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13 ブロスキの夜宴 - chez Broski -
皮下出血事件以降、イオネは宣言通りアルヴィーゼと食事はおろか会話もしていない。食事も仕事も自室に籠もり、あれほど気に入っていた書庫も、今では本を借りるだけの場所となっている。時折アルヴィーゼの姿を目にしても、さっさと遠ざかって空気のふりをする。その繰り返しだ。
できることなら早く住む家を見つけてさっさとこの屋敷を出て行きたいとは思うものの、やはり独り身の女に家を売ってくれる不動産屋はない。大学の近くに静かで小綺麗な空き家を見つけ、所有者である老夫婦に交渉を試みたが、買い手が付いてしまったという理由で叶わなかった。その上、ただでさえ日々仕事に追われる身だ。じっくり家探しをするための時間は、残念ながら、今のところはない。
こうして毎日を追われるように過ごしているうちに十日余りが過ぎ、ブロスキ教授の夜宴の夜を迎えた。
ソニアは仕立て終わったドレスや靴を「当日のお楽しみです」などと勿体ぶってずっと見せてくれなかったが、大学から帰ってきたイオネが自室で見たものは、今まで仕立てたドレスの中で一番素敵なドレスだった。
生地は光の加減によって浮かび上がる細やかな花の地織りが施されたオリーブ色のサテンで、肩まで大きく開いたネックラインと軽やかに広がる袖には銀糸の刺繍で細やかな蔦模様が施され、やや高い位置のウエストラインから広がりの少ないスカートが足元に流れるように落ちている。スリットからは襞の美しいインナースカートのエキゾチックな花鳥柄が覗き、古典的な美しさの中に、ソニアの独創的なアイデアが落とし込まれている。想像していたよりもずっと美しい出来栄えだ。
「すごく素敵…。全部あなたがやったの?すごいわ」
イオネが感嘆すると、ソニアははにかんで頬を染めた。
「実家が仕立屋なので、こういうのは好きだし得意なんです。女中仲間のマレーナも蔦模様の刺繍を手伝ってくれました」
「お礼を言わなくちゃ」
「光栄ですわ、アリアーヌ教授」
と言ったのは、ソニアではなかった。戸口に白髪交じりの栗毛をお団子にしたふくよかな女中がにこにこ立っている。
「あなたがマレーナね」
「そうですとも。さあ、お支度の時間ですよ」
「えっ…?」
戸惑うイオネの手を引き、マレーナは一階の浴室へ連れて行った。すでに温かい蒸気が石壁の浴室を満たし、陶器の浴槽に湯がたっぷりと張られている。
「着替えるだけではだめかしら」
「オホホホホホホ」
マレーナはころころと笑うだけで答えず、イオネのドレスの留め具を手際よく外し始めた。いつの間にか、他に三人の女中が浴室へ入ってきている。
(そう言えばわたしの侍女が争奪戦だったとか言っていたっけ…)
アルヴィーゼへの借りが増える気がしてなんだか癪だ。しかし、彼女たちの溌剌とした顔に拒絶する気も失せてしまった。
入念に身体を磨かれ、顔をぐりぐりとマッサージされた後、ラヴェンダーとオレンジの香油を肌と髪に塗られて、ウキウキした女中たちにガウンを着せられて浴室を出た。寝室に帰って来てからも、イオネは人形役に徹することにした。
「まぁー細い腰!ちゃんと召し上がってますか?教授。それにしてもお胸の形がきれいだこと」
「お肌はもともときれいなので白粉はあまり使わない方がいいですね」
「目元をきらきらさせたいので真珠のお粉をまぶたに塗りますね」
「口紅はほんのり、この色で…」
「髪はゆるく編み込むだけにしましょう。ふわっとさせた方がきれいです」
「ああ、でもほっそりしたお首が出た方が…」
「賛成です。うなじ出したいですね」
などと女中たちが侃々諤々意見を交わし合っているが、誰も着飾る本人の意見は必要としていない。イオネは何束も髪を編まれながら、「うん」「そうね」「任せるわ」の相槌を繰り返し、実際の人数の三倍は賑やかな女中たちのされるがままになった。
仕上げは、靴と首飾りだ。靴は足にぴったりで、ヒールも太くそれほど高くない。ドレスのインナースカートと同じ異国風の花鳥柄が刺繍されて、見事に調和している。これだけでもじゅうぶんだが、ソニアは最後に首飾りをイオネの首に付けた。
細い金の鎖に五つの真珠が連なったもので、軽く十分な長さがあるから、首飾りの苦手なイオネでもそれほど気にならない。が、イオネの見立てでは、かなりの値打ちもののはずだ。
大粒の真珠は完璧に近い球体で、照りもよく、白色の中に虹色を思わせる美しい色彩を映している。金の鎖にしても、これほど繊細な仕事ができる職人は、そうはいないはずだ。
「…これもわたしの予算で収まったの?」
「はい」
ソニアは満面の笑みを浮かべ、いつもよりやや高い声で答えた。
そして、彼女たちの仕事ぶりはこれだけではなかった。自分で辻馬車をつかまえようと屋敷を出たイオネの目の前に、既にコルネール家の馬車が用意されていた。それも、アルヴィーゼとの同居を公にしていないイオネの立場を配慮して、公爵家の紋章がない黒塗りの地味な馬車を用意してくれたらしい。
思えば、ソニアは常にイオネの味方だ。コルネール家に仕えている身にもかかわらず、アルヴィーゼに首に痕を付けられた時も一緒に憤慨して首回りを隠せるような付け襟を用意してくれたり、アルヴィーゼを徹底的に避けているイオネのために、邸内で鉢合わせないよう入浴や書庫へ行く時間を調整してくれたりした。
きっとこの屋敷を出て行く時、ソニアとの別れだけは寂しく思うだろう。
「ソニア…」
言いながら、こんなことを自分から言い出すのは、もしかしたら初めてかもしれないと思った。なんだか恥ずかしい。
「今夜からわたしのことを、イオネと呼んでくれる?」
これが何を意味するのか、ソニアは理解している。
ソニアは顔中で笑って応じ、目尻を指で拭ってイオネを送り出した。
ブロスキの屋敷はユルクスの中心地にある。それも、元首宮殿をはじめ、共和国の大貴族の邸宅が連なる一等地だ。庭園には大きな噴水があり、エントランスでは巨大な年代物のシャンデリアが招待客を歓迎している。大広間には、既に大勢の招待客が集まり、互いに挨拶を交わし合っていた。
ユルクス大学の理事の一人であるブロスキもまた、造船業を営み莫大な財産を誇る資産家でもある。こうした人々は、度々宴を開いては財界人や著名人を集め、強力な人脈を繋ぐ好機としている。今夜は貿易関係の集まりだから、大広間とは別のサロンで個人的な物品の売買や情報交換も行われる。
ブロスキ本人は「俗物の集まり」などと皮肉っているが、彼自身もまた、家業のため俗物に成り下がることをそれほど悪くは思ってはいない。
一方、イオネにとっては苦行だ。名前も知らない、興味もない人たちに話しかけられ、聞いている振りをしながら興味のない話に相槌を打ち、ダンスに誘われたら苦手でも応じなければならない。
しかも今夜は、いつもより周囲からじろじろ見られている気がする。
(もしかして、公爵家で暮らしていることがもう広まってしまったのかしら)
それくらいしか無駄に注目を浴びる理由が思い浮かばない。自分から敢えて言うようなことはしないものの、隠しきれるものでもないからきっと時間の問題だろうとは思っていた。
あの悪辣な男と妙な噂になるのだけは絶対に避けたい事案だが、単なる仕事上の関係だと明言する準備はできている。
(実際そうだもの)
首にちくりと痛みが走った錯覚は、無視することにした。
この宴で最初に声を掛けてきたのは、顔見知りのサマラス夫人だった。令嬢が二年前の教え子だった縁がある。
「この度、娘がようやく嫁ぎまして…」
と、嬉しそうに話している。
「大学を出てから出版の仕事に没頭するばかりでちっとも結婚に興味を示さなかった娘ですが、この度仕事関係で良縁に恵まれたのです。クレテ教授のお陰ですわ」
「サマラスさんの仕事ぶりなら出版関係の知人から伺っています。とても精力的で情熱があると。優秀な上に気配りのできる学生でしたから、彼女なら良縁に恵まれるのも当然です。それで彼女、仕事は続けるのですか」
「まあ、教授ったら」
冗談だと思ったらしい。サマラス夫人は扇子で口元を隠し、コロコロと笑い声を上げた。
「もちろん家庭に入りますわ。小さいながらも貴族の家ですもの。本人は続けたがっていましたけれど、夫を支える役目や子供が生まれたあとのことを考えますと、難しゅうございましょう。説得に時間をかけて、今は本人も納得していますわ」
イオネはちょっとした失望を胸の中で覚えながら、サマラス夫人に祝いの言葉を告げた。
独身主義でもなければ、女が家庭に入ることに対して批判的なわけでもない。それでも、女学生たちが自分の元で学びを得、巣立った後に、彼女たちが遍く彼女たち自身の望む姿になれていたら、と期待していたのだ。夫を支えることにも、子供を産み育てることにも幸せはある。自分が想像するよりもずっと尊いことなのだろう。それでも、彼女が出版の仕事を続けたいと望んだ情熱がこのまま墓に入ってしまうのだろうかと思うと、微かな虚しさが胸に残った。
もしかしたら、自分の考えは少しばかり甘いのではないか。しかしそれは、もはやイオネの介入すべきことではないことだ。
(それより今は、『アストラマリス』だわ)
イオネは給仕からワインを受け取って大広間を足速に横切り、主催者のブロスキを探した。
今日宴に参加する決め手となったものが、『アストラマリス』という古い詩歌集だ。何篇も違うヴァージョンが知られているうちの、最も古い文献が来るとブロスキから聞いている。恐らくは別室のサロンで売買される品物なのだろうが、売れてしまう前にひと目でも拝みたい。
「やあ来たね、アリアーヌ教授。今夜は一段と美しい」
ブロスキは、アカンサス模様の上衣に身を包んで、貿易仲間に囲まれていた。みなパイプや蒸留酒に目がない典型的な上流階級のおじさん連中だ。
「光栄です。ごきげんよう、みなさま」
イオネは形式的な挨拶口上を述べると、ブロスキに唇の形だけで「装飾写本」と言った。
「まあまあ。装飾写本は逃げんよ、アリアーヌ教授。それよりほら、ダンスが始まるぞ」
ブロスキはガハハと笑いながら、大広間の奥の楽隊を指差した。ゆったりした歓迎の曲を演奏していた楽隊が、ヴァイオリンの弦の強い音と共に、ルメオ伝統の舞踊曲を奏で始めた。
「ああ…わたしは遠慮します」
「どうかな。君に声を掛けたくてウズウズしている紳士諸君が大勢いるぞ」
茶目っ気たっぷりに言うブロスキの視線の先には、イオネにちらちらと視線を送る若者たちがいる。
「うちの学生じゃないですか」
「去年までのな。ここにいるのはみんな貴族の令息や実業家で、名門大学を出た一人前の若者たちだよ。そういう君も四年前はうちの学生だったろう。たまには人間の輪に飛び込んでごらん」
はぁ、とイオネは小さく溜め息をついた。ブロスキは小煩い伯父貴のようなものだ。少々鬱陶しくはあるが、これもこの世話好きな男の善意に他ならない。
「…どのサロンに装飾写本があるか教えてくれたら、そうします」
「ちゃっかりしてるねぇ。この大広間を左に出て三つ目のサロンだよ。丸い帽子を被った男が取り引きを仕切っている」
「どうも、教授」
イオネは眉を開いてしゃなりとお辞儀した。
「忘れないでおくれ、アリアーヌ。今夜は社交的な君を期待しているよ」
ウインクしたブロスキに向かってちょっと肩を竦めて見せた後、イオネは大広間の中央へ足を向けながら、できるだけ空気のように過ごそうと考えた。ダンスをしたくないのなら、誰からも誘われなければよいだけのことだ。このまま大広間を出てサロンを移れば、今夜の目的は果たせる。
ところが、わずか三歩目にしてその野望は砕かれた。
果敢な学生――いや、三年前の学生で現若手実業家である某から誘いを受け、イオネは渋々承諾した。
(あんまりこういう宴に出ないから、珍しがっているのね)
と、イオネはその程度にしか思っていない。
踊っている最中に容姿を褒められようが、何だか意味ありげな目配せをされようが、気に留めることもない。ただ相手の足を踏んで無様な姿を晒さないように全神経を足元に集中するだけだ。
その後も、ダンスの誘いはひっきりなしに来た。それほどパートナーとの接触がない伝統舞踊くらいなら何とか踊れるが、テンポの速い流行曲はダメだ。べたべたくっつかれるのは御免だし、そもそも運動の苦手な身体がついていかない。
ぼんやりとした顔の六人目の紳士と踊った後、曲が流行曲に変わったのをいいことに、イオネはさっさとお辞儀をしてその場から退散しようとした。
(これだけ踊ればもうじゅうぶんよ)
近くにいた給仕係からグラスを受け取り、一口飲んだ。甘味のあるエマンシュナ産の葡萄酒で、気疲れした後には丁度良い。
そこへ、男が近づいて来た。肩まで伸ばした金髪を誇らしげに撫でつけ、テカテカしたワイン色のシャツに光沢のある白い上衣、同じく真っ白なズボンといった出で立ちで、一見すれば華やかな容貌だ。――イオネの美的感覚にはまったく噛み合わないが。
「いい夜ですね、アリアーヌ教授」
(全然)
思わず口に出すところだった。男は誰あろう、イオネが軽蔑してやまないジャシント・カスピオである。
この男とは、ユルクス大学に学生として通い始めた頃からの顔見知りだ。当時ジャシント・カスピオは教授として在職していた叔父の助手という立場で、イオネはその叔父の講義によく参加していた。高名なマルス語学者だったからだ。その頃から、カスピオには何かと話しかけられることが多い。が、どの話題もイオネの好奇心を刺激することなく、何の話をされていたか覚えてもいない。凡庸で、論文はどれも裏付けに乏しく、学問への情熱がなく、自分を飾ることだけに心血を注いでいるような男だ。
ブロスキも同じくこの男を学界の恥さらしだと軽蔑しているから招待したはずはないが、恐らくは共和国議員の父親のツテで正当な招待客と同伴でもしてきたのだろう。この男が来ていると知ったら、ブロスキは気分を害すに違いない。
「どうも、カスピオさん」
イオネはニコリともせず言い、その場から去ろうとした。が、カスピオは手を差し出してダンスに誘ってきた。
「一曲いかがですか」
絶対に御免だ。
「結構です。足が痛いので」
イオネはピシャリと言った。
「それは大変だ。わたしが抱きかかえて外までお連れしましょう」
そう言ったカスピオの仰々しい笑顔にまでゾッとする。
「いいえ、必要ありません」
「実は、あなたにお礼をしたかったのです」
これほど離れたがっているのに、まだ話を続けるつもりだ。イオネの表情筋も無表情を取り繕うのが億劫になってきている。
「またわたしの仕事を引き継いでくださったでしょう。多忙なわたしを思い遣って…。あなたのその親切にとわたしへの気遣いに、お礼を申し上げたいのです」
「引き継いだのではなく、わたしが新たに個人的に受けた仕事です。それ以前に誰が関わっていたかは、わたしには関係ないことです」
カスピオはいっそう笑い皺を深くした。
イオネはひどく不快になった。腕に鳥肌が立つほどだ。
「なんと、謙虚なお方だ。わたしに気を遣わせまいとそのようなことを仰らなくてもよいのですよ、アリアーヌ。是非、今宵はわたしの屋敷でおもてなしを受けてください」
ヒッ、とイオネが息を呑んだのは、カスピオの手が腰に触れてきたからだ。
(き、気持ち悪い…!)
持っていたグラスを頭に叩き付けそうになったところで、別の腕がイオネの腰を掴み、強い力で後方へ引き寄せた。ふわりと香った糸杉を思わせる匂いが、腕の主を示している。
イオネが振り返ると、今までに見たことのない形相で目の前の男を睨め付けるアルヴィーゼの顔があった。冷たく、鋭利で、その目を向けられているわけでもないのにこちらがヒヤリとする。今にも相手を殺しそうだ。
「ちょっと、なんでいるのよ」
声を潜めて言うと、アルヴィーゼはイオネに視線を落としてニヤリと目を細め、唇の形だけで「話を合わせろ」と言った。
アルヴィーゼへの怒りが鎮火したわけではないが、今すぐにこの場を離れられるなら喜んで利用させてもらう。不快な虫けらよりも不遜な男の方がずっとマシだ。
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