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「いやあ、よくこれだけの洋書を集めましたね。学者さんも顔負けだ」  床から天井まである本棚と、ずらりと並んだ外国語の背表紙を見た途端、飛田流介(ひだりゅうすけ)は感嘆の声を上げた。 「まあもの好きが高じてだろうね。古本屋ばかりじゃなく寄港する外国船の乗り組員からも頂いたりしとるからね」  古びた倉を改造してこしらえた編集部兼印刷室で、石水善吉(いしみぜんきち)は流介を前に破顔した。 「しかし趣味とはいえ新聞の発行は大変な手間です。本業に差し支えたりはしないんですか?」 「本業と言うと薬局の方かね。そいつは元々家内が仕切っておったからね。後は息子と店番の子がいれば十分だよ」 「なるほど、それはまたできた奥さまですね」  流介は呵々大笑する老人に半分呆れつつ、道楽も度を過ぎれば立派な仕事だなと妙な感心の仕方をした。  石水善吉は本業である薬屋の傍ら、同好の志のために『猟奇新聞』という個人新聞を発行している人物だ。  もともと善吉は流介の上司である笠原升三(かさはらしょうぞう)の知人で、仕事の手助けになればと紹介してくれた人物である。そして流介の仕事とは、地方新聞である『匣館新聞』の読物欄に謎解きのある奇譚を連載することだった。  ――これほどの博識となると、たとえ奇譚の元となる話を聞きこんでもそのまま記事にはできないな。うっかりすると『猟奇新聞』と寸部たがわぬ話を書いてしまいかねない。  流介は善吉のような奇譚愛好家はどこにでもいるのだなと思いつつ、「近頃は都会も田舎も大変な速さで開けていますが、特に興味を引かれた事件はありますか」と尋ねた。 「ううむ、先ほど君が話してくれた事件などはまさに奇譚そのものだが……ここ二、三カ月でいえばやはり『冲船屋首切り事件』だろうな」 「首切り事件?」  流介は異様な事件の呼び名に、思わず膝を乗り出した。奇譚読物を手掛けていながら、そのような猟奇そのものの事件を知らなかったとは。 「植松恵次郎(うえまつけいじろう)という金融会社の社長が宝来町の近くで殺された事件だよ。場所が色街の近くということもあって事件直後は随分と騒がれたものさ」 「はあ……そいつは存じませんでした」  流介は己の不明を恥じつつ、「で、どんな事件なんです?」と改めて膝を乗り出した。
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