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14 氷山の崩落 - l’iceberg tremble -
イオネより先にブロスキ邸へやって来ていたアルヴィーゼは、協力関係になりそうな有力者たちと挨拶や世間話を交わし、様々な情報を得ていた。
大広間へ入ってきたイオネの姿は、すぐに目についた。やはりあの女は無自覚に目立ちすぎる。視線が自分に集中しているのに、気にも留めていない。
ブロスキとの短い会話の後で大広間を出て行こうとしていたらしいが、身の程を知らない若造に声を掛けられてくそ真面目にもダンスに応じる姿を見て、自分でも不思議なほど不愉快になった。
(それにしても、侍女が優秀なのも考えものだ)
繊細で優美なドレスが、イオネの華奢ながら官能的な体付きを程よく際立たせて、元より美しい女をいっそう美しく磨き上げている。真珠の首飾りも細い首によく似合う。思った通りだ。
あれでは、目立ちたがらないイオネの意向とは正反対だろう。
それからも、アルヴィーゼは声を掛けてきた令嬢や貴婦人たちのダンスに応じながら、若造や紳士ぶった輩と踊るイオネを遠巻きに観察していた。男たちはどうやら口説いているようだが、イオネは本気で受け取る気配がない。
彼らとの会話に全く興味を示さないイオネの目が死んだ魚のように輝きを失う様子が可笑しくて、アルヴィーゼは時折笑いを噛み殺した。
その間、自分のダンスの相手がうっとりとした視線を向けながら何かを話していたが、適当に相槌を打って当たり障りのない受け応えをした。無意味でつまらない会話の内容など、聞いたそばから忘れていった。
ところが、最後にイオネに近付いて行った男はどうも様子が違っていた。
イオネの目は死んだ魚どころか、汚物を見るようにはっきりと相手を蔑んでいた。それほど不愉快な男なのだろう。
その男に腰を触られたイオネを見て、相手をしていた令嬢から無言で離れ、つい手を出してしまった。この十日余り、徹底的に自分を避けるイオネの観察を愉しんでいたが、これは看過できない。
頭よりも身体が先に動いた。こんな現象は、初めてだ。
アルヴィーゼは後ろからイオネの腰に腕を回し、恋人にするような仕草で頬に口付けをして、その細い指からカスピオにぶつけ損ねたグラスを抜き取って近くの給仕に渡した。イオネは腕の中で身体を強張らせているが、アルヴィーゼは構わず続けた。
「ここにいたのか、イオネ嬢」
イオネが恨めしげに見上げてくる。話を合わせろと言われたから、詰るに詰れないのだろう。頭の中でいけ好かない公爵への怒りとこの場から離れたい気持ちを天秤に掛けている様がよく分かる。
アルヴィーゼは不満そうに何かを言っているカスピオなど眼中に入れることもせず、イオネの手を取り、視線だけでダンスに誘った。
「…本当に疲れているから一曲だけ」
イオネが観念してムスッと応じると、アルヴィーゼは誘惑するような目でイオネを見つめ、その手の甲に口付けをした。イオネは手を引っ込めたいのを我慢するように、唇を引き結んでいる。
「いいだろう」
二人は大広間中の注目の的だ。
今まで誰とも親しく付き合ってこなかったアリアーヌ・クレテ教授と隣国のルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールの組み合わせは、間違いなく今季のルメオで一番センセーショナルな事件に違いない。
イオネはアルヴィーゼの手が腰に添えられた途端に身体がむずむずして逃げ出したくなったが、不思議と不快ではなかった。あんなことをされたのに不快ではないなんて、感覚が狂い始めているのかもしれない。すっかり消えたはずの首の痕が、ちくりと痛んだ気がした。
「それで、あなたはどうしてここにいるのよ」
アルヴィーゼが速いテンポに合わせてステップを踏んだ時、イオネもそれに合わせながら非難がましく囁いた。不思議なことに、このダンスは疲れている足にも苦ではない。アルヴィーゼのリードが上手なのだ。感謝すべきところかもしれないが、今はそういうところも鼻につく。
「説明が必要か」
「…確かに愚問ね」
貿易関係の夜宴を開くブロスキが、新規事業のためにやって来た注目株を無視するはずがない。今まで同じ宴に出ると隠されていたことには何となく腹が立つが、徹底的にアルヴィーゼを避けていたのは自分だ。
「お前はずいぶん忙しそうだったじゃないか」
周りに聞こえない程度の声で、アルヴィーゼは意地悪く笑って見せた。多分、周りからは秘めやかな睦言を交わし合っているように見えるだろう。それこそアルヴィーゼの狙い通りだ。
「いつから見てたのよ」
「渋々若造どもと踊るところから、あの間抜けにグラスを叩き付けようとしたところまで。なかなかの見ものだった」
「本当にいやな人!」
イオネがアルヴィーゼの肩に添えた手を拳にして強く叩いた時、ぐい、と腰を強く抱き寄せられ、アルヴィーゼが覆い被さるように上体を曲げてきた。イオネは飛び跳ねた心臓を無視して調子を合わせ、腰を支えられたまま逸らし、突き刺さるようなアルヴィーゼの目を見つめ返した。
「俺と踊るよりあの間抜けのほうがよかったとは言わないだろう」
イオネのスミレ色の目が僅かに動揺を映して泳いだ。アルヴィーゼはイオネの腰を引き上げると、その身体をくるりと回転させ、元のステップに戻った。
「あのマヌケ、すごく不愉快なの。でもあなたのことも許したわけじゃないわ」
「言っておくが、あれはお前が忠告を何度も無視したからだ」
アルヴィーゼは白々と言った。
「何の忠告よ」
「女だということを自覚しろという忠告だ」
「また、それ。‘女だから’。あなた、わたしが自分を男だと思っているように見えるの?」
「見当違いもいいところだ、教授」
アルヴィーゼの手が腰をスルリと這い、尾骨の上に触れた。
「ひゃっ、ちょっと――」
イオネが身を捩ろうとしたが、アルヴィーゼはイオネの手を強く握り、腰に添えた手で抱き竦めるようにして離れることを許さなかった。緑色の目の奥が暗くなる。
「自分が捕食対象になっているとは考えないのか」
「ほ、ほしょく…?」
言いながら、イオネは顔色を変えた。アルヴィーゼの髪が頬をくすぐり、首筋に高い鼻が触れている。またあの夜のように痕を付けられると身構えた瞬間、曲が終わり、アルヴィーゼの身体が離れた。
周囲の視線がこちらに注がれている。羨望、嫉妬、驚嘆がここに集中しているようだ。いや、そんなことはどうでもいい。それよりも今は心臓がおかしい。余裕綽々とした顔で不遜に笑む目の前の男が、この不整脈を起こさせたのだ。
イオネは儀礼的なお辞儀もせず、その場を去ろうとした。が、アルヴィーゼが腕を引いて阻んだ。
「俺から離れたらまた他の男に誘われるぞ。それとも、噂好きの連中の質問攻めに遭うか。どうする?教授。俺か連中か、今選べ」
イオネは不機嫌に息を大きくつき、アルヴィーゼに手を引かれるまま庭園へ出た。
アルヴィーゼが給仕係からグラスを二つ受け取り、長椅子に腰掛けるイオネに一つ差し出すと、イオネはすんなり受け取って濃い赤色のワインをひと息に飲み干した。喉が熱くなるのを無視して、すぐにアルヴィーゼの持っていたグラスも引ったくり、二杯目も一気に飲み干した。
「おい…」
アルヴィーゼが顔をしかめてイオネからグラスを二つ取り上げると、それまで無表情を取り繕っていた顔に憤怒が広がっていった。
「……全部あなたがユルクスに来てからよ」
イオネが低い声で呟いた。
平穏な生活が狂い始めたのはアルヴィーゼ・コルネールが屋敷と周りの土地を買い上げてからだ。その全ての元凶が目の前で涼しげに佇んでいるのが、どうにも許せない。
イオネが恨みがましい眼でキッとアルヴィーゼを睨むと、言葉が堰を切ったように口をついて出た。
「あなたがあの土地を手に入れてから全てがおかしくなったわ。伯父の土地に未練なんて少しも無いけど、全然納得いかない。どうして女はひとりだと家を持つ事もできないの?わたしには男に負けない収入も才覚もあるっていうのに。みんなわたしの能力を認めているくせに、女だからって理由で社会的な立場は弱いまま。女は結婚して子を産むことでしか価値を示せないわけ?そんなのおかしいわ。わたしの仕事は、誰かの素晴らしい才能をそんな馬鹿みたいな価値観に縛られて腐らせていくためのものでも、誰かの尻拭いをするためのものでもない。それなのに、宴に出れば自分の自由に振る舞うことも許されず、好きでもないダンスばっかりさせられるのよ。…わたしが、独身で、女だから!」
イオネはきついトーレの方言で捲し立てながら、苛立ちを発散させるかのように、自分の膝のあたりを何度も叩いた。
「お前、酔ってるのか」
黙って聞いていたアルヴィーゼがその手を掴んでやめさせると、イオネはハッとしたように手を止めた。
アルヴィーゼはイオネの顔を不思議な思いで覗き込んだ。泣いているかと思ったが、涙はない。ただ、篝火と月明かりがその目に映り込んで、水面のようにゆらゆらと輝いている。
「…あなたも同じよ。金と権力に物を言わせて、‘捕食対象’をおもちゃにして愉しんでる。悪辣極まりないわ」
「それについてはもう少し議論が必要だな」
「ふん」
イオネは深く腰掛け、ドレスのスカートの中で脚を組んで、膝の上で頬杖をついた。
「議論の余地なしよ」
「負けるのが怖いからか」
アルヴィーゼが愉しそうに笑った。
「はぁ?」
「俺の言動の理由を考えたことは?」
「そんな無駄なことにわたしの時間を使いたくないの」
「本当に無駄か?お前は自分の考えでしか物事を捉えない。それでは真理を得ることはできないぞ」
また不整脈だ。暗くなる緑色の目から視線を逸らした時、首筋に手が伸びてきた。アルヴィーゼの長い指が、首飾りを弄んでいる。
「な…なに?」
イオネは困惑した。いつもなら怒るところなのに、酒と疲労のせいで思考が鈍っている。
アルヴィーゼは黒い睫毛を伏せ、イオネの首筋を凝視しながら唇を開いた。
「よく似合っている」
「…それはどういう意味?」
何か裏があるのではないかと思ってイオネが訊ねると、アルヴィーゼは苦笑して言った。
「額面通りに受け取ったらどうだ」
イオネは一瞬の後、顔が燃えるように熱くなった。急いで顔を背けると、アルヴィーゼが息だけで笑う気配がした。
「それで、目当てのものは見つかったのか」
「ああ、そうだった。アストラマリス…」
すっかり忘れていた。
「なんだそれは」
「古代からたくさんの言語を経て伝わってきた詩歌よ。天体の並びを遊び歌にして、昔の人々はそれで暦や方角を学んだのよ。小さいとき父さまに教わって、言葉の持つ不思議な力に興味を持ったのが、学問の道に入ったきっかけなの。その一番古い文献が今夜来ると聞いて、ひと目でも見たかったけど――」
イオネはふうぅ、と大きな溜め息をついた。
「…もう疲れちゃった。戻ったら絶対じろじろ見られるし。あなたのせいよ」
イオネはしおしおとうなだれて長椅子の上で膝を抱えた。
「では帰るぞ。ドミニクが待っている」
「えっ…」
顔を上げると、アルヴィーゼは既に立ち上がっている。
イオネが躊躇していると、アルヴィーゼは手を差し出して促した。
「同じ馬車で?噂が立つじゃない」
多くの目がある場所で二人で馬車に乗れば、妙な噂が立つに違いない。おまけに相手はエマンシュナ王の血族で王家よりも裕福なルドヴァン公爵だ。ただでさえ注目されている男の隣にいたら、嫌でも自分まで目立ってしまう。
が、アルヴィーゼは白々と言った。
「今更だろ」
あれだけ見せつけて周囲の男どもを牽制してやったのだ。同じ馬車に乗らなかったとしても噂は早晩立つに決まっている。
「歩けないなら抱えてやってもいいぞ。この間みたいに」
「ふざけないで。誰かの手を借りなくたってひとりで歩けるわ」
イオネはアルヴィーゼの手を払いのけて立ち上がった。
馬車の前では、御者とドミニクが待機していた。イオネが乗ってきた馬車だ。
「お前は先に俺の馬を連れて帰れ」
アルヴィーゼの命令に、ドミニクは意味ありげに微笑して従った。
(馬に乗ってきたなら帰りも自分で乗ればいいのに)
と思ったが、もう口を開くのも億劫だ。
(それにしても、疲れた…)
イオネには極めて不本意なことに、社交界どころか大学でも噂の的になってしまうかもしれない。しかし、疲れて何も考えられなかった。更にワインの酔いが回って、頭がふわふわする。イオネはアルヴィーゼが向かいの席に脚を組んで座るのを何となく眺め、目が合うとムスッとした表情を作って窓の外へ視線を移した。
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