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「素敵な演奏でしたね」
保育士長の声で、現実に戻る。
再び拍手に包まれ、彼は、まるでそれが聞こえているかのように、園児や保育士たちを見回し、何度も会釈をしてから、士長に手話で何かを伝えた。
「うんうん」と頷き、手話で答えた後で、士長が、
「最後に、渡部さんからメッセージがあります。僭越ですが、私が通訳しますね!」
と言った。
彼のメッセージとは、次のようなものだった。
『みなさん、こんにちは。今日は、私のピアノを聞いてくれて、ありがとうございます。
どうでしたか?
今はいろいろな道具があって、娯楽も様々ですが、その昔、特に西洋では、生の演奏を聴くのが、生活の楽しみのひとつでした。
今も私たちの心を豊かにしてくれるのが、クラシック音楽だと私は思います。
みんなにとって、今日の私のピアノが、クラシック音楽を好きになるきっかけになってくれたら嬉しいです』
保育士長の通訳が終わると、「へぇー」「すげー」など、ため息に似た声が上がった。
すると、彼が最後にもうひとつ、というように士長に手話を送ると、「わかりました」と士長が頷く。
それを見て笑顔になった彼は、園児たちの方を見やり、それからゆっくりと、後方の美桜に視線を送った。
「ピアノのお兄さん!」
確信した美桜は、そう小さく声に出し、胸の前で小さく手を振る。
それを見た彼は、ポケットから、あるひとつの物を取り出し、掲げて見せた。
「あっ!」
思わず声が出た。エメラルドグリーンの石でできたブレスレットだった。
後ろの方の園児が、「何だ?」という顔をして振り向く。
美桜は構わず、
「ピアノのお兄さーん!」
さっきよりも大きな声で言い、大きく手を振った。
彼・奏一は、美桜を見る目を細め、ゆっくりと頷く。そして、手話を送る。それを見ていた士長が、訳してくれる。
「これがなかったら、私は今、生きていませんでした。今日こうしてピアノの演奏を届けられたのは、今、そこにいる、鈴木美桜さんのおかげなのです」
「……」
「ありがとう、美桜さん!」
「……」
言葉の代わりに、目から熱い涙があふれ出た。
「まさに、運命のおふたり、ですね」
保育士長がそう言ってから、
「あっ、最後のは、私の言葉でーす」
と付け加えて、くしゃっと笑った。
それから、奏一がゆっくりと美桜の元へと歩み寄る。そして、
「保育士、頑張ってね」
やや不自由な言葉づかいでそう言った。
(ありがとう)
美桜はその言葉を、たまたま覚えていた手話で答える。
奏一は、軽い驚きの表情を浮かべてから、すぐに
「これからも、僕の演奏を、そばで聴いて、応援してほしいな……」
ややたどたどしいけれど、一生懸命に、はっきりとした口調で言う。
美桜は、滲んでいく視界の中で奏一をしっかりと見つめながら、
「うん」
と、大きく頷いた。
(完)
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