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1‐1転機
「1番行ってまいります」
フロアスタッフに向かって挨拶をすると、いってらっしゃいませと返ってくる。
1番=昼食休憩。2番=30分休憩。3番=トイレ。
これは、このお店の隠語だ。
スタッフの皆に言ったら笑われたけれど、スパイみたいでちょっとかっこいいと思う。
私は大人になってやっと、偽りなく自分が出せるようになった。
髪も長い。
と言っても、数ヶ月前まではそうでもなかったけれど。
なんでだか学校だと上手く出来ないのだ。でも今は、お給料をもらっている身。オドオドしていられない。しっかりしなきゃと思って働いている。……私なりに!
デパ地下の洋菓子をワンオペで捌くアルバイトから色々ステップアップして、私はアパレルメーカーの販売員になった。
ここには今まで味わってきた男女関係の蟠りのような感情がないから、本当に伸び伸びと出来ている。
仕事柄か、一緒に働くスタッフの皆はとても優しい。いい意味でサバサバしているし、過ごしやすい環境をそれぞれが大切にしてくれている。
それにこんな変わり者の私にも、なんの偏見もなく接してくれるような素晴らしい方たちなのだ。
可愛くなろうとしても嫌な顔をされないどころか褒めてもらえるし、信頼すら寄せてもらえた。
私には接客業なんて到底無理だと思ったけれど、全く悩むことではなかった。
「お疲れさまです! 店内でお召し上がりで、いいですよね? ご注文をどうぞ」
ネームバッジを付けているお陰で、同じビルで働く他店舗のスタッフの方とも顔見知りになれた。
私の性格が急激に明るくなったわけではないから、屈託なく話せたりは出来ないけれど、笑顔を笑顔で返せられることが嬉しい。
「お疲れさまです。はい、お店で食べます。ええっと、このエビとアボカドのベーグルサンドのセットでお願いします。飲み物は……アイスオレンジティーにしますっ」
私は応対してくれたお姉さんスタッフさんからもらった番号札を持って、一人掛け用の丸いテーブル席へ行く。
ベーグルサンドと好きな飲み物のセットで五百円っ。なんて良心的な価格なんだ~。
そして注文が届くまでの間に漫画を読むっ。なんて贅沢な時間なんだ~。
そうやって至福の時を過ごしていると、手元の漫画のページに影がかかった。
「お疲れさまです。あ、前に来てくれた時よりも、だいぶ巻数進んでるね?」
降ってきた声に顔を上げると、今度はお兄さんスタッフさんが私の注文したベーグルサンドセットを届けに来てくれていた。
せっかくお兄さんスタッフさんが気遣って漫画に触れてくれたので、私は出しゃばってみることにした。
「あ、はい。お疲れさまです。ちょうど推しキャラが活躍しているところを読んでいました」
「え、推しキャラ? あははっ」
笑われてしまった。
でもこれでいい。ちょうどいいんだ。
「またお越しくださいませー!」
毎日食べてもいいくらい美味しいベーグルサンドを平らげた私は、お姉さんスタッフさんと笑顔で会釈を交わし合ってお店を後にする。
すると、ふと背中越しに何か視線を感じた。
「すみません」
「えあ、はいっ」
声に振り向くと、そこにはバケットハットを被った四十代くらいの男性が立っていた。
「すみません。演劇に興味はありませんか?」
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