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   靴作りは対話がいらない。生来口下手だった俺が人より物言わぬ靴の方が接しやすいと感じたのは、おそらく進路を意識する歳になってからだった。祖父から生業としていた実家の靴屋を父に継いで継ぐ道に進んだ俺は三年前に膝を悪くした父から店を任せられて海沿いの通りからすこし入った路地にある商店街の靴屋の店主をしている。  器具を使って先客の靴底の修理にとりかかる。五足目の紳士革靴に手を伸ばした時、二軒先のラーメン屋で両親を手伝って働く俺の唯一の友人ともいえる小学校からの幼馴染の雄太から電話が鳴った。俺と雄太は同い年だが正反対の気質だ。雄太の趣味は呑み。夕方になると週に一回は洒落た呑み屋で飲まないかと誘ってくる。俺は下戸だと云うのに。 「今日は連れが来るし、お前が来ないと盛り上がんねえんだって」 「なら……止めとく」  何か言いかけた雄太の口を塞ぐようにかかってきた電話を切ると、短いため息が出た。眼にかかったいつの間にか伸び切ってしまった前髪をかきあげ、後ろで結ぶ。  物言わぬ靴の方がいい。顔面がいいとほめちぎって媚びてくる女よりも取り扱いに困らない。俺はそういう女にすぐに取り囲まれる雄太の催す飲み会がいまいち好きになれない。そもそも俺は出逢いを求めてはいない。そこが雄太との大きな違いだ。 そもそも同席して二三時間、飲食を共にしただけで“これからもよろしくね”と二言目には連絡先を聞いてくる女はいったい何が目的なんだろうか。年中飽きもせず擦り切れた黒いスリッポンを愛用するような素っ気無い俺はいつも洒落な流行りの靴で来る彼女たちにすぐに飽きられてしまいそうだが。  椅子に戻り、瑠美さんが処分してくれていいと置いていったローファーを手に取り、じっと眺める。不可思議に擦り切れたつま先をあちこち見ていたら、ぐうと小さく腹が鳴った。夢中で作業していたら硝子扉の向こうではもう日が暮れかけていた。
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