその女性は事件後、忽然と行方をくらませてしまったという。 「しかも、現場に残されていた被害者の死体には首から上が無かったそうだ。どうだね、まさに猟奇だろう 「聞けば聞くほど不可解な事件ですね。女が大の男を首なし死体にしてしまうとは」 「まあ息子が仕事の合間にその女に関する噂を集めているようだが、この二ヵ月の間警察が見つけられなかったんだ。まあ難しいだろうね」 「貴重なお話をありがとうございました」 「なに、また暇になったら訪ねてくるといい」  善吉がそう言って記事を書く仕事に戻ろうとした、その時だった。がらりと引き戸が開いて洋装の若い女性が姿を現した。 「――あっ、旦那様。またここにいらっしゃたんですか。しばらく新聞の発行はないっておっしゃってたのに。奥様にばかりお店を任せてないでたまには帳場に顔を出してくださいな」 「宗吉はどうした。あいつがいれば十分だろう」 「宗吉さんも旦那様と同じで取材と称して出て行ったっきり戻ってきません」 「やれやれ、しょうがないな。……あ、こちらの方はかの『匣館新聞』の記者さんだ。それこそ私のような紛い物じゃない、本物の新聞記者さんだよ」 「あれ、失礼しました。私、隣の薬局で働いている平井戸(ひらいど)といいます。実家は末広町の写真屋です」 「はじめまして。僕は『匣館新聞社』の飛田といいます」 「旦那様を訪ねてきたということは、記者さんも旦那さまや若旦那様と同じご病気なんですね」 「病気だって?」 「はい。「猟奇好き」というご病気です。……もっとも、私も同じ病気ですけど」  平井戸と名乗る女性はからりと明るく言うと、にっこりほほ笑んだ。                  ※  飛田流介が地元、匣館新聞の記者になったのは三年前、二十歳の時だった。  匣館は北開道の南端の町で、その歴史は鳴事維新のはるか以前にまでさかのぼる。  港町である匣館は古くから海運の要所として栄え、教会や領事館など異国風の建物も珍しくない。そんな時代の風が吹き抜ける町で、巷の出来事をいち早く記事にして庶民届けるのが流介の仕事だった。
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