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「契約解消の記念にデートしようよ」
解消、という言葉に胸がざわついた。
「…何の記念ですか」
「理由は何でもいいんだよ。どっか行こう」
佐倉さんは楽しそうに笑う。
その笑顔にこの1ヶ月を思い出して、僕も甘えてみることにした。
僕のリクエストで、週末に水族館にやって来た。
一人になりたい時によく来ている場所だけど、誰かと来るのは初めてだった。
ゆったり泳いでいる魚たちは、僕をいつも慰めるように迎えてくれる。
「へえ。久しぶりに来ると、大人でも結構わくわくするもんだな」
佐倉さんも、子どもみたいに目を輝かせて水槽を見上げていた。
「アジかあ。何か寿司食いたくなるな」
「僕もいつもそう思います」
ふたりで顔を見合わせて笑った。
「あっちにクラゲもいるんですけど、見てると意外と癒やされますよ」
「君のお気に入りか」
「ええ、まあ…」
「コレか。ホントだ。綺麗だな」
彼はゆったりふわふわ浮いているクラゲを目で追っている。僕も隣でしばらく眺めていると、彼が僕の手に触れてきた。
少しドキドキしながら手を繋いだ。
その手の温もりが僕の体にしみこんでくる。
安心 する…
この1ヶ月、僕に勇気をくれた人。
佐倉さんと一緒なら、前を向いて歩いていける気がした。臆病な自分から抜け出せる気がしていた。
何だか今日は、酷くセンチメンタルな気分だ。
佐倉さんが甘すぎて。
「おっと」
暗がりで躓いた僕を、彼が抱き止めてくれた。
「気をつけて」
「…ありがとう」
触れられると、いつもより鼓動が速くなる。
だって、最後だからってちょっと反則なんだ。
くたびれた印象の無精髭も綺麗に剃って、初めて見る僕好みのトラッドなコーディネート。
いつものお喋りも皮肉も鳴りを潜めて、僕をエスコートする彼の手も瞳もとても優しかった。
ひととおり展示を見た後に外に出ると、もう夕暮れが迫っていた。このあとは食事に行く予定だ。
「今日でおしまいだな」
柵の向こうの海を眺めながら、佐倉さんにそう言われて、僕は急にとても寂しくなった。
このままこの関係を
続けたいって言ったら…?
そんなことを思っている自分に戸惑ってしまう。
今日の彼にときめいてるのは認めるけど、好きかって聞かれたら自信がない。
潤のことを思い出す日が減った。
石田さんともぎくしゃくしなくなったし、これ以上甘えたら迷惑かもしれない。
…彼はどう思ってるんだろう。
「俺はこの1ヶ月、楽しかったよ。君は?」
「僕は…」
楽しかった
だから これでおしまいって思ったら…
不意に彼の言葉を思い出した。
『君がしたくなったらいつでもおいで』
まだそんなの わかんない
なのに彼を信じてみたいなんて
僕は 卑怯かな…
答えを迷った末に、僕は佐倉さんに近づいてそっとキスをした。驚いた顔の彼は、それでもすぐに僕を腕の中に抱きしめて、耳打ちした。
「今のどういう意味? 俺のものになってくれるってこと?」
彼の声が上ずっていた。
吐息が耳に熱い。
「ごめんなさい。それは、まだ…」
僕も緊張で声が震えてしまう。
「…取りあえず、契約延長ってことでもいいですか?」
「もちろん。俺のこと、好きになった?」
「ち、がっ…、あくまで延長の申請ですっ」
「言うと思った」
彼はくしゃっと笑って、僕の唇を塞いだ。
その笑顔からこぼれんばかりの彼の気持ちに触れて、僕は今しがたの自分の言葉にちょっぴり嘘があることを、嫌でも思い知らされたのだった。
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