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11 安息ではない日曜 - dies Solis dur -
朝が苦手なイオネは、仕事の日こそ聖堂の鐘の音でのろのろ起き上がり始めるが、そうでない日はたいてい陽が高くなるまで寝台の上で微睡んでいる。
この日曜日もそうだ。コルネール邸で暮らし始めてからはソニアが起こしに来てくれるから助かっているが、土曜日と日曜日は自分から起きるまで部屋に立ち入ってくれるなと願い出てある。
秋の陽射しがカーテン越しに柔らかく寝室の床に落ち、小さく開いた窓の隙間から心地よい秋花の香りが微風に乗って頬に触れる。
この心地よさに、イオネはぬくぬくと毛布に包まって思い切り怠惰な朝を惰眠に溶かしながら過ごしていた。
――その時。
ドカ!と寝台の縁が沈み込む感覚が心地よい睡眠を終わらせた。
重たいまぶたをゆっくり開いて音のした方にもぞもぞと身体を向けると、あろうことか目の前にアルヴィーゼ・コルネールが腰掛けている。
いつもなら何故寝室に勝手に入ってきているのかと激怒するところだが、生憎眠りから覚めたばかりのイオネは、あと二十分は経たないと頭が平常時の回転を取り戻さない。
「……なんでいるの…」
声もまだ半分眠っている。
「起きろ、教授。仕事だ」
「日曜日なのよ…」
「俺とこの屋敷にいることが既に仕事だと言っていただろう。ここで暮らす限り休日なんて概念はないんじゃないのか」
「予定があるの…」
と、まぶたを閉じたままイオネが言った。
「予定?」
「…午後になったらシニョール・モレノの店に蜂蜜酒を買いに行く。それから、ペトリ教授の農園で共同研究中のブドウの様子を見に行ったら、息子さんのサロンで…」
「全て取りやめにしろ」
アルヴィーゼはにベなく言って書簡を枕の横にバサッと置いた。
眠たさのせいで鈍くなっている頭でも、さすがに今の一方的な物言いにはカチンときた。イオネは目を見開き、身体を毛布に包んだままむくりと起き上がって、寝台に腰掛ける無遠慮な男を睨み据えた。髪はボサボサのまま、声も掠れたままだが、構っていられない。
「あまりにも身勝手だわ。対価は払うと言ったけど、わたしはあなたの奴隷じゃないのよ」
「奴隷にしては厚遇が過ぎるだろう、教授。これは正当な対価だ。俺は契約の範疇外のことは求めていない」
「どこがよ。わたしの仕事の邪魔にはならないって前提条件だったじゃない」
イオネが身を乗り出した時、身体を覆っていた毛布がはらりと膝に落ちた。
「対価はお前の時間と身体だと言ったはずだ。教授の仕事に支障が出ないよう取り計らっているからわざわざ今日――」
と、アルヴィーゼの口が止まった。イオネは眉を寄せてその不遜な顔を見た。目が合わないのだ。口論の途中にもかかわらず飽いて会話に関心を失うとはどういう料簡かと詰ってやる前に、アルヴィーゼが再び口を開いた。
「…お前、男と同じ屋敷で暮らしている自覚はあるのか」
「え?」
予想もしなかった言葉だ。イオネは目を丸くした。何故かアルヴィーゼの方が不愉快そうに眉を寄せている。
イオネが寝衣として着ているのは、真夏に下着として着るような袖のない木綿のシュミーズ一枚で、華奢な体つきの割に豊かすぎるほどの胸を隠すには、あまりに頼りない。襟を少し下に引っ張れば、全て見えてしまいそうだ。
ところが、女所帯で育ったイオネは今までそんなことを気にしたことがなかった。トーレの領主令嬢だった頃も両親は私邸にそれほど多くの使用人を置かなかったから、寝るときの格好など家族しか目にする者はいなかったし、女だけで生活していた時は尚更他人の目を気にする必要がなかったのだ。
礼儀を欠いたのだと自覚し、じわじわ罪悪感が襲ってきた。が、すぐに思い直した。
「わたしの寝室に勝手に入ってきたのはあなたよ」
これは明らかに相手が礼儀を欠いている。それも、常識的な範疇を遙かに超えて。
(寝ぼけて釣られるところだった)
身体を隠したら負けだ。
イオネは無様に慌ててガウンを着るようなことはせず、白い二の腕を露わにしたまま腕を組んで不遜な公爵に対峙した。
「あなたこそ女性を屋敷に置いているのだから礼儀を弁えて。それに、わたしが寝るときに何を着ていようと、あなたに指図される筋合いはないわ」
この時アルヴィーゼの目に浮かんだ剣呑な光が、苛立ちだったのか嘲笑だったのかは分からない。イオネは胸の奥で覚えた小さな動揺と一緒にそれを黙殺した。
「イオネ嬢――」
アルヴィーゼは唇の左端を吊り上げ、寝台を小さく軋ませてイオネの方へ手をつき、身を乗り出して、近付いて来た。秀麗で傲岸なその顔が、すぐ目の前にある。
今度は動揺を無視することができなかった。
「お前はもう少し世間を知った方がいい」
夜霧を思わせるような低い声が、イオネの耳朶を這った。びくりとイオネが身体を強張らせたのは、アルヴィーゼの指がシュミーズの肩紐に触れたからだ。熱が肌に直に触れて、波紋が広がるように身体がざわついた。
この男の目に見られると、射竦められたように動けなくなる。
指が肌に触れ、吐息が肩に触れた瞬間、ドッ、と心臓が揺れた。この衝撃がイオネの身体に自由をもたらし、イオネは公爵の指を払いのけて、その肩を思い切り押し返した。今自分の身体に起きたことが何であれ、この言動は侮辱と捉えていいはずだ。
「偉そうに説教たれるんじゃないわよ、アルヴィーゼ・コルネール!あなたこそ恥を知りなさい!今すぐここから出て行って!」
いつもは完璧なマルス語で話すイオネが、ルメオの言葉――それも生まれ育ったトーレのどぎつい方言で激しく捲し立てた。
「ハッ」
アルヴィーゼは愉しそうに笑い声を上げると、イオネの膝から毛布を取り上げて頭から被せるように放り、立ち上がった。
「さっさと朝食を摂って書庫へ来い。業者向けの契約書と約款の内容をマルス語とルメオ語の二言語に直してもらう」
パタンと閉まった扉を、イオネはひどくイライラしながら睨め付けていたが、大きく息を吐き出した後、寝台から下りてワードローブを開いた。
気に入らないが、屋敷に滞在する対価として手を貸すと約束した以上、イオネに拒否権はない。
(早く新しい家を見つけなくちゃ)
正直居心地がよくなってきたこの場所を離れるのは惜しい気もするが、あの危険人物から離れるなら早い方がいい。心臓が揺れるような衝撃が何だったのかは、よく分からない。未知なるものへの恐怖のようでも、他の何か冷静さを失わせるもののようにも思えた。
確かなのは、あんなものは身体に悪影響があるということだ。それもこれも、人をおもちゃにして遊ぶのが趣味の悪辣な男が元凶であることに疑いの余地はない。
仕事は順調に片付いた。
もともと専門分野だから、それほど手間はかからない。それよりも、問題は公爵だ。
「…そんなにわたしの仕事ぶりが心配?」
イオネはペンを走らせながら不機嫌に眉を寄せ、書面から視線だけを上げて向かいに腰掛けるアルヴィーゼを見た。
「心配はしていない。関心がある」
ふん、とイオネは鼻を鳴らしてその視線を黙殺した。
「あなた、暇なの?」
「まさか。睡眠時間を削るなとドミニクに小言を言われる程度には忙しい」
イオネは耳をほじるアルヴィーゼに向かって腕を組みながら小言を垂れるドミニクを想像した。なかなかおもしろい。
「ドミニクは勇敢ね」
「ドミニク?」
アルヴィーゼが低い声で聞き返したので、イオネはもう一度書面から顔を上げた。表情は変わらないのに、何故か不愉快そうに見える。
「いつから名前で呼んでる」
「え?」
「ファビウスさんと呼んでいただろ」
「さあ…最近かしら。ドミニクの方が呼びやすいもの。以前より話すことも多くなったし」
イオネは紙面に再び視線を落とし、翻訳を続けた。
「あ、公爵。約款のここの表現を変えたいのだけど、いいかしら。対応する言葉をそのまま使うよりも、ルメオでは習慣的に――」
ペンの柄で文書の一部を指し、もう一度顔を上げた瞬間、言葉が途切れた。
美しい海のようなエメラルドグリーンの瞳が、何か強烈な光を孕んでこちらを見ていたからだ。
目を逸らしたいのに、目が離せない。心臓が強く打ち始め、肌の細胞がざわざわと騒ぎ出すような感覚に陥った。
形の良い唇が開き、滑らかな声を発する様子を、イオネは魂を抜かれたような気分で見ていた。
「お前の好きにしていい」
「えっ」
一瞬何のことを言われているのか判断がつかず、狼狽してしまった。が、すぐに翻訳のことだと認識し、「ああ」と頷いた。
異常に顔が熱い。それからしばらく自分の心臓が妙なリズムで鼓動するのを身体の内側で聞き、ひどく居心地悪く感じながら、文字を書くことに没頭した。視界に入れないようにしているアルヴィーゼの存在が、いつになく集中力を乱す。
最後の一行を書き終えたとき、イオネは長い息をついた。
(やっと解放される)
書類を揃えてアルヴィーゼに渡し、ペンとインクの後始末をして、イオネはさっさと席を立った。時刻は既に三時を過ぎ、書庫に射す陽光が長くなりつつある。昼食は摂っていないものの、朝食の時間が遅かったからそれほど空腹は感じない。
「じゃあ、わたしはこれで失礼するわ」
と、書庫の扉を開けようとした時、背後からアルヴィーゼの腕が伸びてきた。驚いたイオネが思わず身体を強張らせた時、ゆっくりと扉が開いた。――そう、扉が開いただけだ。
(驚いた…)
何をされると思ってびくびくしたのか、悟られたくないし自覚したくもない。こんなにも距離感に過敏になっているのは、今朝の狼藉のせいだ。ただ、今すぐこの場を離れたかった。農園に行くには時間が遅くなってしまったが、蜂蜜酒なら買いに行く時間はじゅうぶんにある。
ところが。
「行くぞ」
アルヴィーゼに言われて、イオネは眉を寄せた。アルヴィーゼはさっさと先に出て、イオネが書庫から出てくるのを待っている。
「何ですって?」
「シニョール・ナントカの店に行くんだろう」
「モレノさんよ。馬車を借りて一人で行くわ」
「馬車は整備中だ。馬を用意する」
イオネは混乱した。
「でも、どうしてあなたと?」
「ついでに街を案内しろ。俺に借りを返すんだろう」
要は、仕事の延長だ。
先ほどもこの男のせいで身体が変な反応をしたばかりなのに、これ以上一緒にいることは避けたい。しかし、拒否すれば借りが増えるだけだ。
「…わかったわ、公爵。でもわたし一人で馬に乗れないの。誰かに轡取りをお願いして」
「必要ない。お前が乗るのは俺の馬だ」
「ええ…」
思わずいやそうな声が出た。隠そうともしていないのだから、当然だ。
アルヴィーゼはイオネの顔を見るなり、面白そうにニヤリと笑った。
「来い、教授。蜂蜜酒を調達に行くんだろう」
結局、イオネは拒絶を諦めた。せいぜい荷物持ちにでも活用してやればいいのだ。
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