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俺には婚約者がいる。
日樋香子──外見としては垂れ目がちで甘い顔つきの美人だ。
出会ったのは職場だった。
入社して3年ほど経った頃、派遣の事務員として彼女は現れた。
一目見て、これは運命だと思った。
その日以来、俺は彼女に猛アタックした。
俺の方が年下だったから不安もあったが、それでも俺は頑張った。
彼女に好かれるようにいつも笑顔で声をかけ、
彼女に認めてもらえるように仕事でも結果を出した。
その甲斐あって、一年も経たずして俺は彼女と交際し、
更に半年後には婚約にまで漕ぎつけた。
近いうちに親に紹介する予定になっている。
俺は、その日を心待ちにしていた。
俺の努力が身を結ぶ、その日を。
ある日、彼女が酷く暗い顔をして職場にやってきた。
落ち込んでいる、動揺している、ショックを受けている──そんな印象だった。
何かあったのか尋ねると、彼女は戸惑いながらも話してくれた。
先日、彼女は久しぶりに中学の時の同窓会に行ってきたらしい。
そこで、当時仲の良かった友人たちが亡くなっていたことを聞かされたのだ。
それでショックを受けていた。
彼女とその同級生は28歳。
亡くなるには早い年令だが、人生なんて何があるかわからない。
友人のことは残念だが受け入れて前に進むしかない、と俺は彼女を慰めた。
しかし、彼女は顔を俯かせたまま首を横に振った。
「私と仲が良かった3人全員が亡くなっていたの」
「え?」
「みんな、自殺だって」
「えっ……」
「どうしよう。次は私だ」
「は? 何を言ってるんだよ」
「これはきっと、玲子の呪いなんだ」
「どういうこと?」
彼女の言葉の意味が分からない。
俺はバカみたいに聞き返すことしかできなかった。
しばらくの間、彼女は顔を顰めたまま黙っていた。
話すことに躊躇いがあるらしい。
が、己の身に迫る恐怖が勝ったのか、やがて重い口を開けた。
「中学の頃、私のクラスでいじめがあったの。
いじめって言っても、ちょっと見た目をいじったりからかったりする程度で、
みんな冗談のつもりだったの。本人も笑ってたし。でも……」
「でも?」
「ある日、その子は自殺したの」
「えっ……」
俺は絶句した。
何を思っているのだろうか、彼女は苦しそうに更に眉を顰める。
「学校のことだけが原因じゃないと思う。家庭にも問題があっただろうし。
でも、あの子が学校の屋上から飛び降りて死んだことは事実」
「その、亡くなった同級生が玲子って人?」
「うん。清田玲子って子。
きっとあの子、私達に怒ってるんだ。助けてあげられなかったから」
「助けてあげられなかった?」
「私達、玲子と仲が良い方だったの。それなのに……」
そこまで言って香子は泣き出してしまった。
中学の頃にあったいじめ。
それを苦にして自殺した玲子。
当時、玲子に近い距離にいた香子と他3人の友人。
その3人の友人が立て続けに自殺していた。
「どうしよう。次は私だ」
偶然かもしれないが、『玲子の呪い』だと思って怯えるのも無理のないことだ。
俺は、泣いて震える香子に手を伸ばし、そっと抱きしめた。
「大丈夫。呪いなんか存在しないよ」
「でも、私と仲の良かった3人ともが自殺してたなんて……」
「それぞれ、何らかの事情があったんだよ。呪いなんかじゃない」
「…………」
優しく諭すように言ってやると、香子も徐々に落ち着きを取り戻してきたらしい。
「そう……よね。だって、あれから10年以上も経ってるんだし。今更よね」
「そうそう。偶然だよ」
目の端に涙を残しつつ、香子は微笑んでみせた。
この日はそれで収まった。
しかし翌日、事件は起こった。
出社するとオフィス内が妙にざわついていた。
何があったのかと同僚に尋ねると、社内全員宛に謎の封筒が届いていたらしい。
それは、中学時代に香子がクラスメイトをいじめて自殺に追いやった旨を告発する書類が入っていた。
「うざい」「キモい」「死ね」などと日常的に酷い罵倒を浴びせられた。
ノートや教科書をズタズタに切り裂かれ、ゴミ箱に捨てられた。
母子家庭であることをなじられ、バカにされた。
お弁当を取り上げて中身をぶち撒けて更に踏みつけた上で、床に這わせて食べさせた。
その様をクラスの全員で嘲笑った……等。
他にも、とても口に出来ないような悍ましい内容が長々と書き連ねられていた。
そんな中、香子が出社してくる。
社内の人間全員の視線が彼女に集中した。
それは、好奇と軽蔑に満ちたものだった。
「違う! あんなのは嘘よ! 誰かが私を陥れようとしているのよ!」
「大丈夫。分かってる」
過去のいじめの告発を受けて、香子は憤慨した。
俺は懸命に彼女を宥めた。
「俺の気持ちは変わらないから」
そう言うと、香子は泣きながら俺に縋りついた。
この日も、何とかそれで収まった。
しかし翌日、今度は彼女の過去の不倫を告発する書類が社内中に出回っていた。
大学生の頃、香子は妻子ある男性と不倫関係にあった。
その結果、男性の家庭は壊れた。
心労から、男性の妻は病に倒れ、ほどなくして亡くなった。
それにもかかわらず、香子は何食わぬ顔でその後も人生を謳歌している。
告発と、その証拠となる画像が添付されていた。
公的な場にはそぐわない、下品な画像だった。
その日を境に、香子は会社に来なくなった。
正確には来れなくなった。
関わりのある人全てから向けられる視線に耐えられなくなったのだろう。
世界が敵になったかのような気分なんだろう。
電話をかけてもメッセージを送っても何も返ってこなかったので、俺は彼女の住むマンションを訪れた。
何度もインターホンを押して、何度も扉を叩く。
すると、ガチャリと音を立てて少しだけ扉が開かれた。
その隙間から覗く香子の顔は酷くやつれて青褪めていた。
今までに見たことのない、惨めな姿だった。
「香子、大丈夫か?」
「私、もう駄目だよ。何もかも、おしまいだよ」
「そんなことないよ」
「貴方も見たでしょ? あのメール」
「でも、あれは全て過去のことだろう?」
「そうだけど……でも、私……」
「大丈夫。俺の気持ちは変わってないよ。今でもずっと」
「……ありがとう。ありがとう」
弱々しく呟いて、香子は泣き出した。
今日はこのままそっとしておいた方が良いような気がした。
「じゃあ、また連絡するから」
そう言って俺は扉を閉めた。
彼女は扉を開けて俺を迎え入れようとしていたが、今は入らない方が良いと判断した。
ガチャリと音を立てて扉が閉まる。
「ふう」と俺は大きく息をついた。
それから隣の部屋の扉の前に移動して、そこのインターホンを押した。
「あら、いらっしゃい」
「どうも、清田さん」
扉を開けて現れたのは、にこやかに笑う年配の女性だった。
俺は頭を下げて会釈する。
「どう? うまくいってるかしら」
「ええ、順調ですよ。あともう一押しってところですかね」
「そう。楽しみね」
互いに笑い合う、俺たちの間には黒い志があった。
この年配の女性は清田和恵──香子がかつていじめて自殺に追いやったクラスメイトの母親だ。
彼女は、娘をいじめた人間たちに復讐をして回っていた。
今は社会人となった彼女らの職場に、恋人に、結婚相手に、
当時のいじめを告発する内容の手紙やメールを送りつけて、破滅するように導いていった。
そうして、これまで3人を自殺に追い込んできた。
4人目も、もうすぐだろう。
いじめの主犯だったくせに、自分はそれほど悪いことはしていないと嘯いていた卑怯者。
やはり、妻子ある男に手を出して他人の家庭を壊すような女だけあって、過去にもやらかしていた。
叩けばもっと埃が出てきそうだ。
「次は、このマンションの人たちにお知らせするんですか」
「ええ、そのつもりよ」
「じゃあ、俺もそのつもりで準備しておきます」
「ええ、お願いね」
香子が更に追い詰められる様を思い浮かべて、口角が吊り上がる。
ずっと彼女を恨んでいた。
俺の家庭を壊した女。
母の仇。
いつか復讐してやりたいと思っていた。
職場に香子が現れた時、運命を感じた。
チャンスが向こうからやってきたんだ、と。
そんな折、現れたのが清田和恵だった。
彼女は、俺と香子の関係を壊す為に娘が自殺に追いやられたイジメのことを話した。
そこで俺は、自分も復讐の目的で香子と付き合っていたことを説明した。
こうして意気投合した俺たちは、協力者として手を組むことになったのだ。
「これからもよろしく」
もう一度、清田和恵に笑顔で頭を下げて、俺はマンションを後にした。
復讐を遂げるまで、あと少し。
俺の気持ちは変わらない。今も、ずっと。
(終)
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