一 休暇の終わり - Julkus ; à la fin de l’été -

1/1
103人が本棚に入れています
本棚に追加
/64ページ

一 休暇の終わり - Julkus ; à la fin de l’été -

 ルメオ共和国は、広大なマルス大陸の北部に位置する小さな貿易大国である。  大陸から鉤状に突出した半島を国土とし、面積こそ小さいものの、航海のしやすい穏やかな海に囲まれ、その優れた造船技術や航海術でもって、海上貿易による莫大な富を得ている。  国内に有する数多くの貿易港には、年中絶える事なく夥しい数の交易船が往来し、その船籍は近隣諸国から東の海を挟んだウェヌス大陸の国々まで多種多様だ。港町には異国風の建物が多く並び、世界中から集まった商人や船乗りたちでごった返している。彼らの肌の色や装いなども様々で、それぞれの言語がそこかしこに飛び交う。  必然的に、彼らの相手をしなければならないルメオの貿易商人や知識層は、大陸の共通語であるマルス語の他、多言語に明るくなくてはならない。  イオネ・アリアーヌ・クレテは、そういう国において最大の貿易港を有する北東部のトーレ地方で、領主の娘として生まれ育った。八年前、当主であった父親の死をきっかけに本家とは絶縁し、今は共和国南西部に位置する首都ユルクスにその身を置いている。  ユルクスは、古くから栄えた学問の都である。海からは少しばかり離れているために港町特有の生彩こそないものの、貿易大国の心臓部だけあって、華々しい国際都市だ。  歴史深いユルクス大学や多くの神を祀る大神殿を中心に複数の道が伸び、大通りには共和国元首邸を始めとする様々な国の領事館や貴族の大邸宅が多く立ち並び、また別の大通りでは数多くの商店や劇場が軒を連ねるなど、一大都市の様相を呈している。  イオネはこのユルクスを故郷よりも愛している。  なぜならば、この大陸における最も歴史の古い大学を有し、更には交易品に伴って最新の研究情報や文献が集まる宝の山だからだ。彼女の底なしの知識欲を満たすには、ここユルクスほど適した場所はない。  それだけではない。最も重大な点は、母や妹たちとこの地にやってきた十四歳のイオネを、ユルクス大学が学生として招いてくれたことだ。  それも、一般教養や社交術などを中心に学ぶ女学級ではなく、本来であれば男子のみが許される専門的な各分野の授業への参加を許され、在学と同時に複数の教授の下で助手として働くことも認められた。十八になる年には、学生から言語学教授へとその役割を変え、自分の女学級を受け持つようになった。  それから四年、今では百名を超える才女たちを世に送り出し、自らも学会で数度にわたりマルス語史研究の新説を発表し、大学の支援のもと、数冊の学術本を刊行している。  過去に女性が大学側からこのような厚遇を受けた事例は、記録に残る限りでは皆無と言っていい。入学のきっかけには亡父と懇意にしていた教授の口利きがあったものの、イオネの尋常ではなく優れた才覚が、彼女を学問の世界へと導いたのだ。  ところが、そんなイオネにも、ユルクスの我慢ならない部分がある。  ユルクスの夏は暑い。  内陸部の盆地に位置するために、春を過ぎると、海からやってくる熱気が街中に籠もり始めるのだ。自然、金のある者は避暑のため北方や海沿いの別荘へ出掛けることが多い。イオネもその一人だ。  教授とは言っても、大学では研究の傍ら自分の学級を一つ持っているに過ぎず、学生に混じって他の教授の授業に参加し、時折翻訳や通訳の仕事を個人で請け負って報酬を得ている身だ。元々は華やかなトーレの領主一族の令嬢ながら、今の暮らしぶりは富裕層とは言えない。  しかしながら、小さな屋敷で共に暮らしていた三人の妹たちは既に嫁ぎ、娘たちをあらかた送り出した母親も今は一番目の妹の裕福な嫁ぎ先で快適な生活を送っているから、イオネの身の上は悠々自適の一人暮らしだ。養うべき家族もなければ、特に贅沢をするわけでもなく、ひたすら仕事に没頭するだけの生活では、給金は貯まっていく一方なのである。  そして、この年もイオネは唯一の散財の手段である夏の旅行に出掛けた。大学の夏休暇は七月から八月の終わりまでだが、イオネの休暇はそれよりひと月も早い六月一日から始まる。  この年の休暇は、最初に中部のパタロア地方へ出掛けた。一番目の妹と母に会うためだ。そこに数日遅れて二人の妹たちとその子供たち、幼い頃に北部の領主夫妻のもとへ養子に出された末弟も集まってきて、一家水入らずで一か月半を過ごした後、ユルクス北隣に位置するバイロヌス地方の名士「ヴェッキオおじいさま(ノンノ・ヴェッキオ)」の元で更に一か月半を過ごした。  ノンノ・ヴェッキオこと前バイロヌス領主ヴィクトル・フラヴァリ老公とは実際の血縁関係にはないものの、家同士の関係が長く深いために、生まれたときから家族ぐるみの付き合いをしている。イオネにとっては学者の大先輩で、なおかつ祖父のような存在だ。  フラヴァリ邸での過ごし方は、イオネにとって知的魅力に満ちたものだ。  ヴィクトル老公の主催するサロンに各国各地の様々な分野の有識者が集まり、最新の情勢や交易品、流行をはじめ、新しく発見された遺跡や数式、発明品など、多くの分野の議題が取り沙汰される。別の日には主催者の趣味である演奏会が行われることもある。  こうした知的な刺激に満ちた時間は、ユルクスでは味わえない。イオネにとっては至福の時間だ。    こうして過ごした幸せな休暇は、短い船旅で締めくくられた。  ヴィクトル老公は若い女の一人旅を案じ、いつも自分の屋敷の馬車でユルクスまで送り出してくれるが、今回は別の手段を取った。バイロヌス港から新型の貿易船が出港するという情報を聞いて、ユルクスの最寄りにあるアラス港までの切符を手に入れたのである。  普通は貿易商人やその関係者でないと乗れない船だが、普段は滅多に人に頼らないイオネが珍しくヴィクトル老公に仲介を頼むと、喜んで引き受けてくれた。  新型の船は速かった。人も積荷も従来のものよりも多く乗せることができ、船体の形は風や波の抵抗を受けにくいように改良されている。  爽やかな海風を頬に受け、二時間ほどの航海を楽しんだ後は、アラス港から辻馬車に乗ってユルクスへの短い道を行った。間もなく秋を迎えるユルクスの街は、ゆったりした薄物のドレスや軽やかな麻織りのシャツ、シュロやジャスミンなどの草花が刺繍された紗のショールなどを装う人々で彩られ、活気に満ちている。  イオネは御者に礼を告げてチップを渡した後、紳士的に差し出された御者の手を丁重に断って、久しぶりにユルクスの地を踏んだ。空気に、少し湿った夏の匂いが残っている。  三か月の旅に出ていたとは思えないほど小さなトランクを一つ持って赤茶色の石畳を進むイオネの目の前には、荘厳な石の建造物がある。  クーポラの建物のファサードには、「知恵こそ富、叡智こそ力」を意味する古語の碑文が刻まれた煉瓦色の三角屋根があり、そこから同じ色の屋根を持つ長い建物が両翼に広がって、古代の様式を模した柱廊が続いている。  これこそ、イオネの世界の中心――ユルクス大学だ。  イオネが屋敷へ帰るよりも先に大学を訪れたことには、理由がある。  古代建築学の権威である外国の学者がこの日、熱心な学生や大学の研究者を対象に特別講義を行うことになっているのである。  ドレスのポケットから取り出した真鍮製の懐中時計は、既に定刻の三時を数分過ぎている。 「急がなくちゃ」  イオネは重たいトランクを抱えて茶色い石畳の上を急いだ。  講堂は、大学の広大な敷地の中央部にあるドーム型の建物だ。古代の闘技場を思わせる円型の講堂には既に若い男子学生や研究者が百名ほど集まり、中心の講壇に立つ長い白髪の老教授とその手にある大聖堂の模型に注目していた。  様々な国から教授や留学生が集まるユルクス大学では、各言語の訛りや文法を統一化した大陸の共通語であり、なおかつ知識層の共通言語でもあるマルス語が使用される。講義や授業の最中は、例えルメオ人であろうと、訛りの強いルメオ語は原則として使ってはいけない。無論、外国から遙々やって来た老教授もマルス語を話している。  イオネが講堂へ入ってくると、彼らの視線が一斉にそちらに集まった。しかし、イオネは気に留めず、恭しく黙礼して講義を続けるよう促した。  イオネが常々大学制度について苦々しく思っていることは、これだ。女は女学級にいて当たり前という化石のような概念が、社会の進歩を妨げている。男女で能力に差はないと言うのに、優れた学者を多く輩出している名門ユルクス大学がこの為体(ていたらく)とは、全く勿体ないことだ。  が、イオネの今の関心は、使い古された腹立たしい大学制度よりも、古代建築学に向いている。  老教授の手にある聖堂の模型を頭に思い浮かべながら、自分がその中に立ち、建築士や技師たちが梁を組み立て、モルタルで壁を固め、設計士の計算通りに石を積み上げていく様子を詳細に想像した。  イオネはトランクを開けて薄地のドレスや分厚い本の下から皮表紙の日記帳と真鍮でできた携帯用の筆記用具箱を引っ張り出し、箱についている小さなインク壺のコルク栓を開けて、細いペン先にインクを吸わせ、日記帳に講義のメモを記した。文章の体を為さない走り書きだが、これがイオネのやり方だ。見聞きしたものを断片的に記し、後から並外れた記憶力を元に論文や報告書として清書する。自分の目と耳で得た情報をほぼ完璧に記憶できるという特技が、イオネの才能の基礎になっているのである。  長い髪が肩から落ちて視界を邪魔すると、イオネは銀の箱からもう一本細軸のペンを取り出してくるくると髪に巻き付け、それらを捻って、髪の束の中心に挿してまとめた。  こうして再び講義に意識を向けたイオネの集中を断ち切ったのは、背後から聞こえる男の声だった。 「なんだ、女がいるのか」  夜霧の立つ海の上を吹く風を思わせる声だ。それも、隣国エマンシュナの言葉を話している。 それが、イオネの精神に灯った小さな苛立ちの火種を燃え立たせた。 (いやな言い方ね)  ほとんど反射的にイオネが振り返って視線を巡らせると、声の主は開け放たれた講堂の扉の外に立っていた。  この大陸には珍しい黒髪の男だ。それも、鼻梁がよく通って切れ長の目をした、稀に見る美男。――背は高く、精悍な体躯に皺のない雪のように真っ白なシャツと、一見して最高級と分かる絹織物のベストを纏い、長い脚は目の細かい織物のズボンと細やかな縫い目の美しい黒いブーツで覆われている。クラバットも、光沢と刺繍の繊細さから見て並の高級品ではない。相当の金持ちかつ、上流貴族の中でも最高位の家格だろうと思われた。  男は冷たいエメラルドグリーンの瞳で品定めをするようにイオネを眺めている。貌立ちが端正な分、余計にその嫌みったらしさが際立っていた。  相手がどんな身分の人間であろうが、イオネは喧嘩を売られて黙っていられる性分ではない。音もなく席を立つと、扉の外に出、挑戦に満ちた眼差しで男に対峙した。 「聞き捨てならないわ。女が講義を聴いているとあなたに何か不都合があるのかしら」 「女学生は別棟の女学級にしかいないと聞いていたから、意外に思っただけのことだ」  男は特に悪びれる様子もなく、白々と言った。  この時イオネは、この男の不遜な態度に腹を立てるべきだった。が、それよりも遙かに彼女の神経を逆撫でしたことは、学生と間違われたことだ。  ユルクス大学の教師陣の中では飛び抜けて年若い彼女だが、受け持った学生はみな素晴らしい成績を修めているし、知識や資質も他の教授たちに引けを取らないと思っている。若い女だからと舐められるのは、大嫌いだ。 「わたしは、教授よ」  つい、声が荒くなった。 「それは失礼した。この名門にまさか女の教授がいるとは、驚いた」  愚弄された。と、はっきり感じた瞬間、カッと顔が熱くなった。 「学問が男性の特権だと考えているなら、あなたはこの場に相応しくないわ」 「俺に相応しい場所は俺が決める」  男は表情を変えることなく、傲慢に言った。 「あなたがどんなに高貴な方か存じませんけど、学堂は常に学びを必要とする者の味方よ」  則ちここにあなたの主導権はないと言いたいのだ。が、それ以上の言葉が出てこなくなった。もっと激しい怒りのためだ。  男は目を細め、形の良い唇の左端だけ吊り上げて、笑っていた。愉快で仕方ないというふうに。 (この、男…)  怒りで身体が震えるなんて、初めての経験だ。  幼少の頃から才媛と讃えられてきたイオネには、こんなふうに面と向かって愚弄されたことは、今までに一度もない。  イオネは無意識のうちに拳を硬く握り締めて、男を睨めつけた。 「あなた、一体――」  と食ってかかろうとしたイオネの頭に、無造作に男の手が伸びて来た。何をされたのか知ったのは、絹の袖が髪を掠めた直後に、纏めていた髪がはらりと肩に落ちた時だ。  男の長い指には、真鍮のペンが挟まっている。 「インクが美しい髪を汚しそうだ」  男は愉快そうに黒い睫毛を目元に伸ばした。  あまりの出来事にイオネは再び言葉を無くし、悠然と笑む男の顔を呆気に取られて眺めることしかできなかった。 「では、また近いうちに。イオネ・クレテ嬢」  そう言って愉快そうに唇の左端を吊り上げると、男はイオネに背を向け、講堂を去った。  一瞬の後イオネが我に返った時、その背中を追いかけるように、言葉が口を突いた。 「無礼者に二度会わせる顔は無い!」  我ながら貴婦人らしからぬ言動だと思ったが、どちらにせよあれは部外者だ。実際二度と顔を合わせることは無いだろう。  イオネは相手が自分の名前を知っていたのを疑問に思うことさえすっかり忘れて、トゲトゲした気分のまま講義に戻った。 (最悪の気分だわ)  講堂の男性諸君からはチラチラと好奇の視線が飛んでくるし、髪に挿していたペンもどさくさに紛れて盗まれてしまった。イオネは胡桃色の巻き毛がさらさらと視界を邪魔することに殊更苛立ちを覚えながら、特別講義を終えた。走り書きのメモがいつもより多いのは、あの男の憎たらしい笑みが頭の中に浮かぶせいで、見聞きした内容を普段通りに記憶しておけないからだ。 (本当に、最悪)  イオネは心の中で悪態をついた。幸せな休暇で空に浮かんでいた気分が、それが終わった途端に真っ逆さまに地上へ墜落してしまった。  しかし、イオネの不運はこれだけでは終わらなかった。  講義の後で教授陣への簡単な挨拶を終えたイオネは、大学から歩いて二十分ほどの屋敷への帰路に就いた。  秋を迎えようとする太陽が名残惜しく夕闇迫る空に緋色の光を滲ませ、深さを増していく青色の部分には、薄紫色の雲が絵の具を溢したように棚引いている。月は、まだ見えない。  イオネは我が目を疑った。  が、信じがたいことに、自分が立っている場所は間違えようがない。  あまりの衝撃に、指が力を失い、トランクがゴトッ、と地面に落ちる音が響いた。  三か月前まで悠々自適のひとりの生活を送っていたはずのささやかな我が家は、非情にも鉄柵の門を全て取り外され、扉を冷たい鉄の鎖で封じられ、[売却済み・九月一日から解体予定]と、無感情な看板を取り付けられていた。  九月一日。――明日である。  混乱と恐慌の渦巻く頭の中に、黒髪の男の尊大な顔がちらついた。が、イオネが家を失ったこととあのエマンシュナ人に因果関係はない。  しかし、今日という日の不運の発端には、その男がいる。そのために、イオネにはその男が今日降りかかった全ての不幸を運んできたように思えて仕方がなかった。 (全部あの男のせいよ)  そうでなければ、こんな非現実的かつ理不尽な事象が起きるはずがない。とさえ思った。  普段は理知的で冷徹なイオネも、この異常事態にはさすがに冷静さを欠いた。  しばらくのあいだ茫然と立ち尽くした後でイオネが周囲を見回すと、大きな石材や木材、荷車などが敷地の外に置かれ、休暇に出る前は小さな物置小屋や古びた礼拝堂があった隣地は土が剥き出しの更地になっていた。  そして次に、この最悪の日の中で最も驚くべき光景を、イオネはその目に映した。  屋敷の後方、十数メートルほどの位置に、巨大な屋敷が建っている。  ――否、屋敷というよりも寧ろ、宮殿と呼んだ方が似つかわしい。勾配の急な青灰色の屋根を持つ石と漆喰の建物に小さな尖塔が四基立ち、正面二階にある大きなアーチ型の扉から階段が馬蹄型に広がっている。これが正面玄関だろう。  夏の休暇に出る前には、なかったものだ。三か月の間にこれほどのものが建ってしまったという事実には、驚きを超えて恐怖さえ感じる。まるで自分の屋敷が、何か化け物の奇術にでも巻き込まれてしまったかのようだ。イオネが恐る恐る宮殿の方へ向かって行くと、その後方一帯に建っていた他の屋敷も跡形もなくなり、周囲の様相が一変してしまっていた。  空から地面へ墜落したような――というより、深海へ真っ逆さまに突っ込んでしまったような気分だ。とても事態が飲み込めない。  しかし、イオネはこの逆境に泣き寝入りするような小娘ではない。混乱と恐慌の後は、全身を燃やすほどの激しい怒りが襲って来た。  住人に断りもなく家を売買するとは、一体どういう料簡なのか。 (取り戻さなくちゃ)  イオネは宮殿の扉へ向かって猛然と歩き出した。 aafc7cb5-b1e5-4f5c-b11d-4b7b1107d60b
/64ページ

最初のコメントを投稿しよう!