(2)あっちにこっちへ

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 私は児童書ももちろん読むけれど、図鑑や展覧会の図録が好きだった。博物館や美術館で本物を見るのも好きだけれど、周りに人が大勢いる状態ではゆっくりと鑑賞できないんだ。だから博物館で実際に歩き回るより、美術館で作品に触れるより、それをまとめた図録や図鑑を一人で見る方が好きだった。 「へえ、アオイってなかなかおもしろいのね」  私は昨年の夏に行われた、とある科学館の企画展の図録を見つけると、夏子にそれをすすめていた。夏子は何度も「へえ」と興味深げにページをめくりながら「アオイっておもしろい」とくり返した。 「変わってるって言われたことはあるけれど……」  まさか、おもしろいと言ってくれる人がいるとは思っていなかった。変わってるね、とはクラスメートによく言われた言葉だ。あとは「僕も同じ」と言われたことがあった。――ダイキくんだった。 「あのね。私と同じように、こういう図鑑や図録を好きで見る人は他にいるんだよ」 「へえ。例えばそこの男の子みたいに?」  夏子が手元の図録を閉じると、私の後ろを指さした。すると「あ、やっぱり!」と言って笑いかけてきた少年がいた。決して見間違えない。そしてできることなら会いたくはなかった――ダイキくん、本人だった。 「ど、どうしてダイキくんがいるの?」  私はドキドキしている胸を押さえながら、息も満足につけないまま尋ねた。 「アオイこそ。休日に会ったのって、もしかして初めてじゃない?」  ダイキくんはそう言って私のとなりに立っていた夏子に視線を向けた。やだ、見ないで――と思ったけれど、私の口は勝手に「友だちの乙姫夏子ちゃん。遠くに住んでて遊びに来たから、案内してるんだ」なんて、紹介していた。 「へー、なんかめずらしいな。アオイが誰かといるって」 「そうかしら? アオイにだって友だちはいるのよ」  ね! と夏子は私の方を見て笑う。私は曖昧にうなずいた。 「僕は清水ダイキ。アオイと同じクラスなんだ。よろしく」 「ええ、よろしく」  夏子はニヤニヤとしながら私を見ている。その視線も私には恥ずかしくて(見ないで)と思ってしまった。 「それよりダイキくんも本屋に来たのはどうしてかしら?」  私から視線を反らさないまま、夏子はダイキくんにたずねた。 「ああ、新しい図鑑が出たって知ったから、どんなのか見に来たんだ。お年玉もまだ残ってるし、良さそうなら買おうと思って」 「どれ?」 「これだよ、海底生物図鑑」  私は一歩下がって夏子とダイキくんの会話を聞いていた。海底生物には私は詳しくない。けれど夏子ならむしろ専門家だ。私の予想通りで、ペラペラとめくっていくダイキくんがときどき口にした疑問に、夏子はスラスラと答えていった。 「夏子は物知りだな、すごい!」  この短時間で、夏子はもうダイキくんから呼び捨てにされるまで仲が良くなっていた。私は夏子のことが好きだけれど、ダイキくんと仲が良くなっていくのをただ見ているだけなのはつらかった。 「まあ、これくらいはね――じゃあ、そろそろ行くわ。アオイもアタシもお腹空いてきたから」 「そっか。僕は本を買ったら家族と合流して帰らないと」 「そう。じゃあね」 「ああ、またな。アオイも、また」  私は「またね、ダイキくん」と手を振る。その笑顔が引きつっていることに、どうかダイキくんが気づきませんように。  夏子に引っ張られるように本屋を出ると、夏子は突然笑いだした。 「もう、なんて顔してんのよ、アオイは」 「え?」  夏子はそう言うと、私の両頬をつかんで引っ張りだした。痛い。 「いたいいたい!」 「もう、アタシがダイキくんを取るとでも思ったの?」 「っ」  私は痛い、と言わなくなった。すると一拍遅れて夏子も頬を引っ張るのをやめた。 「良い人だとは思った。でもウラシマタロウじゃないし、アタシのタイプじゃないわね」 「夏子ちゃんのタイプ?」 「ええ。結婚相手にはもちろん、いろんな条件があるわ。アタシのわがままを受け入れる懐の広さ。アタシの美貌に見とれない、ちょっと鈍感なところ、とかね」  私はそんな条件に合うウラシマタロウがいるのだろうか、と疑問に思った。 「でも、性格だけじゃなくて、見た目も気に入らなきゃ、百年も百五十年も一緒にはいられないでしょう?」 「そもそも人間はそんなに生きられないよ」  私の反論に夏子は「そうでもないわよ」と笑顔で答えた。 「浦島太郎の物語を忘れたの? 海での時間と陸での時間はちがうのよ」 「そうだったね」  浦島太郎が竜宮城から陸に戻ってきたとき、家族はすでに年老いて死んでしまった後だった。それなら海底人の成長が人間とちがうことも、海と陸での時間の進み方がちがうのも納得できた。 「そう考えると、夏子ちゃんの旦那さんを探すのって大変なんだね」 「そうよ。どこの世界でも婚活は大変なのよ。良い男はすぐにだれかのものになっちゃうし」  夏子はそう言うと、目の奥を燃やして言った。 「だから、アタシはなおのこと、陸でウラシマタロウを見つけ出すの。アタシだけの王子様、運命の夫、ウラシマタロウを」  その夏子の言葉に、私はふと白馬先生のすがたが浮かんだ。 「ねえ、白馬先生なんて夏子ちゃんの旦那さんに良いんじゃない?」 「はあっ?」  夏子は目が飛び出しそうなほど大きく見開いて私を見た。 「な、ななな、何を言ってるのよ、アオイ!」 「だってさ、白馬先生は懐が広いし、昨日の様子だと夏子ちゃんのかわいさにやられてなかったし、それにほら。王子って名前だよ?」  夏子は急に顔を真っ赤にさせて怒った。 「なしなし、なしよ! あんな朴念仁!」 「ぼ、ぼく?」  言葉の意味を知らない私に、夏子は目を反らしながらも「わからずや、とか、愛想のない人を呼ぶ言葉よ」と説明してくれた。それを私は否定する。 「白馬先生はちゃんと話せば分かってくれる人だよ」 「そうかしら」 「それに、ウラシマタロウだって言ってたじゃない」  私の言葉に、夏子は眉をピクリと動かした。 「アオイ。いくら友だちでも、それ以上、白馬の話を続けるなら、アタシはこの帽子を投げ捨てるわ!」  その言葉にとっさに私は謝った。 「ごめん! ちょっと調子に乗った!」 「そうよ。アオイは友だちに対して容赦ないんだから。気をつけなさい」  夏子はようやく笑顔を取り戻すと、私に手を差し伸べた。 「お腹が空いてきたわ。すこし早いけれど、お昼にしましょう」 「うん」  私たちは結局フードコートには行かず、ショッピングモール外にあるコンビニでおにぎりやサンドイッチを買い込んで砂浜にもどって行った。そこが一番、落ち着く場所だとお互いに思ったからだった。 「人がたくさんいるのも、いろんなものが売っているのもおもしろかった。でも疲れたわ」  ペットボトルのお茶を飲みながら夏子はため息をつく。そして昆布のおにぎりにかぶりついた。私は朝、夏子がサンドイッチを食べていたのを見たせいか、タマゴサンドを買ってきて食べていた。 「アオイ、明日も来れるかしら?」 「天気が悪くなければ、平気だよ」 「天気は大丈夫そうよ。明日も晴れる空だから」 「そうなの?」  私は空を見上げてみた。たしかに今は雲ひとつない青空だった。 「海底人でも、気象予報ぐらいできるのよ」  夏子は鼻を高くしながらそう言うと、食べ終えたおにぎりの包装をビニール袋に入れた。そして目の前の砂浜をぐるりと見回した。 「明日は朝から砂浜で探すわ」 「ウラシマタロウを?」 「ええ。やっぱり海に来る人間こそウラシマタロウだと思うから」 「そうだね」  私もその考えに同意した。  私こそ、ウラシマタロウだと言われて、最初は困惑したけれど、今はすごく納得していた。潮の香り、波の音、砂浜の感触、水平線のかがやき。どれもが私の心を癒してくれる。学校やショッピングモール、そして家の中でも、何かと心が引っかかったりトゲが刺さったりすることが多い。けれど、海のそばにいると、心の毛羽立つものを溶かしてくれるようだった。 「ウラシマタロウって結構いると思ったけれど」 「ええ、いるわ。さっきのショッピングモールにも、すこしはいた。でも、ここにいる方が強くウラシマタロウのオーラを感じるわ」  夏子は潮風を受けて気持ちよさそうに目を細める。帽子を脱いで自由になった髪が揺れていてキレイだった。 「明日は十時。十時にここに来てちょうだい」 「夏子ちゃんはどうするの?」 「今日はもう、帰るわ」 「そっか。気をつけてね」  私が何気なくそう言うと、夏子はクスッと笑いだした。 「アタシは海に帰るだけ。気をつけるのはアオイの方でしょう? 車とか人とか、危険なのはアンタの方なんだから」 「そうだね。それなら私も海に帰れたらいいのに」 「あら、海に帰ったらダイキくんとはもう会えないかもよ?」 「それは、嫌」  拗ねるように私が答えると、夏子はまたカラカラと笑いだした。 「本当に、アオイはおもしろい子ね」  そう言って夏子は私の頭をなでる。  見た目は同い年ぐらいなのに、こういう仕草にドキッとする。やっぱり夏子は大人だな、私よりもずっと……そう思わずにはいられなかった。
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