6 忌むべき新生活 - la vie nouvelle avec le Mal -

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6 忌むべき新生活 - la vie nouvelle avec le Mal -

 イオネがコルネールの屋敷へ向かうと、いつものようにドミニクが馬蹄型の階段の前で待ち受けていた。 「お忘れ物はございませんか」  鳶色の目を穏やかに細めながら、ドミニクが訊ねた。  イオネはここのところ毎日のように家移りの手伝いをしてくれていたこの若い執事に、好感を持ち始めている。  程よい距離感で常に心を尽くしてくれる様子は、あの性根の曲がった主人の執事とは思えない。が、裏を返せばこのくらいの細やかさがなければあの男に仕えることはできないということだろう。 「ないわ。ありがとう、ファビウスさん。あなたたちのお陰よ」  イオネが目元を和らげると、ドミニクは珍しいものを見たように目を見開いた後、にっこりと笑った。 「お役に立てて光栄です、アリアーヌ教授」  内装は、すでに完成していた。イオネとバシルがまとめた荷物をコルネールの使用人たちが運び込んでいたから、イオネがここに足を踏み入れたのは、交渉に来たあの日以来だ。  エントランスの様子がまた変わっていることに、イオネは驚いた。  正面の壁にはエマンシュナ王国とルメオ共和国の栄華を象徴する海と有翼の獅子がダイナミックな筆致で描かれた大きな絵画――それも、イオネの目利きが確かなら新進気鋭の人気画家によって描かれたものが飾られ、エントランスの周囲には訪問者を歓迎するように花々が飾られている。古代の様式を引き継ぎながらも当代風の落ち着いた趣を取り入れた花瓶に、旬にはやや早い桔梗やゼラニウム、リンドウ、ユリなどが生けられ、優美な香りを放っていた。  紫や青を基調に調和した花々が誰を歓迎しているのかは、明白だ。  認めるのは悔しいが、この歓迎に多少心を動かされてしまった。ルドヴァン公爵は確かに抜かりない。優れた領主でありながら遣り手の商売人でもあるという彼の評判は、真実だろう。  案内されたイオネの寝室は、公爵の執務室の上の階にある。  三階は私的な空間で、二階は主に執務を行う場所、一階の中庭より手前側は大広間や広間などが連なる来客用の空間、中庭を抜けた奥にある部分は湯殿や厨房及びその他使用人の利用する場所、といったように分かれている。ドミニクによれば、イオネの浴室は湯殿の西側に併設されるらしい。  寝室の中は広々としていて、エントランスの雰囲気と同じく華美ではない。装飾は最小限に抑えられ、壁紙も落ち着いた色調のグリーンで上品にまとめられている。  中央に置かれた天蓋付きの寝台は、つい今朝まで使っていたものの二倍はある。この広さに慣れるまで、時間がかかりそうだ。  大きな窓からは西陽が差し、ちょうど普請中の庭園が見えた。大勢の庭師が緑の低木と花々を荷車で運び込んで植え、既に庭の半分ほどが完成しているようだった。  部屋の隅には鏡台と机が置かれている。机は、貴婦人の部屋によくある書き物机(ビュロ)ではなく、装飾の少ない執務机だ。机に置かれた花模様の装飾の美しい木箱には、料紙と真鍮製のペンとインク壺が入っていた。紙は不純物が少なく、きめが細かい。恐らくはこの料紙数枚が、庶民の一日の稼ぎと同等だ。ここにも、突如として居候になることが決まった教授への気遣いが見える。  部屋を囲む壁の半分は本棚で埋まり、バシルが整理したイオネの蔵書は、既にこの屋敷の使用人たちによって種類別にきちんと収められていた。いかにも高級そうなエマンシュナ風のワードローブにも、恐らくあまり多くないイオネの衣装が既に収められているはずだ。 (わたしの持ち物を全部足しても、このワードローブの方がよほど高価でしょうね)  ぼんやり物思いに耽っていると、開け放ったままの扉の向こうからドミニクが声を掛けて来た。 「何かご不便はございませんか」 「じゅうぶん過ぎるくらいよ」  子供時代を過ごしたトーレの領主邸でさえ、こんなに広い部屋ではなかった。今まで過ごしていた屋敷と比べたら立派すぎるが、なかなか機能的で過ごしやすそうな寝室だ。  この時、ドミニクの後ろに小柄な若い女中が立っているのに気付いた。ダークブロンドの髪を編み込んですっきりとまとめ、スカートの広がりが少なく動きやすそうなセピア色のドレスを着て、やや緊張気味に直立している。 「こちらのソニア・ラブレがアリアーヌ教授の侍女をお務めします」  ドミニクが言うと、女中は恭しく頭を低くして貴婦人に対する礼をし、空色の利発そうな目をイオネに向けた。 「初めまして、アリアーヌ教授。本日よりお世話をさせて頂きます。どうぞ気安くソニアとお呼びください」  明瞭で澄んだ声だ。言葉の端にアルヴィーゼやドミニクと同じくエマンシュナ北部の訛りがあるから、共に領地から移って来たのだろう。年頃は、末妹のリディアと同じくらいに見える。素直そうで、可愛らしい子だ。  しかし、彼女に対する好感とは裏腹に、大きな戸惑いがある。  自分をイオネお嬢さまではなくアリアーヌ・クレテ教授として扱って欲しいというイオネの強い意向が、この宮殿の使用人たちに伝わっているのだろう。常に他人とある程度の距離を置きたがるイオネは、普段から人付き合いが希薄な分、こういう心づくしに弱い。どう対処して良いものか困ってしまうのだ。  しかし、イオネは侍女を望んでいない。そんな大層なものがつく身分ではないし、身の回りのことは自分一人で事足りる。  それに、アルヴィーゼ・コルネールに余計な借りを作りたくない。これが本音だ。 「せっかくだけど、侍女は必要ないわ。ここで暮らすのも新しい家を見つけるまでの間だし、誰かの手を借りなくても生活できるもの」  イオネが言うと、ソニアは表情を曇らせた。 「わたくしではお気に召しませんでしたか?」 「そんな!」  イオネは慌てた。自分の率直な物言いが、時々相手の気持ちを傷つけてしまうことは、昔から自覚している。ソニアにしてみれば、主人から命じられた仕事を始める前に相手から拒否されてしまっては、全く立つ瀬が無いのである。 「あなたのことはむしろ気に入ったの。ただ、わたしは一時的に部屋を借りるだけの立場だから、これ以上は公爵の厚意に甘えられないわ」  本音では甘えたくないと言いたいところだが、慎重に言葉を選んで弁解した。すると、ソニアはほっとしたように表情を緩めた。 「そのようなことでしたら、お気になさらないで下さい」  口を開いたのはドミニクだった。 「公爵家には、長らくご婦人がいらっしゃらないものですから、女中たちはみなアリアーヌ教授のお世話ができることを楽しみにしております」 「はい!その通りです」  ソニアが溌剌と声を上げた。 「誰がアリアーヌ教授の侍女になるかでほとんど喧嘩の争奪戦だったんですよ」  そしてソニアがその座を見事手に入れたということだ。イオネは苦々しく奥歯を噛んだ。ソニアの純粋な目を向けられると、不思議なほどに拒絶する気が失せてしまう。 「それからこれは――」  と、ドミニクの穏やかな目の奥が強く光った。 「主の強い意向でもございます」  これにはひどく反発したくなったが、ドミニクの言葉には有無を言わせない響きがある。その上、すっかり彼女が世話係を受け入れると思っているソニアは心底安心したように顔を綻ばせている。  イオネには、この善良な笑顔を曇らせてしまうような仕打ちはできない。  結局、反抗を諦めた。 「…じゃあ早速、この絵を――」  イオネは麻布に包まれた絵をソニアに渡した。 「寝室の入り口に飾ってくれるかしら。ちょっとほこりっぽいけど」  ソニアは満面の笑みで応じた。イオネがたじろぐほどの輝きだ。  ついでに、あくまで必要最低限の世話を焼いてくれるように、と言ったが、彼らがどこまでを最低限としているかは定かではない。 (契約書でも用意しておこうかしら)  仕事を手伝うとなれば一種の雇用契約を結ぶことになるのだから、当然必要だ。公私の区別をつけるためにも、明文化しておくべきだろう。  それにしても、今のところ全てアルヴィーゼ・コルネールの思う通りになってしまっているようで、イオネとしては全く面白くない。  イオネは荷物を整えたあと、執務机に用意されていた料紙とペンを取り出し、細い真鍮製のペン先へ黒いインクを吸い上げて、流麗な文字を走らせ始めた。  その後もソニアが淹れてくれた紅茶を飲みながら作業に没頭していると、あっという間に日が暮れた。夕食の時間だとソニアに知らされて、いやな考えが頭をよぎった。 「…もしかして、公爵も同席するの?」 「勿論です、教授」 「勿論なのね…」  イオネは溜め息をついた。 「お召し替えはされますか?」 「いいえ、必要ないわ」  誰かと夕食を共にするからと言って着飾る習慣は、イオネにはない。 (ぜんぜん楽しくなさそう)  と思ったが、ちょうどいい機会だ。  イオネは机の上に散らかした文書をさっさとまとめ、ソニアの案内に従って食堂へ向かった。    日常的に主人が食事を取る食堂は、三階にある。私的な空間だからか、それほど広くはない。内部は天井から下がった水晶のシャンデリアで明るく照らされ、バルコニーへと続く大きな窓からは、落ちたばかりの夕陽が迫る夜闇に赤い光を薄く放つ空が見えた。  やはりこの屋敷は快適だ。華美すぎず機能的で、様式的な美しさに溢れている。ただひとつ、主人の性格を除けば。―― 「晩餐の相手が俺では不服か」  イオネより少し遅れてやって来たアルヴィーゼが横から声を掛けて来た。その顔には、あの嘲笑とも取れる笑みを浮かべている。  こちらが嫌がる様子を面白がっているのだろう。まるで悪童だ。 「いいえ、喜んでご一緒するわ。ちょうど話したいことがあったの」  負けん気に火がついたイオネは顎を権高に上げ、数枚の文書をアルヴィーゼの眼前にずい、と差し出した。 「それからわたしのペンを返して」  アルヴィーゼはちょっとおかしそうに唇を吊り上げて文書を受け取り、一歩下がって先に席に着くようイオネに促した。 「今思い出したのか?」  イオネはフン、と髪を背へ払い、窓際の席に腰掛けた。 「この数日色々ありすぎてあなたの子供じみた悪戯なんて思い出さなかったわ。でもあれは初めて自分で稼いだお金で買ったものだから、それなりに愛着があるの」 「では後ほど届けよう」  アルヴィーゼもイオネの対面に座り、つやつやしたマホガニー色のベストを着た給仕係が食前酒を運んでくると、グラスを掲げた。 「では、我々の新生活に」  イオネは無表情で儀礼的にグラスを掲げ、口をつけた。梨を思わせるみずみずしい香りが鼻に抜ける発泡性の白ワインだ。 (美味しい…)  本当ならじっくり味わいたいところだが、生憎今はそれどころではない。 「公爵」  イオネが刺すような声色で呼ぶと、アルヴィーゼは官能的な唇をグラスから離し、ゆったりと笑みを広げた。多くの女性がこの貌に心を奪われてしまうのだろう。そしてこの男はそれを自覚している。 (腹の立つ顔)  イオネは内心で舌を出しながら、表情を変えずに続けた。 「わたしの要望は書面に記したとおりよ。目を通していただけるかしら」 「食事の時間まで仕事をする気か」  アルヴィーゼが苦々しげに言うと、イオネは首をかしげた。 「あなたとの晩餐が仕事のようなものでしょう。わたしたちに個人的な関係はないもの」 「アリアーヌ教授は白黒つけないと気が済まない性分のようだな」 「不明瞭な物事を放っておいて後から手数が増えるなんて馬鹿みたいじゃない」 「ふ」  アルヴィーゼが笑った。 「一理ある」  公爵家の料理人は、相当の手練だ。  あまり食に関して頓着しないイオネの胃袋を最初の一口で掴んでしまった。  ジャガイモのポタージュは舌の上でクリームのようにとろけ、ニンジンとマグロのマリネは程よい酸味のワインビネガーとオリーブオイルがよく絡まって食欲を誘い、牛肉のステーキは今まで食べたことがないほど柔らかく、ソースは絶妙に香ばしかった。  一瞬でも助手にしたばかりのバシルをこの家の料理人に弟子入りさせようかと魔が差したほどだ。 「この、‘契約期間終了まで’というのは?」  アルヴィーゼがナイフとフォークを置いて言った。目線は、隅に置かれた文書に注がれている。これだけの所作が優雅なのも、なんだか鼻につく。  イオネもフォークを置いて口元をナプキンで拭い、取り澄ました。 「もちろん、わたしが新しく暮らす場所を見つけてここを出ていくまでよ。もしくは、あなたに恋人や婚約者ができるまで。きっと前者の方が先でしょうけど」 「教授に恋人か婚約者ができた場合は?」  アルヴィーゼは長い指でワイングラスに触れながら、イオネを凝視している。 「想定していないわ。必要がないもの」 「…なるほど」  給仕係が空になった皿を片付け、二人に食後酒を注いで去った。
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