(2)あっちにこっちへ

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「なんかさっきのヤツ、イヤな奴だったね。しかもイケメンじゃないし、ウラシマタロウでもなかった。時間を無駄にしたわ!」  私は夏子を連れて、黒部先生と遭遇したところとは別のエスカレーターを上がっていた。夏子はよほど黒部先生が嫌だったのか、ここには書き残せないほどの罵詈雑言を吐き出す。でもそれが私にはうれしかった。人の悪口を言うことやそれに同意をすることは良くないことだと思う。けれど黒部先生の私に対する態度や言動には、さすがの私も本当のところは抗議をしたかった。 「仮病は良くないって言ったよな」  黒部先生が言ったことは、ウソだ。去年の運動会で、私は体調を崩した。けれど保健室に行くことは許されず、そう言われたのだった。その運動会以来、黒部先生に近づくだけでこめかみが痛んだし、お腹もぎゅるると下しそうになっていた。それを黒部先生はいつも「鈴村の仮病」と言って、保健室には決して行くことを許さなかった。だから去年から一度も私は保健室に行っていなかった。保健室に行くことがばれれば、今度は黒部先生になんていわれるかわからなかったから――。 「ねえ、アオイ」  エスカレーターで上のフロアにつくと、私は二歩進んだところで立ち止まった。黒部先生のことを思いだして気持ちが沈んでしまったのだ。 「大丈夫? アオイ」  不安そうな表情の夏子はジッと私を見つめている。私は「大丈夫だよ」と言った。 「ウソだ」  夏子は厳しい顔で静かに言った。 「ねえ、アタシにはウソつかないでよ。アオイ全然、大丈夫そうじゃないよ」 「……夏子ちゃん」  私はふう、ふう、とゆっくり息を吐いて冷静になろうとした。もう黒部先生の前じゃない。圧力も強制も恐怖もない――目の前の力強い夏子のひとみを見ていると、少しずつ安心感が体中に広がっていく。 「今度こそ、大丈夫だよ、夏子ちゃん」 「うん、今度はホントみたいね」  夏子も安心したようにひと息ついた。 「さて、次はどうする?」 「……どうしたか、聞かないの?」  歩きだそうとした夏子の服のすそをつかんで彼女を制止した。すると夏子は首をコテンと傾けた。 「なに、聞いてほしいの?」 「えっと、聞いてほしくは、ない」 「ほら。なら聞かないわよ」  夏子はそう言って歩きだす。目の前には大型書店の看板とたくさん本が並ぶ棚が等間隔に並んでいた。 「アタシ、これでも読書家なの。ほら、アオイ。おすすめの本を教えなさい」  私は目の前の夏子が気遣っているわけではなく、本心から私の事情を聞くつもりがないのだと分かった。それがとてもうれしくて、私の心を落ち着かせてくれる一番の薬になった。 「うん、いいよ。まずはね――」  私は跳ね上がるように一歩を踏み出した。
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