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私は海岸の砂浜にしゃがんで絵を描きながら、浦島太郎の歌を歌っていた。絵といっても、丸や三角を描いているだけ。絵というものでもない。だって私は絵がうまくないもん。
四月が終わる今日は、あたたかい一日だった。薄手の長袖シャツに短パンでも、もう寒くなかった。
放課後になると、小学校の裏にある海岸に来て海を眺めるのが私の日課。友だちがいなくて、放課後は帰るだけの私に、海は語りかける私の言葉をすべて受け止めてくれる友だちのような存在だった。
「今日ね、ダイキくんとお話しできたの。席替えしちゃって普段はあまり話せなくなっちゃったけど、今日はね、体育のリレーで同じグループになれたんだよ。でも私、足が遅いから、ビリになっちゃった。それでもダイキくんは「アオイ、がんばってたよ」って言ってくれたんだ」
ふいに今日のことを思いだして顔が熱くなった。ダイキくんは同じクラスの男の子で、私の好きな人。男の子でも女の子でも、私はだれと話すのも緊張しちゃうけど、ダイキくんとは自然に話せるんだ。はじめて同じクラスになったのは小学四年生のとき。それから五年生六年生とずっと同じクラスで、いつも一緒にいるわけじゃないけど、クラスの班行動とかグループ活動で一緒になると、私はダイキくんとずっとお話をしている。
ダイキくんもあまり友だちが多い方じゃない。でも誰にでも優しいし気さくな人だから、クラスメートのみんなから信頼されている。まとめ役やリーダー役にはならないけれど、縁の下の力持ちっていうのかな、ちゃんとグループを支えてくれるような人だ。運動神経は普通だけど、頭がすごく良いんだよ。私の学校ではテストの点数のトップ三人までは発表されるんだけど、ダイキくんはいつもその三人の中にいる。算数と理科だと、一位のことも多い。私は半分の点数しか取れないから、ダイキくんがうらやましいと思うこともあった。でもね、ダイキくんができるのは当然で、ずっと塾に通って勉強しているらしいんだ。中学受験をするかはまだ決めてないらしいけれど、きっとどこにでも行けると私は思う。
ただ、地元の市立中学校へ進学予定の私としては、ダイキくんに中学受験をして欲しくない。同じ中学校に通ってほしいって思う。でも、そんなことをダイキくんに言うクラスメートはいないし、私にもきっと言えない。だから私たちが卒業したら、ダイキくんとはお別れになるのかもしれない。そう思うと、私は最近、胸がずんって重くなって苦しくなる。まだ四月が終わるころで、卒業まで十カ月以上あるのにね。
「告白するのは怖い。このまま友だちでいたい。でもそれで良いの?」
寄せては返す波。その波間に起きる白い泡が、私の淡く熱い気持ちとリンクする。
もうすぐ四時の時報が鳴る。そしたら私は立ちあがって家に帰らないといけない。明日からゴールデンウイークの連休だから、ダイキくんには会えない。さびしいな、と私は小さくため息をついた。
ざざーん、ざざーん……。
波の音がまるで私をなぐさめてくれているみたいだ。私はうつむいて砂浜にまた絵を描きはじめた。相合傘のマークに、自分の名前を書く――。
「きゃー、ダメ。書けない!」
恥ずかしさで、ダイキくんの名前を書けないまま、相合傘を手のひらで消していく。
「あんた、何してんの?」
「え?」
とつぜん目の前に影ができた。そして頭上から降ってきた女の子の声。私はとっさに見上げようと顔を上げると「ゴンッ」と何かに頭がぶつかった。
「いた……」
「痛いじゃないっ!」
「ううっ……」
私は唸りながら頭をさすって周囲を見渡した。頭をぶつけた衝撃で前後が分からない。でもすぐに私の頭がぶつかった女の子を見つけた。
その女の子は、あごをおさえて体をくねらせていた。どうやら私の頭と彼女のあごとがごつんと衝突したみたいだ。私はとっさに立ち上がって謝ろうとした。けれど言葉を失ってしまった。キレイなピンク色のベールが視界に広がったからだった。
「わ、わあ……」
女の子の髪は長くてキレイなピンク色をしていた。服装は普通で、白いシャツに水色のワンピースすがた、足元は編み上げのサンダルをはいている。彼女は痛めたあごから手を放すと、その顔もキレイだと私は思った。つんとしたくちびるは赤く、大きな目は深海のような暗い青色をしている。人間じゃないと思ってしまいそうなほど、キレイな女の子だった。私は生まれて初めて「美しい」とさえ思った。
「あなた、謝ってくれないの?」
「あ……ごめんなさい」
女の子の目がキッと私をにらんだ。すぐに怯んだ私は、視線を下げて謝罪の言葉を言う。美しいこの子に、叱責されることほど恥ずかしいことはない、そんな気持ちだった。
「もう、頭を上げていいわ。そこまで怒ってないし、急にのぞきこんだアタシも悪かったわ」
その子はそう言って手を差し伸べた。私は首をかしげてその手を見つめる。
「アタシは、乙姫夏子。海底人よ。乙姫一家の次女で、今日は偵察がてら海岸に出てみたの」
私はぼう然としながらその手を眺めていた。きっとこの手はあいさつの意味だろう。はじめまして、よろしくお願いします、という意味の、手。けれど私はその手を取れなかった。海底人だ、とか乙姫一家の次女だ、なんて立て板に水で言われても、私にはちんぷんかんぷんだった。
「なによ、握手を知らないの? あなた、本当に人間?」
夏子は開いた手をグッと私の顔面にまでつきだした。けれど海底人を名乗る人物に「あなた、本当に人間?」だなんて言われた私は、途方に暮れるしかない。
「えっと、人間だと思いますけど」
「それで、握手を知らないわけ?」
「知ってます」
私は短パンのすそで右手をごしごしとふくと、その手を夏子へ差し出した。夏子は満足そうにその手をにぎった。ひんやりとした手だった。
「あなた、名前は?」
「鈴村アオイ」
「そう、アオイっていうのね。あなた、アタシの付き人になりなさい」
私は「付き人? 付き人って?」とたずねた。すると夏子は「付き人は付き人よ」と理解できていない私をなじるように言った。
「アタシ、海底ではそこそこのお嬢様なんだけど、陸に上がるには一人じゃないといけないって言う掟にしたがってきたの。だから陸では陸の付き人が必要なのよ」
要領を得ない回答に、私は苦しんだ。
「そもそも、海底人ってなんですか?」
「海底人は海底人よ。なによ、人間なのにウラシマタロウとか乙姫って言葉、知らないの? 人間の常識って習ったのに、違うじゃない」
ようやく夏子は私の手を放して腰に当てた。偉そうな態度なのに鼻につかず、むしろその立ち方が様になっている女の子だった。身長は私よりわずかに小さいというのに、だ。
「そもそもアオイ、あんたウラシマタロウの歌を歌っていたでしょう? だからそれを道しるべに陸に上がってきたっていうのに」
「え、聞こえてたの?」
「陸が見えてきたころに、あんたの歌が聞こえてきたの」
恥ずかしい……私は思わず顔を両手でおおった。今まで音痴だと言われたことはないけれど、合唱の授業でも極力は声を出さないようにしていたし、家族とでもカラオケにはいかないというのに、初対面の人に歌っているところを聞かれてしまったというのは、私にとってとても恥ずかしいことだった。
「まあまあ上手かったわよ」
「褒めないで……」
「褒められるのがイヤなの? あんた、変わってるわね」
夏子に言われたくない――と思っても、私にはそんな反論はできない。私は指先のすき間から夏子をうかがった。
「あの、浦島太郎が竜宮城に行ったって話、本当なの?」
「大昔の話だけどね。アタシのおばあちゃんのおばあちゃんぐらいかな」
「それで大昔なの?」
私は夏子のおばあさんのおばあさんという人を想像してみた。せいぜい二百年ぐらいの昔に思えた。けれど浦島太郎のおとぎ話はもっと昔だって学校の先生の話で聞いたことがあった。
夏子は呆れたように笑った。
「あんた、海底人と人間を同じにしないで? 寿命も成長も人間の二倍よ」
「え?」
私は目を丸くした。寿命が二倍なら、長寿の人ならそれこそ二百年近く生きられるということだろうか? 成長も二倍というのはどういうことだろう?
「アオイにはアタシ、何歳に見える?」
私は「えっと」と夏子をしげしげ見ながら考えた。身長だけじゃなく、服装もクラスメートの女の子たちと似た、子ども向けブランドの服と思われた。
「同い年……?」
「アオイは何歳なの?」
「十一歳」
「あらあら、若く見られたもんね」
夏子はうれしそうに笑う。そして右手でブイサインを見せた。
「二十歳よ」
「二十歳!」
私は思わず後ずさった。同い年にしか見えない夏子が、まさか成人しているとは思っていなかったのだ。すると私の気持ちを察したのか、夏子は吹きだしながら首を横に振った。
「ちなみに成人は十五歳。海底人は十五歳から大人として見られるの。それで、だいたい四十歳ぐらいまでに結婚するのよ」
夏子の説明に、やはり自分と違う文化を感じずにはいられなかった。
「ほ、本当に海底人?」
「なによ、疑う気? なんなら海中でも呼吸ができて会話もできるところ、お見せしましょうか?」
私は勢いよく首を横に振った。
「結構です」
夏子は「あんたって臆病なのね」と肩をすくめた。
すると時報の「夕焼け小焼け」が流れ出した。どこからともなく流れてきた曲に、夏子は肩をびくつかせた。
「なに、何の合図?」
「四時を知らせる時報だよ」
「なんでアンタ、この曲にはビビんないのよ!」
「だって毎日、聞いてるから」
私は苦笑しながら夏子を見た。突然の時報に不満そうな夏子は、くちびるをとがらせている。
私は砂浜の上のランドセルを持ちあげて、カバーについた砂を払うと肩に背負った。
「じゃあ、その……そろそろ帰らないと」
「はあ? 今、来たばっかのアタシを置いていくわけ?」
「でも、子どもは帰る時間なんだよ」
私は困ったように眉根を下げた。夏子は「イヤよ」と言って私のうでをつかんだ。
「大人がついていてあげるんだから、あんたも付いてきなさい」
「見た目は私と一緒だよ」
「アタシが子どもに見えるって言いたいわけ?」
夏子のドスをきかせた声に私は「ひえっ」と小さく悲鳴を上げた。
「そもそも、私にどうして欲しいの?」
「そうか、その話をしてなかったわ」
夏子は私からうでを離すと地面に座りだした。あぐらをかく様子からはまったくお嬢様に見えない。
「何してんの。話すから座りなさい」
「でもあぐらは、はしたないよ?」
家でお母さんに叱られたことを思いだしてそう言うと、夏子は「は?」と口を開けてぼう然とした。
「この座り方は親しい間柄での礼儀の一つよ。むしろお行儀のいい座り方なんだけど」
あぐら一つをとっても文化がちがう。私はいよいよ夏子が人のすがたをした人間ではない何者かであるのだと理解した。そしてあきらめるように向かいに座った。私はひざを抱える様にして座る。
「アタシ、結婚相手を探しに来たの。あのね、海底人は海底人と結婚する人が多いの。でも、海底人だからって、同じ人種と結婚しないといけないわけでもないの。陸の上の人間と結婚しても良いのよ」
とつぜんの「結婚相手を探しに来た」という夏子の告白におどろく暇も与えられず、夏子はしゃべり続ける。私は「そんなことできるんだね」と相づちを打つことしかできなかった。夏子は続ける。
「もちろん、お互いに事情を知ったうえでの結婚じゃないといけないから、海底人同士より制約はあるんだけど」
夏子の言葉で私はとあるテレビの特集を思いだした。異国で国際結婚をした女性や、日本で暮らす外国人が苦労するという話で、ついこの間も観たばかりだったからだ。
「うん。外国の人と結婚するのも大変だってよく聞くよ」
「そうね。でも、アタシの家族、乙姫一家は代々、ウラシマタロウを探して結婚したの」
「ウラシマタロウ? えっと、昔話の浦島太郎とちがうの?」
夏子はどう説明しようかと悩む素振りを見せた。一分も考えると、夏子は「そもそもちがうんだけど」と前置きをして説明をしてくれた。
つまり、彼女が言うには『浦島太郎』というのは過去に存在した実在の人物のことだという。そして『ウラシマタロウ』というのは、人間の中でも海に好かれ海を愛する者のことを指すのだという。だから『浦島太郎』は『ウラシマタロウ』という種類に含まれる人間だという。ややこしい話ではあるが、つまり夏子は人間の中から『ウラシマタロウ』と呼ばれる種類の人間を探し出して結婚相手にしたい、ということらしかった。
そこまで説明をされて、私は思った――荷が重すぎる、と。
「ねえ、夏子ちゃん」
「なに?」
私は夏子のたくらみを理解した上で答えた。
「私に付き人は無理だよ。助けるとか、私にできることはないよ。だって私、子どもだもん」
夏子は私の言葉に、きっと落胆すると思った。だって今までにもそう言うことがあったからだった。
「アオイちゃん、ちょっとこの作業を手伝ってほしい」
クラスメートの女の子にそう言われて、作業の内容を聞いたら「私にはムリだ」と思った。ムリなことを「できる」と言って、結局出来なかったら迷惑をかけちゃう。だから前もって「できない」と断ろうと判断した。
「ごめんね、私にはこれ、できないよ」
そう言った時のクラスメートの顔を、よく覚えている。小学三年生のときだった。ひどくショックを受けた顔を見せて、次の瞬間には鬼のように怒った。
「アオイちゃんって、冷たいんだね。やりたくないならそう言えばいいじゃない」
ちがう――と否定しようにも、その前にクラスメートの子は別の子のところへ行き、私の悪口を言った。
「アオイちゃんったら、やりたくないって言えばいいのに、「私にはできない」って言ったんだよ。嘘つきだよね」
それからしばらく、クラスメートの女の子のグループから外されるようになった。
そのときの女の子の顔が脳裏によぎった。でも、私はできないことをできるなんてウソをつきたくないし、できないことでもやってみようなんて自信もなかった。
夏子は笑った。
「何を気負ってるのか知らないけど、アオイにならできるわ。だって、あなたもウラシマタロウだから」
夏子は何を言っているのだろう。私は困惑した表情で何も言わずに夏子を見ていた。
「あら、自分がウラシマタロウって自覚がなかったのかしら? まあ、自覚ある方がめずらしいんだっけ?」
夏子はそう言うと私の両手を自分の両手と突き合わせた。またひんやりとした感覚があった。
「海底人だからなのかな。ウラシマタロウってまず、雰囲気で分かるのよ。海が好きそうだな、とか、海に愛されてそうだなって。次に、ウラシマタロウの人はよく海にいる人。アンタもそうでしょう?」
私はしずかにコクンとうなずいた。
「それに、こうして触れていると、穏やかな波のような、水の静けさに似た感覚があるの。これはあんたにもわかるはずよ」
夏子とふれ合う手が、いつまで経っても熱を帯びず、ひんやりとしているのは、夏子がそういう体質だからだと思っていた。けれど、違うというのだろうか。
「海底人だって、体温は人間と同じ、三十六度や三十七度なの。海の生きものだって、体温が高いものは多い。だから、普通の人間とふれ合えば、本来なら手と手を合わせているんだから、汗ばんでくるものよ」
そう言うと夏子はそっと手を放した。そして両手の手のひらを見つめながら言った。
「海を出て最初に会った人間がアオイだった。そしてアオイはウラシマタロウだった。アオイが男の子だったら、迷わず結婚していたわ」
私は顔が真っ赤になった。それはプロポーズも同然に聞こえたからだった。
「だ、ダメだよ! だって私、まだ子どもだもん!」
「あら、一生子どものつもり? アタシの方が寿命が長いんだもの、数年や十年ぐらい、余裕で待てるわ」
それでも私は「ダメだよ、だって、夏子ちゃん美人だから」と言った。夏子はその言葉に「なにそれー!」と言って大笑いした。
「アオイだってかわいいじゃない。アタシにはちゃんと釣り合うわ」
「で、でもでも」
「アオイ、ストップ。そもそもアオイは男の子じゃないからね。さすがに結婚ができないことぐらい分かってるわ」
夏子は泣きすぎて目元に浮かんだ涙を拭った。からかわれていたことに気づいた私は、「夏子ちゃん、からかわないで」と怒る。
「ごめんって。悪気はなかったの。アオイがかわいいから」
「ウソ。かわいいって私に使う言葉じゃないよ」
私は夏子からそっぽを向いて言う。私はかわいくなんてない。お父さんとお母さんでさえ、言ってくれない。クラスメートも言ってくれるわけがない。だってどこでもしずかに本を読んでいるだけの、メガネをかけた私をみんなこう呼ぶんだ。『がり勉地味子』って。
「なによ、アオイをかわいいって思ったのは本心なのに」
夏子はそうつぶやくと足を投げ出して座り直した。水平線には太陽が沈んでいく。
私と夏子はしばらく並んで海の音を聞いていた。
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