9 教授の不得手 - une lacune -

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9 教授の不得手 - une lacune -

 バシルがいつものように図書館の魔女と化しているイオネの元へやって来たのは、イオネが大学から帰宅して間も無くのことだった。 「イオネ先生、手紙が三通届いてるよ」 「ありがとう」  イオネはこの日も学生たちから回収した課題を添削しながら、書簡を受け取った。 「半分手伝ってくれる?綴りの間違いに印を付けるのをお願いしたいわ」  イオネは課題をバシルに手渡し、書簡に目を通し始めた。バシルは既に簡単な課題の添削なら任せても問題ない水準にある。 「みんな字が綺麗だね」  バシルは課題の束を眺めて複雑そうな表情をした。 「バシルの字だって悪くないわ」  バシルは自分の悪筆を嫌っているが、イオネはそれを下手だと思ったことはない。それよりも、バシルの書く文章は理路整然としていて、文法に誤りが無く、多彩な表現力に富んでいるのだ。小さい頃からイオネの影響を受けて読書に親しんでいるということも理由のひとつだろう。 「バシルはわたしの教え子の中でいちばんマルス語が上手よ」  イオネが穏やかに目を細めると、バシルははにかんで唇をもぞもぞさせた。 「イオネ先生って、知恵の女神みたいだ」 「あら、ありがとう。でもそういうことは好きな子に言いなさい」  もちろん、バシルにとってはそのつもりなのだが、こういうことにはとんと勘の働かないイオネ先生には伝わらないらしい。相手にされていないことは承知の上だが、どうも面白くない。  バシルが頬を膨らませたことに気付いて苦笑しているのは、側に控えるソニアだけだ。  そんな二人の様子に気づくこともなく、イオネは届いた書簡に目を通し始めた。  一通目は二番目の妹のニッサからの私信だ。姉妹一まめな彼女らしく、一人で暮らすイオネのことを心配する内容が綴られている。ついふた月前に共に過ごしたばかりだが、別れてすぐに心配される程度には、生活能力に関する信用がないらしい。  二通目は馴染みの商人から最新交易品の報せだった。ウェヌス大陸のエル・ミエルド帝国から、希少価値の高い蜂蜜酒が何種類か入って来たらしい。  三通目は、母親からの手紙だった。ニッサと同じく、イオネの暮らしぶりを信用していない。いくつかの訓戒と共に、夏の休暇が終わった後の近況を聞かせなさいという特段変わりのない内容だが、最後の追伸を読んでイオネの手がピタリと止まった。  ――ドレスを新調しなさい。使い古したドレスで宴に出ようものなら、クレテ家の女の名誉が廃るというものです。  有無を言わせない、力強い筆跡だ。  常々不思議に思う。母親という生き物は、離れて暮らしている子供の身に起きることを魔法の水晶を覗き込むように窺い知ることができる、何か計り知れぬ能力を持っているのではないだろうか。 「はぁ…面倒くさい」  イオネが大きく溜め息をついた時、背後から「なんだ」と、笑い混じりの声が聞こえてきた。  背後を振り返ると、つやつやしたフォレストグリーンのベストと白いシャツを着たアルヴィーゼ・コルネールが立っている。捲った袖から筋の目立つ腕が覗き、この初秋に似つかわしく清爽な出立ちだ。――その、揶揄うような笑みを除けば。 「たかだかドレスの新調に、何をそんなに嫌がることがある」 「勝手に読まないで。あなたは何の用があってここにいるのよ」 「ここは俺の屋敷だ。どんな用でどこにいようとお前に断る必要は無い」  アルヴィーゼが尊大に笑んで言った。言い分は理に適っている。イオネは反抗的に机に頬杖をつき、手紙をヒラリと机の隅に投げ出した。 「宴の予定でもあるのか」 「ええ。不本意ながら」  アルヴィーゼは隣の椅子に腰掛けてイオネの不満そうな顔を覗き込み、く、と短く失笑した。 「確かに教授は愛想を振りまくのが下手そうだな」  この冷ややかさが男どもをどう駆り立てるのか、きっと露ほども考えてはいないのだろう。 「そんなことする理由がないもの」  既に意識を学生の論文に戻したイオネが、横目でアルヴィーゼを見た。背中に流れる胡桃色の髪が肩の前に落ち、官能的な左頬の黒子を覆い隠している。 「イオネ先生は人が多いところが嫌いなんだよ。あとダンスも」  と、口を挟んだのは、黙々と添削をしていたバシルだ。 「バシル!余計なこと言わないで」  イオネはバシルを咎めたが、遅かった。 「ほう」  アルヴィーゼの顔には、何かを企むような笑みが浮かんでいる。 「これがドミニクの言っていた助手とやらか」 「そうよ」  バシルは赤い眉を片方上げ、アルヴィーゼに悪童のような笑いを見せた。 「どうも、公爵閣下。あんた死ぬほど偉そうだね」  イオネは驚いて顔を上げた。  家が商売をしていることもあり、相手がどんな人間だろうとそつなく対応してみせるバシルが、初対面の人間に対してこれほどの悪意をはっきりと示すのは、かなり珍しいことだ。と言うより、こんなバシルは初めて見た。  折悪しく公爵のためにコーヒーを運んできたソニアも、顔色をなくしている。 「成る程。アリアーヌ教授はずいぶんと良い模範になっていると見える」  アルヴィーゼの皮肉に顔を赤くしたのは、バシルだ。 「バシル、今日はもういいわ」  イオネがバシルから課題を取り上げた。 「イオネ先生!」 「あなたらしくないわ。わたしの助手としてここにいるのなら、最低限の礼儀を弁えなさい」  我ながらどの口が言うのかと少々気まずくもあるが、実害を被ったイオネが公爵に食ってかかるのと直接の被害を受けることのないバシルがただの好悪で攻撃的な態度を取るのとでは、話が違う。これを見過ごしては、これから学界に進むであろうバシルに良い影響を与えないだろう。 「あなたには少し自省する時間が必要だわ」  ぴしゃりと言われ、バシルは肩を落とし、椅子を下りた。 「ごめん、イオネ先生」  と言ったが、アルヴィーゼには敵意のある視線を向けただけで、フイとそっぽを向いて行ってしまった。ソニアも見送りのために、その後をついて行った。  扉が閉まった後でイオネがアルヴィーゼに向けた視線は、バシルよりも鋭かった。 「どうしてバシルがあんな態度を取ったか知らないけど、無礼はお互いさまよ。二度とわたしの助手を‘これ’だなんて呼ばないで」  アルヴィーゼは怒るわけでもなく、感情の読み取れない緑色の目を暫くイオネに向けていたが、やがてふっと愉しそうに笑った。 「何がおかしいの」 「本当にあの態度の理由が分からないのか」 「あなたが死ぬほど偉そうという理由以外に?」  イオネにとっては皮肉のつもりだった。が、アルヴィーゼは大真面目に「そうだ」と答えてイオネの瞳を覗き込んだ。 「見当もつかないわ。いくら無礼でも初対面の人に自分から喧嘩を売るなんて、全くあの子らしくないもの」 (鈍い女だ)  アルヴィーゼは暗い愉悦を感じた。  あんなもの、嫉妬以外の何でもない。淡い想いを寄せる相手が男と同じ屋敷で暮らしているのが気に入らないのだ。  イオネのことを物知り顔で語ったのも、敵対心からに違いなかった。自分の方がイオネのことをよく知っていると、一丁前に優位に立とうとしたのは明白だ。 「助手殿も苦労するな」  一方で、イオネは明晰な頭脳を持ちながら、そういう感情の機微には恐ろしく疎い。 「わたしがあの子に負荷を与えすぎていると言いたいの?」  イオネは眉間の皺を深くして、むう、と考え込んでしまった。  バシルの能力に見合う量の課題を与えているつもりだったが、もしかしたらそれがストレスでむしゃくしゃしていたのかもしれない。だから、いつもなら受け流せる程度の不遜な言動に腹を立てて、あんな態度を取ってしまったのではないか。――というのがイオネの考察だ。 「はっ」  アルヴィーゼが笑い声を上げた。こういうふうに笑うと、まるで少年のようだ。動物の生理現象――例えばネコが慣れない匂いを嗅いで口をあんぐり開けるのを見た時と同じようなものなのに、どういうわけか、胸がざわざわする。 「それで――」  アルヴィーゼは神妙な顔つきのイオネを眺め、意地悪く言った。 「助手殿が言うには、頭脳明晰なアリアーヌ・クレテ教授はダンスが苦手とか」 「苦手じゃなくて、嫌いなの」  イオネは目をぎょろつかせた。この男に苦手なことがあると思われるのは心外だ。 「それに、そういう集まりはいつも周りからじろじろ見られて居心地が悪いのよ。この年で独身だからか、ひいおじいさまが有名だからか知らないけど。ダンスに誘われたら余程のことがないと断るのは礼儀に反するだなんて、前時代的で馬鹿げた慣例も好きじゃないわ。とにかく性に合わないの」  アルヴィーゼは心底おかしくなった。どうやら苦労しているのは、バシル少年だけではないようだ。この女をその気にさせるには、並大抵の手管では足りないだろう。 「それを我慢してまで行く理由は?」  アルヴィーゼは、ひどく不満げに眉を寄せたイオネが唇を噛み、頬を赤らめる様を凝視した。 「…目当てのものがあるからよ」 「そうか」  アルヴィーゼは長い指で暗い笑みを隠した。 「まあ、ドレスを新調するなら侍女に仕立屋を呼ばせるといい」 「そうするわ」  不機嫌なイオネが髪を耳に掛けて学生たちの課題に再び視線を落とした。  彼女の意識が瞬時に自分から離れて紙上の文字へ向かっていく様子を、アルヴィーゼは不思議な気分で見ていた。まるで彼女の頭の中で鳴っている音が聞こえるようだ。  イオネがふと顔を上げたのは、髪を引かれたからだ。ツンと引っ張られた髪の先に、アルヴィーゼの指がある。見咎めようとしたとき、アルヴィーゼの高い鼻が髪の先に触れ、次に唇が触れた。  呆気に取られて動くのも忘れたイオネが見たものは、伏した黒い睫毛の下からゆっくりとこちらの目を射貫くように見つめてくる、深い緑色の瞳だった。 「では、また晩餐の席で。教授」  髪がふわりと背に落ちた。触れられた髪の先が熱い気がするのは、まったくもって非現実的だ。そんなところに神経など通っていないのだから、熱いはずがない。  どう対処してよいものか決めあぐねて身動きを忘れてしまったイオネに、アルヴィーゼは柔らかく笑いかけて書庫を後にした。 「…え、またあの人と食事をしなければならないの?」  なんと身勝手な男だろう。  イオネは静かに閉まった書庫の扉を呆然と見つめた。
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