61 公爵の献身 - le dévouement -

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61 公爵の献身 - le dévouement -

 深更を過ぎて、アルヴィーゼはイオネの身体を綺麗に拭い、傷の手当てを終えた。興奮状態から急激に戻ったせいかイオネは深く眠っていて、処置のあいだ一度も目を覚ますことはなかった。  アルヴィーゼが激しい怒りで気が狂いそうになったのは、イオネの背に浮かび上がった痣を見たときだ。カスピオに膝で圧迫された痕跡だった。  普段の冷酷なアルヴィーゼならどう報いてやろうかとばかり考えそうなものだが、この時ばかりはイオネのことで頭がいっぱいだ。  痣が消えるまで後ろ姿を鏡で見せないようにソニアや他の女中たちに命じなければならない。底知れぬ恐怖を味わったイオネが触れられることに怯えるようなら、しばらく距離を取る必要がある。目覚めたあとも毒の影響が残っているなら、食事をすべて毒の排出に役立つものに変えさせなければ。―― (…目覚めるんだろうな)  アルヴィーゼには薬学に関して心得があるから、イオネが飲まされた毒は一度少量を経口摂取しただけでは生命に影響が及ぶものではないとわかっている。それでも、深く眠っているイオネの顔を見ていると、数時間前まで感じていた恐怖がじわりと胸に蘇った。  アルヴィーゼはイオネの頸部に触れ、脈が正常なリズムで打っているのを確認すると、深く息をついて寝台の隣のソファに腰掛けた。 (無茶をしたものだ)  傷が思ったよりも浅かったことが唯一の救いだった。燭台の針が短くドレスの上から刺したからまだよかった。もしもっと長いもので刺していたら、大動脈を傷付けて大量出血の末に命を落としていたかもしれない。  それでも正気を保ちイオネの矜持を守ることに役立ったのなら、この行為は肯定されるべきだ。それでも、どうにもならない悔恨が机に付いた小さな傷のように棘を残している。  アルヴィーゼはいつもの温もりを取り戻し始めたイオネの手を握り、手のひらと指先に口付けをした。 (そばにいるべきだった)  悔やんだところで、起きたことはもはや変えられない。アルヴィーゼは初めて自分を無力だと感じた。 「お前だけだ、イオネ。俺を臆病な男にするのは」  イオネの穏やかな寝顔に、言葉が溢れた。  程なくしてマレーナが寝室の扉を叩き、両手いっぱいに浴布やら着替えやらを抱えて現れた。 「旦那さま。隣の部屋に湯を用意しましたから、冷めないうちにお入りなさいませ。お疲れでしょう」 「俺はいい」 「いいえ、いけませんよ。いつもビシッと決まっておいでの旦那さまがこのようにくたびれていては、イオネさまが目を覚まされた時に心をお痛めになりますでしょ」  マレーナは穏やかな目をキラリと光らせた。 「お戻りになるまでイオネさまには代わりにわたくしが付いていますから、ご安心なさって。ソニアもドミニクもむりやり休ませましたからね。ドミニクと怖ぁいご相談をするおつもりなら明日になさいませ。お風呂もお一人で入るのですよ」 「いつも一人で入っている」  アルヴィーゼは苦虫を噛み潰したような顔で椅子から立ち上がり、イオネの額に口付けをして続き部屋の扉を開けた。 「助かる、マレーナ」  マレーナはにっこりと笑い皺を深くして、かつてルイ坊ちゃまと呼んでいた主人の背を見送った。  アルヴィーゼがイオネの寝室から去った後、簡素な室内用のドレスに身を包んだソニアがイオネの元にやってきた。 「あなたも大変だったでしょう。もうおやすみなさいな」  マレーナは子をあやすような調子で言った。事実、ソニアと同じ年頃の娘がいるマレーナにとっては、ソニアも娘と同じようなものだ。 「イオネさまが心配で寝付けなくて…。あんな――献身的な旦那さま、初めて見ました」  なんとなく「落ち込んでいる」と言うのは、ソニアには憚られた。 「そうねぇ。イオネさまはコルネールの女神さまですものね」  コルネール家が女主人というひとつの柱を病魔に奪われてから、十六年が過ぎた。イオネはアルヴィーゼだけではなく、コルネールの家臣たちが心から待ち望んでいた存在なのだ。  それだけに、イオネの身に襲いかかった悪意には、使用人たちもはらわたが煮え繰り返るような怒りを覚えている。 「旦那さまにはさっさといつもの調子を取り戻していただいて、不届者に厳しく罰をお与えいただかなければね」  マレーナは凄みのある笑顔で低く言った。  イオネは気だるい眠りの中で、アルヴィーゼの匂いを嗅いだ。凛と張り詰めた冬の空気に包まれた糸杉の森のような匂いだ。  まぶたに感じるほのかな陽光が、冷えていた身体に淡い熱をもたらした。  手に、温かいものが触れている。  イオネはまぶたを開き、スミレ色の瞳をゆっくりと上げた。アルヴィーゼが寝台の隣のソファに腰掛け、イオネの手を握りながら、注意深くこちらを覗き込んでいる。  ろくに寝ていない顔だ。 「…来て」  イオネは寝台の端にもぞもぞと移動すると、毛布を開いてアルヴィーゼを誘った。  アルヴィーゼは、眉の下を暗くして動かなかった。 「まだ怖いの。一緒に寝て」  これは半分本当、もう半分はアルヴィーゼを休ませるための方便だ。  アルヴィーゼは小さく息をつき、イオネが開いた毛布の中に身体を入れて、イオネを腕の中に包んだ。 「痛いわ」 「傷か」 「傷も痛いけど、あなたの腕」  イオネはアルヴィーゼの腕をぽんぽんと叩いた。 「そんなに強くしなくても、どこにも行かないわ」 「どうかな」  ちょっと揶揄うような声だ。  イオネは眠っているあいだずっと恋しく思っていた男の顔を見上げ、首の窪みに鼻を付けて、匂いを嗅いだ。 「初めて…死よりも最悪の結末があるって知ったわ」  アルヴィーゼはイオネの髪を分け、露わになった額に唇で触れた。 「死よりも?」 「あなたに会えなくなること」  髪を弄んでいたアルヴィーゼの指がぴたりと止まった。なんだか恥ずかしいことを口にした気がするが、もう言葉を惜しむことはやめると心に決めた。 「絶対に死ねないと思ったの。そうしたら、あなたが来てくれた」  身体を包むアルヴィーゼの腕が、また強くなった。 「考えてみれば、全然不思議なことじゃないわね。鳥黐(とりもち)より粘着質なあなたがわたしの害になるものを把握していないはずがないもの」  ふ、とアルヴィーゼの笑みが髪を撫でた。 「当然だ」  アルヴィーゼの声は暗いままだ。 「治療はあなたがしてくれたんでしょう?他の人に任せるはずないもの。才能豊かね」  短い沈黙のあと、アルヴィーゼの腹がひくひくと動き始めた。――声なく笑っている。 「なによ」 「まさか慰めているのか」 「だって落ち込んでいるんだもの」  イオネはむすっとしてアルヴィーゼの腕を叩いた。 「自分の心配だけしていろ。手当ては応急処置だ。朝一番で医師を呼ばせた」 「じゃあ、それまでこうしていて」  イオネはアルヴィーゼの腕の中で耳に触れる鼓動を感じながら目を閉じた。 「ずっと落ち着かないと思っていたのに、いつの間にかここが一番落ち着く場所になってしまったの。落ち着かないのに落ち着くって、なんだか矛盾してるわよね」 「いいから、もう寝てろ」 「ふふ。ありがとう、アルヴィーゼ」  アルヴィーゼの大きな手が髪を撫でた数秒後、静かな息遣いが寝息に変わった。イオネの意識もアルヴィーゼの寝息に呼応して、再び眠りに沈んだ。
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