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告白もなく
あなたが近くにいたら、きっと近づく努力をしてしまっていた。
誰かに惹かれる恋愛は、ここ3年してこなかった。
何の気無しに開いたページには、あなたの
丁寧に書かれた細いボールペンの文字がしなやかに踊っていた。
綺麗に並んだ文字に泣きたくなった。
「ああ、やっぱり思った通りの人なんだ」
優しい言葉が綴られていた。
〜卒業おめでとうございます。
いつも目を細めて、不器用に笑う君のかわいらしい挨拶が印象的でした。高校生になっても、
持ち前のがんばりで素敵な女性になってください〜
中学の卒業式の前日だった。
好きな右腕が、すぐそこにあった。
「なんだぁ?まだ帰らないのか。遅くなるから、
明日のために早く帰った方がいいぞ。
式の途中で寝るなよ」
頭の前の方を軽く触れるか触れないかの短い時間で、現実に引き戻されてしまった。
「先生、明日は朝、早いんでしょ。先生こそ早く帰らないと、大変じゃない!いっぱい書いてくれてありがとうございます」
先生の右腕のシャツのボタンは、あと少しで取れてしまいそうだった。筋ばった男の人の腕だ。
一旦、教室から離れた私は、学校からそう離れていないバス停に辿り着いたが、右袖口のボタンを思い返して教室に舞い戻るように駆け出した。
教室の入り口でセンセイ、と声に出しかけて、
後退りした。
副担任のアサナ先生が、右袖口を掴んで裁縫道具を机に置いて笑うのが見えた。
あ、出る幕じゃなかった。
私は再び、バス停に足を運んで先生の右腕を思い出していた。
翌日。
卒業式は滞りなく済んだ。
私は、先生宛ての色紙を持って、クラスの他の子たちのメッセージを読んでは頭を捻っていた。
「どうしよう。あとは私だけだ‥‥」
メッセージ、言葉、お別れの一言、さよなら以外の何か‥‥
言葉をいくら思い出そうと無駄に思えてきた。
ランタナの花の絵を書いた。
花言葉は、いくつかあるけれど。
「心変わり」
この恋に似た気持ちは終わりにして、誰かを探してみようという決意でもあった。
「ねぇ、先生に渡す色紙は書けた?もう、みんなで写真撮る時間だよ」
クラスで人気者のチナちゃんが、私が書く色紙の端っこを軽くつまんだ。
「うん、行く」
チナちゃんは、私の手を取って仲間たちが居るところに誘ってくれた。
色紙は代表者から先生に渡った。
3年の月日が流れた。
私は大学生として単位の取得に追われていた。
中学生時代の思い出は、すっかり記憶とともにセピア色に変化していた。
先生の右腕も、思い出さなくなっていた。
「お、あぁ、あの、エス中学のカザミさん」
語尾を上げて、私を振り返ったのは先生だった。
先生はあの日と同じ笑顔で、そこにいた。
「はい、え、何でココにいらっしゃるんですか」
私は一瞬で中学生に戻ってしまっていた。
「先生は、ここのOBなんだよ。恩師に呼ばれて来てたんだ。元気そうだな」
右袖口のボタンは、きっちりと付いていた。
「先生な、聞こうと思っていたことがあって」
そう言うと、少し小声になって私の耳に顔を近づけた。
「色紙に描いたアレ、何だったんだ?紫陽花にしちゃ季節がずれてると思ってな」
先生は花に詳しくはなかった。
私は思い出せない振りをした。
色紙なんて、簡単に捨ててしまえるものなのに。
そういう気持ちを大事にする人なんだ。
「来月からな、ここの学部の手伝いにちょくちょく来ることになったよ」
私は嬉しくて口に手を当てて、喜ぶ気持ちを押さえるのに必死だった。
「これから、よろしくな」
先生は、ずっと前から付き合いのある同士みたいに右腕を伸ばした。
私は袖口のボタンを気にしながら、先生の右手のところまで手を伸ばして、はい、と小さな声で
答えていた。
夕空が優しく夜を連れてくる気配が近づいているのを教えていた。
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