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大学の、人のまばらな講義室に、中原さんが入ってくる。 彼女はスクリーンに向かって右側、中央よりやや後ろに座っている僕を見ると、頭を一旦下げ、こちらに向かって歩き、僕から2つ隣の席に座った。 「おはよう、和紘君」 「おはよう」 「今日の範囲どこまでだっけ」 教科書を取り出しながら、僕に聞いてくる。 「被子植物の誕生までだから、53ページ」 「ここか。ありがとう」 教養科目『植物の世界史』は文学部1年生の僕達にとって自由選択科目であり、朝も早い1コマ目の講義なので、受講する人は少ない。僕がわざわざこの講義を選択したのは、単純に植物が好きだからだ。実家にいた高校生の頃はベランダに自分で花を植えていたし、狭いアパートの一人暮らしとなった今でも、窓際でささやかに苔の生育を楽しんでいる。 中原さんは同じ学部の同期生で、長い髪と大きなメガネがよく似合う人だ。入学してすぐの講義のグループワークがきっかけで、話すようになった。話すとは言っても、テストの範囲だとか、レポートの期日だとか、事務的な会話がほとんどだ。お互いに部活やサークルには所属していなかったので、最低限の情報をやり取りする仲間である。彼女には卒業後には海外の大学で哲学を学ぶ、という目標がすでにあるらしく、それゆえに勉強熱心な人だった。この講義のことを話すと、面白そうだからと一緒に受講してくれることになった。 僕は中原さんともっとなんでもない会話がしたいと、密かに思っている。 例えば好きな本は何かとか、花は好きかどうかとか、一緒にデートに行ってくれないかということだ。でも、少しでも踏み込んだ瞬間に、一緒に講義を受けてくれる今の関係まで壊れてしまいそうで、言い出せずにいる。 眠気と戦う講義の後、鐘がなり教壇に立つ助教授が講義の終了を告げると、 中原さんはそそくさと自分の荷物をまとめてしまう。 「じゃ、また」 「うん」 僕は少し寂しさを感じつつ、なんでもないような返事をするのだった。
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