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初めて湖に訪れたダリアは「きれい」と思わずつぶやいていた。
森の木々が湖を囲うようにおおっているところはかげが濃いが、湖上を照らす陽の光がまぶしく、その明暗が湖をいっそうかがやかせていた。その端に一艘のボートがつなげられていた。そのボートの上に一人の男性が腰かけていた。
「アニキがいる。よかったな、話ぐらいはさせてくれそうだ」
赤鬼は小さく跳躍をするだけでその男のそばに行ってしまった。ダリアのいるところから五十メートルも離れている。まるでシカのように軽やかで大きなジャンプだった。
ダリアも慌てて走り出して湖の男のそばへと行こうとした。しかし数歩進んだところで思わず足を止めてしまった。男の全体像が見えたことで、思わず呼吸が止まってしまったのだ。
男はつやのある紺色の長い髪を、肩から胸元にかけて流している。着ている服装はダリアをはじめとした王家や貴族の着用するような立派なものだ。
なのに、腰から下がタコなのだ。タコと同じ、八本の脚。それがボートの上や水面下でゆらりぬらりと動いている。半魚人の物語なら読んだことがあったが、半タコ人はダリアも知らない。百聞は一見にしかずと言っても、はじめて見るものには拒絶にも似たおどろきを感じていた。しかし、ダリアは首を横に振ってマイナスの感情を振り払った。なぜなら、さんざん怖いものと聞かされてきた赤鬼が、実際は普通の少年と変わりがなかったからだった。ならば見た目だけにとらわれず、話してみることはきっと悪いことではないはずなのだ。ダリアは小さく呼吸をして気持ちを整えると、大きな一歩で歩き出した。
「こんにちは、私がダリア・ポラリス、ポラリス王国の姫でございます」
「こんにちは、お姫さま。ぼくがこの湖底楼の主、シルエラだ。よろしく」
そう言ってシルエラが差し出したのは、手ではなくタコ足だった。
上半身が人間の彼がわざと手ではなくタコ足で握手をしようとしたのは、ダリアへのけん制なのだろう。そう理解してダリアは顔色を変えずにその脚をギュッとつかんだ。手のひらを吸いつくような吸盤と指先から抜け出しそうなぬめりに思わずゾッとした。
「あはは、よく握手してくれたね。人間じゃなくてもこの脚は嫌がるものだけど」
シルエラの方から脚を引っ込めてしまい、ダリアの手は宙ぶらりんとなった。
「とつぜんですが、アゼレアの代わりに、今からでも私を湖底楼へ連れていくというのは」
「無理。ぼくはアゼレアを気に入った。そして、一度逃げた君は信用に値しない」
ダリアの提案にシルエラはピシャリと返す。勢いのある拒否の答えに、ダリアは「ぐう」とうなった。引き下がる理由にはならないけれど、逃げた事実は明らかだった。
「それでも、アゼレアが身代わりになることを私自身が了承していないの」
「それは関係ない。アゼレア本人の希望で湖底へ来た。そしてその生活を受け入れようとしているんだ。むしろ君は邪魔にしかならない」
そのことばに、ダリアはよりムキになった。
「アゼレアは人間よ。人間は陸の上で生きる生きものなの」
「なら、アゼレアはすでに人間ではないのだろう。湖底でも生き生きと生きているのだから」
シルエラはこれ以上、話にならないとばかりに振り返ると、湖の水を手の上に集め始めた。それは鏡のようにアゼレアの姿を映し出した。
「ごらん、今のアゼレアだ。湖底楼の中では飛んだり走ったりしても息は切れないし、死を恐れて眠る必要もないんだ。そんな人生は彼女にとって不幸だろうか?」
その大きな鏡に映し出されたアゼレアは、たしかに元気な姿をしていた。
子どものように楼閣の庭を駆け回り、陸上では見ない花や生きものを追いかけている。表情は明るく、血色も良く見えた。
「そ、そんな……」
ダリアは絶句した。しかし頭をブンブンと横に振って叫んだ。
「それでも、これはおかしい! アゼレアが生きるべき場所は、暗い湖底ではない!」
認めたくないという苦しい思いに、ダリアは胸が痛くなった。
元気になるアゼレアを望んでいたというのに、こうして彼女と自分自身の願いがかなってしまった今、ダリアは身勝手なことを考えているのだろうか。
アゼレアが元気でも、そばにいるのがダリアではない。そんな事実が納得できなかった。しかしアゼレアに、そしてシルエラに対して成すすべのないダリアは、わがままっ子のように駄々をこねるしかないのだろうか。そんな思いを巡らすうちに、アゼレアを映していた鏡はすべて水にもどり、シルエラも別れのことば一つ残さずに湖底へともどっていってしまった。
どうしようもない、ぶつけるあてもない苦い思いに、ダリアは地団駄を踏んでいた。それを赤鬼だけが面白そうにじっと見つめている。
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