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68 二つの署名 - deux signes -
アルヴィーゼがイオネを抱えたまま向かった先は、二つ隣の枡席だった。ここに、共和国元首ヴィターレ・オルセオロがその妻女と共にいる。
枡席の扉の外に控える衛兵が事務的に用向きを尋ねてきた時、抱えられたままのイオネはひどく恥ずかしそうにアルヴィーゼの肩に顔を押し付けた。
こんな状態で元首に目通りしなければならないことが耐え難いのだ。
が、アルヴィーゼは意に介さず堂々と言い放った。
「ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールだ。元首閣下に今すぐ認めていただきたい事案がある」
中で食事を楽しんでいた元首オルセオロは、アルヴィーゼの名を聞くや扉の外へ出てきて怪訝そうに二人の顔を交互に見たあと、鷹揚に微笑んで見せた。
ヴィターレ・オルセオロはアルヴィーゼが生まれる前から共和国を元首として導いてきた傑物だ。皺の多い目元には老爺の度量の深さと、相手の器量を測る鋭さが窺える。
「二人の話は聞いているよ。良い縁に巡り会えたようで、お父上も安心されるだろうね、アリアーヌ・クレテ教授」
イオネは、この時ばかりは真っ赤に染まった顔を上げて、オルセオロにひくひくと作り笑いをして見せた。
「元首閣下」
アルヴィーゼは明朗に言った。
「わたしルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールはこのイオネ・アリアーヌ・クレテを妻として貰い受ける。元首閣下の公的な署名を頂きたい。今すぐに」
「ほっ」
よほど驚いたのだろう。オルセオロは絵に描いたように目を真ん丸くし、笑い出した。
「そのような要件とは思わなんだ」
イオネは口をあんぐりと開け、まったく信じられないと言うような顔でアルヴィーゼを見上げた。
「あなた、何を考えているのよ」
突然元首の私的な時間を邪魔した挙句、役所に届け出るべきものを国家元首へ直々に申し出るなど、無礼にもほどがある。
が、アルヴィーゼにとってはたかだか「もののついで」に過ぎない。この男はこの事務処理をそれほどに軽快に考えていた。この婚姻に関する最も重要な手続きは、アルヴィーゼの中では既に完了している。――則ち、イオネの同意だ。
イオネの婚姻の承諾を得ることこそ、アルヴィーゼにとっての最大の難関であり、最も重視すべきものだった。他のことは、おまけだ。
「元首閣下に署名をいただければ今すぐに手続きは済む。効率的だ」
「あなたにとってはそうでしょうね」
イオネは呆れ顔を隠さなかった。
「君は相変わらず徹底した合理主義だな、ルドヴァン公爵。しかしこれほど情熱的な男だとは知らなんだなぁ」
オルセオロはおかしそうに言うと、近習に合図して書見台と羊皮紙とペンを持たせ、いとも簡単に二人の婚姻を認める文書を作ってしまった。
その間、イオネは頬を赤くして心底楽しそうなアルヴィーゼをじろりと睨みつけ、アルヴィーゼの腕からよろよろと降りて、神妙な面持ちを取り繕った。
当然の出来事に対する高揚とアルヴィーゼの身勝手な行動に対するちょっとした苛立ちとでひどく複雑な気分でいるのだ。アルヴィーゼの目からは、唇の端が可愛らしくヒクヒクしているのが見てわかる。
「アリアーヌ・クレテ教授。君はこの婚姻を望むかね」
イオネは顎を上げた。心は決まっている。
「ええ。望むところです、元首閣下」
「よかろう。では、二人の署名を」
近習が書見台に羊皮紙を乗せて掲げた。
書見台に向かった時、イオネは何か長い物語の始まりに直面したような、妙な気分になった。
アルヴィーゼが流麗な筆跡で「Alvise Tristan Ermete Octavien Loic Corner」とその名を正しく記すのをどこかふわふわした気持ちで眺め、いざ自分の番になると、イオネは自分の手が小さく震えていることに気付いた。
幾度となく記してきた自分の名が、アルヴィーゼの名と並ぶと、尊く特別なものに思える。
(今まであまり考えたことがなかったけど、よい名前ね)
イオネはアルヴィーゼの名の隣に並んだ「Ione Ariane Iphigenia Amphitrite Krete」の署名をちょっと誇らしげに眺めた後、アルヴィーゼの顔をチラリと見上げた。
どういうわけか、アルヴィーゼもイオネの顔をじっと見つめている。
イオネは笑い出しそうになるのを堪えて、オルセオロに向き直った。
「では、二人の婚姻を認める」
オルセオロは目尻の皺を深くして二人の若者を祝福し、婚姻証明書となった羊皮紙に共和国元首の公的な署名を記した。
これにより、ルメオ共和国におけるイオネとアルヴィーゼの婚姻は、法的に成立した。
拍子抜けするほど簡単で、余りにあっけなく手続きが済んでしまった。観劇が終わって帰路につく頃には、もしかしたらただの恋人同士に戻っているのではないかという気さえする。
しかし、アルヴィーゼはそういうイオネの気分も想定していた。夫婦となった現実感も自覚もないままでいることを、許すはずがない。
「諸卿、聞いて欲しい」
アルヴィーゼが元首の枡席から、役者にも劣らぬほどの声で言った。
イオネはぎょっとした。が、あれよあれよという間に元首夫人によってアルヴィーゼの隣に立たされ、いつの間にか元首もアルヴィーゼの隣で威厳たっぷりに国民に接する元首の顔をしていた。ふわふわとした気持ちになっているのは、多分この場でイオネだけだ。
階下の客席からは珍しい人物の声に驚いた人々の視線が集中し、周囲の枡席からは共和国議員やユルクスに滞在している同盟国の要人やその子女が身を乗り出すようにして元首の枡席を注視し始めた。
「わたしアルヴィーゼ・コルネールとイオネ・アリアーヌ・クレテ教授は、たった今夫婦となった。立ち会い人はヴィターレ・オルセオロ元首閣下と奥方レーリエ夫人である。この世で最も尊い存在を育んだこの国に最大の敬意を表する」
わっ、と客席から拍手喝采が起きた。彼らは、この突然の出来事を大いに喜んでいる。
次にオルセオロが中央に進み出てゆったりと両腕を広げ、イオネとアルヴィーゼの肩に手を置いた。
まるでこういう事態を想定していたかのような自然さだ。
「共和国元首としては共和国の宝である才物をエマンシュナ王国へ送り出さねばならぬことは誠に口惜しいことだが、愛の女神が定めたことには従わねばならない。元首としても、この二人であれば両国を更なる発展に導いてくれるだろうと確信している。みなわたしたちと共に祝って欲しい」
オルセオロと友好的に肩を組むアルヴィーゼを横目で眺めながら、イオネは思った。
この二人に共通しているものは、その優れた政治感覚だ。
民衆の前に立てば、普段イオネに見せるあの傲岸不遜な無頼漢の顔はすっかり消え失せ、思慮深く聡明な統治者としての威厳に満ちた姿になる。
(極端な二面性だわ)
と思わざるを得ない。
同時に、こうも思った。
(わたしも少し見習うべきね)
大国の公爵夫人となるからには、相応の技術を身につけねばならないだろう。
こうして統治者やその家族として民衆の前に立つのは随分と久しぶりだし、領主令嬢だった時から一度も慣れたことがない。
それでもイオネは、せめてもの意地で笑顔を作って見せた。引き攣っていたかもしれないが、努力しないよりは幾分かましだ。この居心地の悪さも、これから歩んでいく人生の一部になるのだから。
(それに…)
イオネはちらりとアルヴィーゼの顔を見上げた。
「何だ」
統治者の顔を崩さないまま、アルヴィーゼが小声で言った。
「別に。ただ、あなたの隣ならこういう場も乗り切れそうだと思ったの。あなたの方が目立つから、わたしがちょっとぐらい気を抜いても問題ないでしょう」
「それは誘い文句だな」
イオネは顔をしかめた。どういう理屈か全く分からないが、公衆の面前で熱烈な口付けをされても拒否できなかったのは、自分もこの夜に高揚しているからだ。
その後は、まるで祝祭のような騒ぎだった。
驚きの発表から間も無く始まった第二幕では、元々脚本にはなかった祝いの歌が劇中で披露され、演者が観客たちを立たせて共に踊るという演出が即興で行われ、二人の婚姻を祝福した。
それだけではない。
いつの間に手配したのか、アルヴィーゼが屋敷へ遣いを出してに大きな酒樽をいくつも用意させ、劇場にいた演者や観客だけでなく、劇場を囲む広場にいた人々にまで酒を振るまった。通りかかった人々や噂を聞きつけた人々が続々と広場に集まり、いつもと同じ夜を灯りと笑い声で彩って、特別な夜に変えた。
イオネは元来、こういうお祭り騒ぎはあまり得意ではないが、顔も知らない人々がまるで自分の家族のことのように祝ってくれることが嬉しくなって、勧められるままワインを飲み、広場で彼らと輪になって踊り、遂には酔っ払って誰彼構わず祝いの握手と抱擁を受け入れた。
この即興の祝宴が終わったのは、アルヴィーゼが酔っ払った男からの抱擁を受け入れようとしたイオネをヒョイと後ろから抱え上げた時だった。
「そろそろ失礼しよう。結婚初夜なのでな」
「ふふふ。結婚初夜」
何がおかしいのか、とろんとした顔のイオネがくすくすと笑い出した。既に出来上がっている。
「こんなところで誘惑するな。困るのはお前だぞ」
アルヴィーゼは意地悪くニヤリと笑い、イオネの口を自分の唇で覆った。
イオネはこの時も拒否しなかった。
民衆の囃し立てる声にも構わず、イオネはアルヴィーゼの首に腕を巻き付けて応じ、その目にアルヴィーゼだけを映して、幸せそうに微笑んだ。
(さて、どうやって料理してやろうか)
今夜が楽しみだ。
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