1、痛み

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ママに襟首を後ろに引っ張られたユウタは、そのまま力無くトイレの床に尻餅をついた。そんなに力を入れたつもりの無かったらしいママは驚いた様子を見せると、二人の間にしゃがみ込んだ。 「ナオ、ユウタ……。トイレが騒がしいって言われて来てみたんだけど。アンタたち一体何があったの?」 ママは無言の二人を交互に見ると、雅尚の赤黒く腫れた頬にそっと手を添えた。雅尚はママの悲しげな顔をただ見つめ返すばかりだった。 涙が止まらなくなったらしいユウタもまた、ヒックヒックとしゃくりあげるばかりで話になりそうもなかった。 「まったく、本当に。アンタたちって……」 ユウタと雅尚を交互に見ながら、ママはそっと溜め息を吐いた。そして一旦立ち上がってトイレットペーパーを取ってくると、再びしゃがんで雅尚の顔や服、床に付いた吐瀉物を慣れた手付きでザッと拭き取った。 「ねぇ、警察、呼ぶ?ナオのこれ、ユウタがやったんでしょう?」 静かにママが問い掛けると、二人同時にハッとして顔を上げた。 「や、めて……け、さつも、びょう、いん、も、いらな……」 雅尚は暴行の痛みに耐えながら、必死に首を横に振ってそう声を絞り出した。 「お、れのせい……っから、おねが……めて……ママ……」 雅尚は重たい腕を何とか持ち上げて、ママのTシャツの裾を掴んだ。 「…………ハァ。まったく、アンタって子は……」 ママはそれに続く言葉を飲み込むと、見ていられないと言うように目を伏せた。 「ゴメン……迷惑、かけて……。ユウタも……ホント、に……ゴメン」 雅尚の必死な言葉に、ママはただ悲しそうに笑った。 その後、なかなかトイレから戻らないママを心配して、数人の店子がトイレの様子を覗きに来た。 「ちょうど良かった。あんたたちこの子お願い」 そうして泣きっぱなしのユウタは彼らに回収されていった。 一方の雅尚は、ママのジャケットを頭から被って顔を隠すと、ママに抱えられるようにしてフラフラと店を出たのだった。 ママは嫌がる雅尚を夜間救急へと強制的に連行し、その後自宅まで送り届けてくれた。 「ナオ、あたしは一旦店に戻るけど、また様子を見にくるから。大人しくしてるのよ」 雅尚を布団に寝かせると、ママは静かに、けれど厳しくそう言い聞かせた。 「……ふぁい」 ガーゼと湿布と包帯だらけの顔で布団に横たわった雅尚は、辛うじてそう返事した。 パタンとドアが閉まる音がして、雅尚はそっと目を閉じた。 (“大人しく”って……寝返りも打てねぇよ、ママ) ハハッと乾いた笑いを零すだけでも腹部に痛みが走った。殴られた直後より、今の方がよほど痛みが強い。 幸い内臓等は無事だったが、何故こんな深手を負ったのかと診察した医師には随分訝しがられタダた。事件性があるかもしれないと疑われたのだろう。 まともに喋れない雅尚に代わって、ママが上手く説明してくれて助かった。 (明日……どうしよ……) 全身筋肉痛になったように痛む体と動かない頭で、雅尚は仕事の算段を立てた。 雇われとはいえ雅尚は店長だ。 急な欠勤で店が開かないなんて事態だけは避けなければならない。朝一番に副店長とあの人に連絡をして……などと考えを巡らせた。 (迷惑かけちゃうな……) 己の不甲斐なさに雅尚はため息を吐いた。 暗い部屋の天井をカーテンの隙間から漏れる街灯が照らしていた。雅尚はぼんやりとそれを眺めながら、「自業自得」と掠れた声で呟いた。なぜだかいつもよりその声が部屋に響く気がした。 「痛ぇ……痛ぇよ、バカユウタ……」 (やり過ぎたらお前が捕まっちゃうだろーが) 「バカ、ヤロ……っ」 モゴモゴと小さな声を発する度に虚しさが募って、目頭が熱くなった。 雅尚は軋む腕をなんとか動かし胸に手を当てると、目を閉じて一つ深呼吸をした。 『お前みたいな薄情な奴』 『どうせ一生、誰からも愛されない』 先ほどユウタに吐き捨てられた言葉の数々が、頭の中で何度も鳴り響いた。低く、うめくような彼の声が耳にこびり付いて離れない。 雅尚は胸の痛みを少しでも抑えようと、乗せた手に少しだけ力を込めた。ドクドクと心臓が脈打つのを感じながら、どうして自分は生きることを止められないのだろうかと思った。 (愛されないなんて……そんなの……ずっと前から知ってるよ) 閉じた目蓋の隙間から、とうとう涙が溢れ出て止まらなくなった。 (そもそも俺は……生まれてきちゃいけなかったんだから……) 涙を拭くこともままならないまま、ようやく効いてきた強い鎮痛剤の効果で雅尚は眠りの中に落ちていった。
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