1、痛み

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1、痛み

「ぐぁっ……!」 ゴツッという鈍い音がトイレに木霊し、雅尚(まさなお)の口から低い呻き声が漏れた。 狭いトイレの壁に額を強打したせいで、目の前が白くスパークする。あまりに突然の出来事で、一瞬自分の身に何が起こったのか分からなかった。 それは雅尚が行き着けのゲイバー、マジックアワーでトイレに入った瞬間のことだった。完全に油断していたところを何者かに肩を掴んで振り向かされ、殴られたのだ。 「な、に……?誰……?」 フラフラと壁にもたれかかりながら立ち上がると、左頬がジンと痛むのを感じた。 「ぅぐっ……!」 視界を取り戻した雅尚が相手を見ようと振り返った瞬間、今度は腹に重い一撃を喰らった。先ほど軽く口にしたものが吐き出され、為すすべもなく膝から崩れ落ちた。口の中が切れていたのか、吐瀉物に赤いものが混じった。 「ぅっ……ゲホッ……ッ」 「全部……全部ナオちゃんが悪いんだよ……」 しばらく動けずにいると頭上から小さな声が降ってきた。 雅尚は聞き覚えのあるその声に背筋が凍った。低く、怒りに震えるその声の主は、つい先日喧嘩別れしたばかりのセフレのユウタだった。 「知ってたよ……。ナオちゃんがさ、ずっと……“誰か”を求めてるってことはさ……」 ユウタは独り言のように言いながら、雅尚を見下ろした。逆光の中で目をこらした先に見えたのは、冷たく光る彼の瞳だった。 「ユウ……っぁ!」 名前を呼ぼうとした瞬間、今度は肩を思い切り蹴り上げられた。反動で便座に背中を打った雅尚は、ぐったりとそれに寄りかかった。 「お互いセフレの一人……そんなの分かってるっ……でも……!」 ユウタは相変わらず独り言ちながら、雅尚の腹にさらに数発、重い蹴りを入れた。 「ぐっ……ユ、ッタ……待っ」 「でも……俺が、悪いの?俺だけ……悪者扱い?」 ユウタはブツブツと喋りながら、何度も雅尚を踵で踏みつけるように蹴り続けた。 「ね……お、ねが……ユウ、タ……話、を……」 「もしかしたら、もしかしたら少しくらい……って、期待しちゃうじゃん」 「き……たい?痛っ!」 今度は乱暴に髪の毛を掴まれ、顔を引き寄せられた。間近に見る彼の瞳には、怒りと失望と共に涙が浮かんでいた。 「そうだよ。期待しちゃったんだ、俺。バカだろ?だってナオちゃんがこんなに長く続いてたのって、俺ぐらいじゃん。他の奴らより俺は特別なんだ、って思ってたよ。思っちゃったよ!ねぇ、何がダメだった?俺じゃ何が足りなかった?ねぇ?!」 「…………っ」 彼からの思いもかけない言葉に、雅尚は何も言えずにただ目を伏せた。 「……あぁそっか、わかった」 と、言ってユウタは投げ捨てるように雅尚から手を離した。 「やっぱりタクさんだったんだ、本命。でしょ?タクさんに惚れてるけど自分は手ぇ出せないからって牽制して。で、俺にあんなことしたんだ。……でしょ?」 「っ違う……!」 それだけは違うと必死に首を振ると、ユウタの表情がますます険しくなった。 「じゃあ、こないだのアレは何だったんだよ?!なぁ?!!」 涙で顔をグシャグシャに歪めながら、ユウタが叫んだ。 “アレ”とは数日前にこのバーで彼と雅尚がした喧嘩のことだ。 雅尚と共に呑んでいた友人の拓海にユウタがちょっかいをかけたことを、雅尚が怒って殴ってしまったのだ。拓海は雅尚にとって数少ない友人と呼べる存在で、自分のことを支えてくれた恩人の一人でもある。 雅尚も詳しくは知らないが、拓海は恋愛に関して何か深い傷を負っていた。だからユウタのような体の繋がりを軽く考えているタイプには近づいて欲しくないと前々から釘を刺していたのだ。それを反故にされた怒りと、ちょうど自分がユウタとは別の想い人に捨てられそうになっている焦りとで、抑えがきかずに殴ってしまったのだった。 公衆の面前で殴りかかったことは、雅尚も深く反省している。いくら許せないと思ったからといって、やっていいことではなかった。 「ごめ……あれ……はっ」 雅尚は声を絞り出した。殴られたダメージが大きいのか、ヒューヒューと喉が鳴るばかりで上手く声が出せない。曖昧になっていく意識と感覚の中で、雅尚は何とか彼と話をしなければと思った。 「俺はさ……俺は、ホントにちょっと冗談のつもりっつーか、ああやったらちょっとくらいナオちゃんが俺に嫉妬してくれないかなぁ、ってさ。軽い気持ちだったんだよ。もしかしたら……ってさ……それなのに……あんな……!!」 「…………!!」 真っ赤に染まったユウタの双眸から涙が零れ落ちるのを見ながら、雅尚は自分が彼をどれだけないがしろにしてきたのかを悟った。 彼とはお互い確かにただのセフレから始まった。 だが体を重ねる回数が増えていくうちに、彼の方は自分に特別な感情を抱いてくれていたらしい。そんな事に全く気が付きもせず、雅尚はただ自分の不安や淋しさを紛らわす手段としてしか、彼に接して来なかった。 互いに複数の相手がいたし、長い付き合いで気心が知れている分、彼に対して知らず知らずに甘えて残酷なことをしてきたのだろうと思った。 「ご、め……ユ、ッタ、ごめん……ぐっ!」 謝る雅尚の左頬に、再びユウタの拳が見舞われた。 「今さら謝られたって……!お前みたいな奴……!そうだよ……お前みたいな薄情な奴……」 その瞬間ユウタの瞳からスッと怒りの炎が消え、代わりにほの暗い侮蔑の笑みが浮かんだ。 「お前なんか……お前なんかどうせ、一生誰からも愛されない……」 「っ!!」 低く、吐き捨てるように呟かれたユウタの言葉に、雅尚は目の前が暗くなった。その様子を見たユウタは薄く笑いながら涙を零した。 「ちょっと!!!あんた達何をやってるの?!!」 その時、バーのママがトイレに乱入してくると同時に、慌ててユウタを雅尚から引き剥がした。
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