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51 教授の一分 - la fierté d’une professeure -
イオネの行動は早かった。
翌日にはコルネール家の使用人に頼んでサマラス夫人に言付けを取り付けてもらい、令嬢に会いたい旨を申し入れた。ジョアンナ・サマラスは既に嫁いでいるから、母親のサマラス夫人に仲立ちを頼む以外に接点がなかったのだ。
サマラス夫人は喜んで快諾した。ちょうど二日後に自邸での夜宴を予定しているから、娘の恩師であるイオネにも是非出席して欲しいというのである。
普段なら宴は避けるところだが、この時ばかりは迷わず出席の返事をした。
言付けを預かった使用人から事後報告を受けたドミニクは、主人の不愉快そうな反応をげんなりと思い浮かべながら、これに関する報告書をルドヴァンへ書き送った。この短い手紙が主人の下に届く頃には、宴は始まっているだろう。
夜会好きのサマラス夫人が自邸で催す夜宴は、それほど規模の大きなものではない。夫人が個人的に仲良くしている上流階級の人々やその令息令嬢が集まって、ダンスやゲームに興じ、或いは噂話で笑い合うだけの気軽な集まりだ。
ルドヴァン公爵と恋仲にあることが公になりユルクスの社交界ですっかり旬な存在になってしまっているイオネは、無論、サマラス夫人とその取り巻きから大歓迎を受けた。質問攻めに遭う前にその場から離脱できたのは、今宵の同伴者であるドミニクのおかげだ。
ドミニクがイオネをエスコートしていることには、理由がある。
イオネをひとり夜宴に送り出せば、アルヴィーゼは怒り狂うだろうし、かと言って他の男に同伴させることも決して許さない。唯一の妥協案が、公爵の代理としてユルクスの諸事を任されたドミニクがイオネに付き添うことだったのだ。
ドミニクは細心の注意を払いながらダンスに興じる人々の隅を進むイオネの一歩後ろを歩き、イオネに近づいてくる男を見つければ、それとなく後方から睨みをきかせて相手を追い返した。同伴者というよりは、護衛と呼ぶ方が似つかわしい。
程なくして、イオネはかつての教え子を見つけた。
「アリアネ先生」
と、栗色の髪を優美に結い上げた若い貴婦人が、それまで同年代の友人たちと談笑していた席を立ち、驚いた様子でイオネに礼をした。
「お久しぶりね、サマラスさん…今はルクリス夫人だったわね。ご結婚おめでとう。少し二人で話せるかしら」
「もちろんです」
ジョアンナ・ルクリス夫人はイオネを広間の奥にある応接間へ案内した。扉の外にはドミニクが立ち、邪魔が入らないよう周囲を見張っている。
「ルクリス夫人、あなたに聞きたいことがあるの」
「ジョアンナと呼んでください、アリアネ先生」
ジョアンナは遮るようにして言った。硬い声だ。イオネには、その理由がわかるような気がした。
「そうね。ジョアンナ」
イオネは顎を引いて、ジョアンナの張り詰めた顔を見た。彼女はきっとイオネが何をしに来たか分かっているのだろう。
「最近ある本を読んで、あなたを思い出したわ」
イオネはそう切り出した。普段の彼女なら初っ端から単刀直入に論点を明らかにするところだが、この時ばかりは気が引けた。
「わたし、記憶力がいい方なの。今までに受け持った学生の文体や書き癖、翻訳する時の言葉の選び方とかも、案外覚えているのよ。もちろん、論文の内容もね」
ジョアンナは俯いた。何かを恥じるように、自分の右手を左手で握りしめている。
「わたしが読んだ本は様々な地域の古い詩歌をマルス語訳したもので、韻律の表現がとりわけ素晴らしかったわ。アストラマリスについての注釈では、独自の考察も述べられていた。その起源が古代帝国に実在した専門機関で作られた可能性があるというものよ。あなたが卒業論文で発表した内容と全く同じ」
この部分を、ヴィクトル老公も称賛していた。もっと早く気づくべきだったのだ。もしかしたら、知恵を貸してくれたかもしれない。
「でも、翻訳者としてあなたの名が載っていないのはどうしてかしら」
ジョアンナは薄い唇を硬く結び、沙汰を待つ罪人のように顔を青くしている。
「責めているんじゃないわ」
「いいえ。責めています、アリアネ先生」
イオネはジョアンナが顎を震わせるのを見て、罪悪感を覚えた。もしかしたら、今彼女をひどく傷付けているのではないかという、薄靄のような恐怖がある。しかし、イオネには言語学者、翻訳者として、そして、ジョアンナ・サマラスを導いた教授としての一分がある。
「何があったか聞かせて。わたしはあなたの先生なのよ。わたしには知る責任があるわ」
そしてそれは、イオネがかつての教え子にできる唯一のことだ。
ルドヴァンでは、乾いた冷たい風が領地を囲う丘陵から吹き付け、朝には肌を刺すほどの寒気が空気中に満ちた。いよいよ本格的な冬の到来である。
この短期間で、アルヴィーゼは領内での新たな普請事業を始めた。目的は、農閑期の農民の収入源にするためと、いまひとつ、近い将来この地に来ることになるイオネの欲望を満たすためだ。
エマンシュナには、長い時間湯に浸かる習慣がなく、イオネが設計したように大きな浴槽と壁の内部にパイプを巡らせて浴室全体を温めるような、温浴を心ゆくまで楽しむための機能を持った浴室は殆ど見られない。
ルドヴァン城にある浴室も、私室の続き部屋に陶器の浴槽を備え付けて使用人が湯を運んでくる程度のものだ。
これでは、風呂好きのイオネを囲い込むのに十分な設備とは言えない。
「どういう風の吹き回し?」
ユーグは兄の行動に驚いた。これまでも突然思いついて事業を始めることはあったが、城の改築――しかも浴場の普請事業とは、それほど入浴に熱心だった記憶もないから、当然の疑問とも言える。
「必要になる」
と、アルヴィーゼは言葉少なく答えた。
「そろそろ教えてよ、兄さん。ルメオでどんな出会いがあったんだ?」
アルヴィーゼは設計士から預かっている設計図に書き込みを入れる手を止めることなく、視線だけを動かして、煩そうに弟を一瞥した。
「だって、それしかないだろ。全然こっちに戻りたがらないし、やっと戻ってきたと思ったら寝る間も惜しんで仕事してるじゃないか。すぐにでもユルクスに戻りたくて仕方ないって感じだ」
「あちらには仕事の邪魔をしに来る弟がいないからな」
「騙されないぞ」
「煩い」
アルヴィーゼはシッシと手を振って弟を追い払った。不満げに辞去したユーグと入れ違いでやって来た使用人の手に手紙を見つけると、アルヴィーゼは自ら席を立ってそれを受け取り、人払いをした。
イオネの手紙は、淡々としているようで独特な表現に富んでいる。バシルが数学者の道にも興味を示していることを挙げて「オリーブの枝にブドウも成ると知ったのにどちらもわたしが食べてはいけない実」だと綴っているのには思わず笑い声を上げてしまった。イオネの悔しそうな顔が思い浮かぶ。
最後に「ではあなたが帰ったら自分の寝室を使います。Ione. A」と添えられているのを見て、アルヴィーゼは真鍮のペンで流麗な署名を記すイオネの白く嫋やかな指を想像した。
(今夜も俺の寝室で眠りにつくだろうか)
イオネが毎晩アルヴィーゼの残り香にその身を包めば、アルヴィーゼが戻る頃には寝台は二人の匂いで満ちていることだろう。その夜を思い浮かべるだけで、身体の一部が無様なほどに熱く滾った。人払いをしておいて正解だ。
執務の合間にイオネへの返事を書き終えた頃、今度はドミニクからの報告が届いた。
読み終えるとアルヴィーゼは先ほどまでの上機嫌が嘘のように不機嫌になり、イオネへの手紙に追伸を記した。
まず、イオネが宴に出るのは気に入らないが、仕方がない。ドミニクが同伴者として夜宴に出るのは良い判断だった。が、問題はあの宴が嫌いで他人に然して興味もないイオネが、既に自分の手を離れた教え子に会うためだけに、その母親の主催する宴に出席する気になった経緯だ。
(良い理由ではないだろうな)
ただの勘ではない。
ドミニクがそれ以上の詳細を送ってこないということは、イオネがそれ以上のことを話さないからだ。アルヴィーゼはこの数か月でイオネ・アリアーヌ・クレテという女をよく観察し、理解を深めてきた。イオネは嬉しいことがあれば少女のように顔を輝かせて饒舌になり、相手にそれがどれほど素晴らしいことかを伝えようとする。逆に、自分が受けた理不尽さや不愉快さについては、進んで多くを語りたがらない。相手に弱みを見せることになると思っているからだ。
つまり、今回の突然の行動の源になっているものは、後者だ。
宴の土産話を楽しみにしている。――というアルヴィーゼの追伸を読んで、イオネはふかふかのソファの背もたれに身体が沈みそうなほど深く背を預けた。
走り書きのように少し乱れた筆跡が、勝手に宴に出かけたイオネを責めているようにも見える。
(咎められる筋合いなんてないのよ)
と思いもしたが、はっきりと態度にされていない以上は文句も言えない。
少々、疲弊しているかもしれない。
(ばかみたい)
内心でそう自嘲したのは、不機嫌そうに口を出してくるアルヴィーゼが恋しくなったからだった。
――あなたが羨ましい。
あの日、ジョアンナはそう言った。イオネは、彼女が苦悩を滲ませて吐露した言葉を、一言一句覚えている。
「アリアネ先生はわたしとは違う。あなたが生まれ持ったものは才能だけじゃありません。家柄も、人脈も、間違っていることを間違っていると声を上げられる強さも、わたしにはないものです。自分の才能をいくら磨いても、憧れていた仕事を得ても、わたしはあなたのようにはなれません」
ジョアンナは主に外国の本を扱う出版社で翻訳の仕事をしていたが、一年経った頃に大口顧客の令息に見初められ、家族の強い勧めもあって結婚している。仕事を続けたいという思いは、双方の家族からの説得で諦めた。相当に悔しい思いをしたことは、想像に難くない。
才能を発揮できる場を失った彼女に密かに声をかけてきたのが、ジャシント・カスピオだった。半年ほど前のことだ。
「女性が才能を持っていても損をするだけです。社会が女性に求めるのは従順さと貞節ですから。だが有り余る才能にとっては悲劇だ。行き場のないあなたの能力はわたしのために使った方が世の中のためになります。無名の女性翻訳者よりも、高名なカスピオの名で刊行された方が多くの目につくでしょう。あなたにとっても良い取り引きだと思いませんか。どんな形であれ、あなたの仕事が世に出るのですから」
そういう、不快極まりない誘いだったらしい。イオネは背筋が凍るほどの憤怒を覚えた。
当初ジョアンナは拒否しようとしたが、カスピオに女性が成功することがどれほど絶望的かということを説かれているうちに、カスピオのために翻訳と注釈の作業をすることを決めてしまった。報酬として支払われた金額は、男性の平均的な月収の半分にも満たなかった。
「後悔しています。金額のことじゃなくて、せっかく磨いた才能を不正に利用させてしまったことが恥ずかしい。本当はあの人を告発すべきなのでしょうが、わたしが何を言っても取り合ってもらえるとは思いません。あの人が言うことは、悲しいけど正しいわ」
そう言って暗い目をしたジョアンナに、イオネは掛ける言葉を見つけることができなかった。
ジャシント・カスピオがどういう経緯があってジョアンナに目をつけたのか、ジョアンナ本人は知らなかった。が、イオネには何となくわかってしまった。
(わたしの教え子の中から自分の名声のために利用できそうな人を選んでいたんだわ)
それ以外に考えられない。
社会的に立場が弱く、自ら職を得ることが難しい女性であれば、自分の代わりに仕事をさせるのに都合が良い。それも、溢れる才能を持て余して、野心を昇華させられずに燻っている者であれば、なお良い。
そしてそれを探す狩場にするなら、選りすぐりの才女が集まるイオネの女学級が最適だろう。
(最悪だわ)
しかし、今更悔やんでも遅い。イオネは本を出版した業者に抗議文を送ったが、翻訳文が代筆されたものであれ、本人が了承してジャシント・カスピオの名で刊行されている以上は版元としても手を出せないと突き返された。
カスピオ本人に抗議をしようにも、どういうわけか既にこの国にはおらず、足取りを知るものが見つけられない。
実はアルヴィーゼがジャシント・カスピオを実家から離縁させ国外追放させているという事実は、イオネはもちろん、大学の関係者も知らないことだ。イオネが責めるべき相手を見つけられず手詰まりになったことも、当然と言えば当然だった。
これまでこれほど自分が無力だと感じたことはない。
イオネは激しい落胆の中、最悪な一日を無理矢理終えるように燭台の炎を消し、アルヴィーゼの寝台に身体を入れた。アルヴィーゼの匂いに包まれていると、不思議と心が慰められる気がした。
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