1、痛み

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『どうしてあんな子、産んじゃったのかしら』 『ちっとも可愛くない』 『せめて雅輝(まさき)みたいに賢かったら少しは可愛く思えたのに……』 『あの子のせいで余計に辛いことばっかりよ』 幼少期から繰り返し聴いてきた母の声がガンガンと木霊する中、雅尚は目を覚ました。 全身がびっしょりと汗で濡れているのが分かる。 ハァハァと胸で息をしている自分の呼吸音がやけに煩く耳に響いた。 ドクドクと脈打つ心臓には、先ほどとは違う痛みがあった。 「夢…………」 雅尚は呆然と呟いた。 「夢、か……うん、夢だ……」 自分自身に言い聞かせるように繰り返す。背中がゾワゾワするような感覚は、それでもなかなか消えてはくれなかった。 声は少し出しやすくなったが、涙が固まって目が開きにくい。雅尚は重い腕を何とか動かし、ゴシゴシと目を擦った。 どのくらい眠れたのだろう?まだ外は暗い。 雅尚は軋む体をゆっくりと反転させ、なんとか半分だけ起こした。少し動かすだけで体に強烈な痛みが走ったが、それ以上に喉の渇きに耐えられなかった。 雅尚は薄暗がりに手を伸ばし、ママが置いていってくれたストロー付きの水筒を見付け出すと、水を少しずつ口に含んだ。 (頭が痛い……) 殴られたせいか、脱水のせいか、はたまた久しぶりに嫌な記憶が蘇ったせいか、割れるように頭が痛い。空腹だったが我慢出来ずに、先ほど医者に処方された痛み止めを飲んだ。 (もう、平気になったと思ってたのにな……) フッと雅尚は自嘲の笑みを浮かべた。 産まなければ良かった────それは実際に幼少期から雅尚が幾度となく実母から吐き捨てられてきた言葉だった。 雅尚の実家はいわゆる機能不全家族だった。 父も母も兄も皆外面だけを取り繕って仲良し家族を演じていたが、家の中では表情を忘れたように過ごしていた。まともな会話も無いから喧嘩もしない。お互いがお互いの存在を無いものとして過ごしているようだった。 もちろん雅尚も例外ではなかった。 最後に家族の誰かと会話をしたのはいつだったろう?もう既にあの家での出来事は記憶が曖昧だ。 そんな家庭の中で育ってきたからか、雅尚は愛というものの存在を信じられなかった。 それでもやっぱり淋しくて、満たされぬ心を埋めるように体を重ねて生きてきた。そのツケが、今回こうして回ってきたのだと雅尚は思った。 (過ぎた願いは身を滅ぼす、ね……) どこかで聞いたそんな言葉を思い出し、お誂え向きだと思いながら雅尚はゆっくりと体を横たえた。 コンコンコン…… 痛み止めが効いて再びウトウトとし始めた頃、不意にドアをノックする音がした。 ママならばそのまま入って来そうなものを誰だろうか、と寝ぼけた頭で思っていると「ナオ?!ナオ?!!開けて」とドアの向こうから必死に呼び掛ける小さな声が聞こえてきた。 「タク……」 おそらくママが心配して助っ人を呼んでくれたのだろう。 ドアの向こうで青ざめているに違いない拓海の顔が浮かんだが、生憎出迎えどころか返事をすることすら今の雅尚にはままならなかった。 ガチャ…… しばらくすると、施錠されていなかったらしいドアがおずおずと開いた。 「ナオ……?入るよ?」 そう言って真っ暗な室内に忍び足で入ってくると、拓海は照明のスイッチを入れた。 「……っ!!ナオ!!」 布団に横たわる雅尚の姿を認めた途端、拓海が小さく悲鳴のように名を呼んだ。 「酷い……。誰がこんな……どうして……?」 布団の側へ駆け寄ってきた拓海が、泣きそうな声で呟いた。 殴られてからまだ一度も自分の顔を見ていないが、一目見て分かる程に酷い状態らしい。腫れが引くまで仕事はどうしよう、などと、すっかりぬるくなった氷嚢を取り替えに行く拓海の後ろ姿を見ながら雅尚は思った。 「病院には行ったって聞いたけど……」 左頬に氷嚢を当ててくれながら、拓海が続きを言い淀んだ。 「ごめん……ね、タク。心配、かけて……」 あまり上手く開かない口で掠れた声を絞り出すと、拓海はフルフルと首を横に振った。 「とにかく無事で良かった。……でも、警察は……?」 「行か、ない……」 「どうして……?」 被害届を出さないことを責めるというより、ただ悔しそうに拓海が訊ねた。       涙に揺れる彼の瞳が美しくて、雅尚は嬉しさと嫉妬とで内心叫び出しそうになった。 「ユウタ……だった」 殴られた相手を告白すると、拓海の目が大きく見開かれた。 「……え?!」 ユウタと面識があり、雅尚と彼の関係も知っている拓海は、信じられなさそうに声を上げた。 「俺が、悪かったんだ……だから……」 「ナオ……わかった。わかったから。ごめん、もう……」 色々と察したらしい拓海が雅尚の言葉を遮るように言った。 もう何も言わないから休んで、と拓海は堪えきれずに涙を零した。そんな彼を見て、雅尚は唇をキュッと噛み締めた。 愛情の存在を疑ったことも無いであろう彼の純粋な優しさは、雅尚には時に毒のようだった。嬉しくて、でも辛いのだ。 友人として彼に大切にされる度、喜びを感じると同時に自分にはそうされる価値など無いと思ってしまう。そして、彼の綺麗さとは対照的な汚れきった自分を再認識させられるのだった。 それでも拓海は雅尚にとって唯一無二の、大切な、かけがえのない親友だった。彼がいたからこそ、雅尚は今日まで何とか踏ん張って生きてこれたのだった。
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