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45 美は力 - la Beauté est une Force -
大学から帰ってきたイオネは、ややうんざりした気分でソニアや女中たちのされるがままになっていた。
ここに三人の妹たちも加わっているから、さらに賑やかだ。宴のたびに母にせっつかれ、妹たちには人形遊びのようにあれこれと着せられていたかつての少女時代を思い出す。
それも、毎回イオネが舌を巻くほど器用なもので、姉妹四人分のドレスが押し込められた古びたワードローブからあれこれと引っ張り出しては流行のスタイルに自分たちで直したり、着方を変えアレンジを加えるなどして姉妹で着回したりしていた。中でもクロリスの独創性は群を抜いていて、いつも宴で真新しいドレスを着ているように鮮やかな手腕だった。イオネだけはユルクス大学に入ってからというもの、学業を理由に煩わしい社交界から距離を置いたが、妹たちは結婚するまでユルクスの社交界の花として君臨していた。
しかし、今目の前にあるのは、古びたワードローブなどではない。
「こんなにたくさん綺麗なのがあったらどれにしようか迷っちゃうね」
イオネがドレスについて言葉を発するよりも先に、リディアはいつの間にかイオネ専用に用意されていた衣装部屋を覗いていた。
「これって半分はソニアの意匠なんですって?すごい才能だわ。どれもイオネによく似合いそうなものばかり」
「あっ、これ今流行ってるやつ!しかもルーデシャンのレース使ってる!最高級品よ」
「どれどれ」
妹たちはひとしきり騒いだ後、光沢のある孔雀石色のドレスを選んだ。襟が肩まで大きく開き、滑らかに広がるスカートの深いスリットから繊細なレースが覗くものだ。
彼女たちがこの色を選んだ意図は、何となく分かる。アルヴィーゼの目の色に近い色味のドレスを身に纏うことで、ふたりの親密さを大いに印象づけようとしているのだろう。
「ねえ、わたしの意志は?」
イオネはむくれた。着るのは自分なのに、どれが良いかさえ訊かれない。
「イオネが選んだら地味ぃーで気難しそぉーなやつになっちゃうでしょ。外国からも賓客が来るっていうんだから、それなりに着飾らないとだめよ。いくら顔が美人でもね、公爵家の大宴会で野暮ったい格好したら舐められるわ」
「う…」
「いい?独身で美男で金持ちの公爵には、娘を嫁がせたいオジサンオバサンと結婚したい小娘たちがたくさん群がってくるわよ」
昔から社交界で女性同士の激しい闘争に身を投じてきたクロリスには、勝利者としての威厳がある。イオネがこの弁舌を大人しく聞くことにしたのは、クロリスは謂わばこの分野における有識者だからだ。
「美しさは力よ。兵法と同じ。貌は将、ドレスは兵、装身具は武器。例え将がポンコツでも、大砲に玉が入っていなくても、めちゃくちゃ強そうに見えれば先制攻撃は成功よ。目に見える戦力の差が敵を圧倒するの。相手の、戦意を、挫くのよ。そして軍師の戦術で、敵を完膚なきまでに叩き潰すのよ」
クロリスが深い青の目をくゎっと見開いた。まるで本当に兵士たちを率いる将軍のように力強い。
「軍師って?」
リディアが訊ねた。
「知性のことよ。イオネには誰よりも優れた軍師がいるでしょ。ちょっと偏ってるけど」
「なるほど、道理ね」
神妙に頷いたイオネのそばで、ニッサがギロリとクロリスを睨め付けた。
「ちょっと、イオネはポンコツじゃないわよ。あなたそんなだから女狐って呼ばれてたのよ」
「ただの例えじゃない!いちいち揚げ足とらないでよ、この姉狂い」
「姉狂いって何よ。変な呼び方しないで」
「本当のことでしょ」
リディアは突如始まった姉妹喧嘩にケラケラと笑い声を上げながら、イオネの首飾りを選んでいる。
「これ、素敵」
と手に取ったのは、ブロスキ邸の夜会の時に新調した真珠の首飾りだ。
「今夜の武器の一つはそれにするわ。気に入っているの。以前自分でドレスを仕立てたついでにソニアが予算に合わせて選んでくれたのよ。彼女優秀でしょう」
イオネが誇らしげに言うと、イオネの髪を結っていたソニアは一瞬だけ口元を強張らせ、言葉なくにっこりと微笑んだ。
「えっ、ほんと?イオネが装飾品にこんなにお金かけると思わなかった。だってこれ…」
リディアはぴたりと口を閉じた。ソニアがイオネの後ろでぷるぷると首を振り、何か必死に訴えるような目をしていたからだ。いくつもの鉱山を持つ宝石商の一族に嫁いだリディアは、その分野の経験が浅い割に夫や舅も舌を巻くほどの目利きだ。一見慎ましやかな首飾りの真珠そのものと彫金技術にどれほどの値打ちがあるか、一目で理解した。
しかし、ソニアの様子からするとそれを口にしてはいけないようだ。なんとなく、この首飾りにまつわる物語が見えた気がした。
「…ま、いっか。大事にしなよぉ」
リディアは首飾りを鏡の前の台にそっと置いた。
アルヴィーゼは絢爛に整えられた大広間で、続々と集まり始めた招待客と挨拶を交わしていた。友好的な笑顔の裏で、彼ら一人一人を品定めしている。ユルクスに本拠地を構える商会の大旦那やその関係者、ルメオの港を多く使っている異国の貿易商、領地に貿易港を持つ貴族豪族や、隣国イノイルの王族、エル・ミエルドの皇家に連なる身分の者までこの夜宴に集まった。中にはひと月の航海の末にこの宴のためにユルクスまで足を運んだ者もいる。ルドヴァン公爵の宴となれば、それほどの価値があるのだ。
「よお、親友!」
と陽気に現れた軍装の偉丈夫は、マルクだ。背が高く精悍な美男のアルヴィーゼと、軍人らしく厳めしい体付きに似合わず甘い顔立ちのマルクが並ぶと、そこに視線が集中する。エマンシュナの社交界では花形の二人だ。
「お前は呼んでいない」
「呼ばれなくても晴れ舞台に駆けつけるのが親友だろ?」
マルクは邪心など微塵もない顔でキラキラと笑った。目立つことの好きな男だから、招待などしなくてものこのこやって来るだろうと思っていたのだ。
「どうせ女を漁りに来たんだろう」
「漁るなんて言い方は女性に失礼だ、アルヴィーゼ。俺は心躍るような出会いを求めてるんだよ。この機会を利用させてくれたっていいだろ」
「まあ、いい。お前には借りがあるからな」
アルヴィーゼは給仕から瓶を受け取り、空になったマルクのグラスに注いでやった。珍しくこの無遠慮な男へ客人に対する礼を示したのは、少なからず今回の件を感謝しているからだ。
「気にするなよ、親友だろ」
「違う」
「ああ、ほら見ろ。さっそく出会いが向こうからやってきた」
マルクは上機嫌に片目を瞑って見せた。楽団の奏でる華やかな曲でダンスに興じる人々の間を縫って、若い令嬢が二人、チラチラと意味ありげな視線を送りながら近づいて来る。
視線を送ってくるのは彼女たちだけではない。アルヴィーゼの予想通り、多くの招待客が年頃の令嬢を同伴していた。珍しくもないことだ。
そういう類の気が向かない面倒事はいつも余計な恨みを買わない程度に流してきた。相手が世慣れた貴婦人であれば、気が向いた時にはその場限りの関係を持つこともあったが、もはやそういうことは起こり得ない。
豪奢に着飾った令嬢たちは恭しくお辞儀をすると、科を作るような笑みを広げた。
「わたくしたちにダンスの手ほどきをお願いできませんか」
選ばれる自信があるのだろう。そう言ってアルヴィーゼの腕に触れてきた令嬢の一人は、共和国議員の娘だ。
「先約がある」
アルヴィーゼは煩わしさを隠さずに腕を上げて令嬢の手を払いのけた。相手は気分を害したようだが、公爵たる己が気にしなければならないことではない。
「先約のお相手というのは、もしやアリアーヌ・クレテ教授では?」
その名を呼ぶ声色が刺すように鋭い。同じ貴族階級の女でありながら自立しているイオネに嫉妬しているのだろう。或いは、両親から古臭い価値観を植え付けられて身の程も弁えず軽侮しているのかもしれない。
「ご自身の楽しみよりもお仕事上の礼儀を重んじるなんて、閣下は勤勉なのですね。ですが、クレテ教授は宴の場でも美しさより厳格さを重視される方ですから、閣下とのダンスには少々気後れされるのではないでしょうか」
つまりイオネが公言している通り仕事上の関係である以上は、あんな野暮ったい女と公爵が踊る義理はないだろうと言っているのだ。明らかに社交的ではないイオネを揶揄している口ぶりだ。しかも、自分と踊る方が楽しいなどと思い上がっている。
(気分の悪い女だ)
わざわざ口を開くのも億劫だ。
この時アルヴィーゼが見せた冷酷な目に、令嬢は怯えたようだった。
アルヴィーゼが凍りつかせた空気を陽気に溶かすのは、いつもマルクの役目だ。マルクが話題を変え、自分と大広間のどこかにいる部下に相手をさせてほしいと申し出て取り成そうとした時、大広間の空気が変わった。それまで鳴り響いていた軽やかな協奏曲が遠くなり、風が大広間中の燭台の火を揺らした。
開け放たれた大きなアーチを描くガラス扉の向こうは、いくつものランプが柔らかく草花を照らす中庭だ。ステンドグラスの灯りが中庭の石畳に色彩を落とし、おとぎ話に登場する妖精の森のような空気が漂っている。その奥から現れた女たちの姿を、多くの者がニンフと見間違えただろう。
アルヴィーゼは脇目も振らずに中庭の入り口へ進み出ると、孔雀石色のドレスを纏った美女の目の前で立ち止まった。
白い肌が、胡桃色の髪が、燐光を放つように輝いている。
アルヴィーゼはその柔らかい手を取って、指先に口付けをした。
いつものような不敵な笑みはなく、軽口もない。ただ、感情を映すのを忘れてしまったような顔でイオネの顔を覗き込んでいる。イオネが緊張に耐えかねて唇を噛むと、エメラルドの瞳の奥に甘やかな熱が広がった。
「誰よりも美しい。俺のイオネ・アリアーヌ」
イオネの頬がぱあっと染まった。
「ど」
と唇が開いたとき、紅の色もいつもと違うことに気付いた。淡いが、いつもより濃い。長く激しい口付けをした後の色を思い出す。
「どうもありがとう…」
顔に出さないようにしているようだが、声色がひどく恥ずかしそうに上擦っていた。
(さっさと終わらせよう)
何束にも編み込まれ、美しく纏められた髪の後ろで魅惑的な細い首が露わになり、大きく開いた襟からは嫋やかな肩が覗いている。その肌を飾っているものは、アルヴィーゼがこっそり贈った真珠の首飾りだけだ。
(気付かぬうちに自ら首輪を嵌めてくるとは)
どうにも口元が緩むのが我慢できない。早くあの首に噛みつきたくて仕方がない。
「最初のダンスだ、イオネ」
大広間中の人々が、二人を見ている。
アルヴィーゼはたった今、恐らくこの大都市ユルクスにおいて最も影響力を持つであろう人々の前で、初めて自ら明示したのだ。イオネ・アリアーヌ・クレテが、ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールの恋人であることを。
イオネは凜然と顎を上げて、アルヴィーゼの手を握り返した。
「ルドヴァン風にして」
「いいだろう」
アルヴィーゼが唇を吊り上げた。
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