運命のピアノ

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 短大の保育科に通う美桜は、保育実習のため保育園にやってきていた。  実習も最終日となった日の午後、保育士長の女性が、園児たちを前にして、 「みなさん、今日は2人の実習の先生が最後の日です。そこで、素敵なお客様が来てくれましたよー。拍手で迎えてねー」  どうぞ、と手招きすると、奥から、保育士の人たちや園児たちの拍手に迎えられて、一人の男性が現れた。  三十代半ばに見える彼が園児たちの前に立つのを待って、保育士長が、 「はい。今日のお客様は、ピアニストの渡部奏一さんでーす」  その声を合図に、また拍手が起きる。 (わたべ そういち……?)  美桜の心がざわめく。園児たちの後ろから、男性の顔を見る。 (ピアノのお兄さん……だろうか……?)  あの頃、みんなそう呼んでいたから、お兄さんの名前は、実はうろ覚えなのだ。  今いる彼は短髪だが、お兄さんの髪は長かった。けれど……、 (雰囲気は似ている気がする)  そう思って見ていると、彼は保育士長に向けて両手の指を立て、その指を動かし始める。それに応じるように、保育士長が返す。士長は手話ができる。  それから士長が、 「それでは、渡部さんについて、簡単ではありますが、ご紹介しますね……」  と語った彼のこと。  渡部奏一は、大学を出ると、この保育園に先生として赴任した。  子供が大好きな彼は、すぐに人気者になった。  やっと先生が板についてきた3年目。交通事故に遭い、生死の境をさまよう。  何とか一命をとり止めたものの、後遺症から、突発性難聴になった。  それは、徐々に悪化し、今は両耳とも、ほとんど聞こえないのだと、保育士長が言った。 「それではさっそく、演奏を聞かせていただきましょう。今日渡部さんが弾いてくださるのは、ベートーベン作曲、交響曲第五番です。『運命』というタイトルで有名なので、みんなも聞いたことがあるかも知れませんね。では、どうぞ」  保育士長がそう言って、手話を奏一に送ると、彼はひとつ頷いて、ピアノの椅子に座る。  美桜は息をこらし、彼の横顔、手の動きに視線を送る。  彼は、目をつむり、鼻からすーっと息を吸うと、鍵盤を両手の指で叩き始める。     ♪ジャジャジャジャーン ジャジャジャジャーン ……  「おう~」「知ってる~!」と園児たちの間から声が上がる。それを保育士たちが、「シーッ」と人差し指を立てて制する。が、美桜だけは、彼の演奏に見入っていた。  演奏が続いていく。 (やはり、ピアノのお兄さんかも……)  演奏が終わる。興奮気味の園児たち、さらに保育士たちからも、歓声と拍手が起こった。  彼は、立ち上がって園児たちに向かい、丁寧にお辞儀をする。そして顔を上げる。彼と美桜の視線が交わり、一瞬時が止まった気がした。 「ピアノのお兄さん!」  美桜がつぶやくと、彼の口が「美桜ちゃん」と動いたように感じた。 (やっぱり!)  そう思って、微かに笑みを浮かべると、彼も反応した気がした。
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