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美桜が保育園の年長組の時、近所に「ピアノのお兄さん」がいた。
子供が大好きで、保育士を目指している奏一という大学生は、月に1度、自宅に子供たちを招いて『ピアノリサイタル』を開いていた。
その日も奏一は、
「今日演奏するのは、この曲でーす!」
と言って、
♪ジャジャジャジャーン
ジャジャジャジャーン
最初の一節を奏でたところで、
「はい、わかる人!」
と、手を挙げながら、10人ほどいる子供たちを見回した。
「はい!」と言う元気な声とともに、半分ぐらいの子供が手を挙げる。
(お兄さんに指してもらいたいな……)
引っ込み思案の美桜だったが、勇気を振り絞って、胸の前にそっと手を挙げる。誰にしようかな、というように、奏一が、手を上げている子供たち一人ひとりに視線を送る。
(当てて欲しいけど、怖い……)
ドキドキしながら、下を向く。と、
「じゃあ、鈴木美桜ちゃん!」
「……!」
「はい」と言ったつもりなのに、声にならなかった。けどその後、顔を上げて、
「ベートーベンの、運命です」
一生懸命に答えを言うと、
「はい、正解でーす!」
奏一がニコッと美桜に微笑んでくれた。
憧れが初恋になった。
「今、美桜ちゃんが答えてくれたように、この曲は、運命というタイトルで有名ですが、正しくは、交響曲第五番……」
奏一がみんなの顔を見ながら、曲についての簡単な説明をしている。が、舞い上がってしまった美桜の耳には、ろくに入ってこなかった。
そのうちに、
♪ジャジャジャジャーン
ジャジャジャジャーン
……
あまりにも有名な始まりのメロディーで、奏一のピアノリサイタルが始まった。
それ以降、月1度のピアノリサイタルがすごく楽しみになった。
けれど、恥ずかしさのあまり、奏一を直視できなくて、一番後ろでそっと聴くだけになった。
「曲名は何でしょう?」
奏一の質問に手を挙げることも、できなくなった。
そんなことが何回か繰り返され、巡ってきた3月。
大学を卒業するので、最後になると言う奏一のピアノリサイタルに、美桜はあるものを持って行った。
箱の中に入っているのは、病気平癒のブレスレット。
前の日、お母さんと一緒に、ストーンショップで選んだ。
後から思えば、保育園児にしては渋い選択だったが、その時の美桜は、ただ
(これがいい!)
透明感のあるエメラルドグリーンの綺麗さに、一目惚れしたのだ。
「えっ、それでいいの?」
意外そうな顔の母に、
「うん、これにする。いい?」
「美桜がいいと思ったのなら、いいよ」
母も笑顔で賛成してくれたのだった。
みんながひと通りプレゼントを渡し終え、最後に美桜が渡すと、奏一は、
「ありがとう。美桜ちゃんは、いつも一生懸命、ぼくの演奏を聴いてくれていたよね。嬉しかったよ。4月からは小学生だけど、頑張ってね!」
と微笑みかけてくれた。
美桜は、それだけで、もう十分だった。
それからさらに、13年の時が経った。
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