76 婚礼の夜 - le dernier soir des noces -

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76 婚礼の夜 - le dernier soir des noces -

 婚礼の朝、イオネは冴え冴えとした月光を思わせる白金色の絹で仕立てられたドレスを纏った。  ドレスの長い裾にはユリやスミレなどの花々が細やかに刺繍され、無数の金剛石があしらわれた髪飾りは星のような輝きを放ち、胡桃色の艶やかな髪を風に遊ばせる花嫁の姿は、まるで月の女神さながらだ。  馬前で花嫁を待っていたアルヴィーゼは、扉の奥から現れたイオネを目にすると、一瞬表情を失い、眩しいものを見るように目を細めた。 「お前の前では女神も霞む」  イオネは胸がじわじわと熱くなり、思わず破顔してアルヴィーゼの手を取った。 「あなたは比類なきもの」  冬の朝の空気のように凜としたイオネの声が、今度はアルヴィーゼを破顔させた。  アルヴィーゼは夜の海を思わせる蒼黒(そうこく)色の天鵞絨(ビロード)で誂えた上衣を纏い、背には向かい合う鷲と有翼の獅子が描かれたコルネール家の紋章を威風堂々と掲げている。腰に二本の大小の剣を差し、狩猟用のブーツを履いているのは、ルドヴァンの古くからの伝統だ。  誰が見ても惚れ惚れする男振りだった。  神殿へと向かう婚礼の行列は、馬具の装飾も然る事ながら、花嫁と花婿の優美かつ神秘的な装いが人々の心を捕らえた。  本来であれば花嫁と花婿はそれぞれの馬に乗るのが習わしだが、イオネは乗馬が得意でないために、アルヴィーゼの前にちょこんと腰掛けている。この睦まじい様子が民衆の心をますますうっとりとさせていることに、イオネは気付いていない。  この時のイオネは領地運営や世事だけでなく乗馬をこそ習うべきだったと後悔していた。  背中にアルヴィーゼの肉体と温度を感じるだけで心臓が暴れ出し、自分がどこにいるのか分からなくなってしまう。それもこれも、浴槽の中でアルヴィーゼに触れられたせいだ。  大勢の民衆が民家や商店の多く立ち並ぶ街道脇に詰め寄せてこちらに注目しているというのに、一体どんな顔をしているのかさえ分からない。  チラリと後ろを見上げると、アルヴィーゼは機嫌良さそうに目を細め、片手で手綱を握りながらもう一方の手でイオネの身体を抱き寄せて、頬に口付けをした。 「ちょっと!こんな人前で、やめてよ」 「見せてやればいい。これも領主夫婦の仕事のうちだ」  アルヴィーゼが悪びれもせずに言い放ったので、イオネは言葉を失った。頬が燃えるように熱い。 「ほら、お前の民だ。応えてやれ」  イオネは尻を鞍の上でにじにじとさせ、居住まいを正して手を振り返した。最前列で、花をくれたアガトがぴょんぴょん飛び跳ねているのが見え、思わず頬が緩んだ。  イオネが驚いたことは、アルヴィーゼが領民の名や職業を把握していることだった。  アルヴィーゼは民衆に手を振りながら、あそこの某という腕利きの家具職人が親子でルドヴァン城の食卓を作ったとか、あの家族の末っ子が領内で最も大きな鹿を獲ってきたとかいう話をイオネに聞かせた。 「ユルクスの時と逆ね」 「そうだな。あの時お前はツンケンしていた」 「だってあなた感じ悪かったもの」  イオネはくすくすと笑ってアルヴィーゼの肩に頭を預けた。  小高い丘の上にある静謐な白い石造りの丸屋根の神殿で、婚礼の儀式は行われた。儀式と言っても、太陽神と月神への祈りを捧げて礼拝をし、司祭の祝福を受けて完了する。この神殿へのパレードはどちらかと言えば、民衆への披露という役割の方が重要なのだ。  そうしてルドヴァン城へ戻った公爵夫妻には、今度は大晩餐会の主役としての役目が待っている。  三日間続いた婚礼の祝祭のうち最も格式高いこの晩餐会に、国王の名代として王太子ルキウスが現れ、祝辞を述べる。これを受けてルドヴァン公爵アルヴィーゼが通例よりもかなり短い答辞を述べ、国中から集まった貴賓たちはようやく食事にありついた。  料理は豪勢なもので、ルドヴァンの伝統的な肉料理だけでなく、新妻の出身地であるトーレの魚料理も多く饗され、その種類の豊富さに招待客は感嘆した。  城の絢爛さ、贅を尽くした料理、公爵夫妻の美麗さは、彼らが領地に帰れば瞬く間に広まるだろう。この時点で、この婚礼におけるコルネール家およびクレテ家の政治的目標は果たされた。 「お菓子を配りましょう」  というのが、二人で決めた合図だった。疲れたので切り上げたいというイオネの意思表示だ。  少々、仕掛けがある。  招待客全員に配られたのは手のひらに乗る程度の小さな焼き菓子で、月の女神が(くちばし)の長い大きな鳥と共に浮彫で描かれている。月の女神は受胎を司り、鳥はコウノトリを表している。  この暗示に、ニッサが真っ先に勘付いた。 「イオネったら!」  ニッサは涙を浮かべて姉に駆け寄り、抱き締めた。  これを皮切りに、大勢がこの予定外のささやかな催しの意味を理解し、みな立ち上がって新しい公爵夫人の懐妊を祝福した。更に王太子ルキウスが進み出て祝いの言葉を述べ、イオネの左手の甲に口付けすると、鼻を赤くしながらアルヴィーゼを抱擁した。 「ルイ、あなたは最高に素晴らしい父親になるよ。その子は幸せだ」 「名付け親になっていただけるだろうか。ルキウス王太子殿下」 「ああ、喜んで!」  ルキウスは心から喜んでいた。一方、この一連の流れにアルヴィーゼの政治的な意図があることも理解していた。ルドヴァン公爵夫妻の間に生まれる子には王室の後ろ盾があることを、この機に乗じて主たる貴族たちに知らしめたことになる。  この祝福の歓声の中で、キリルただ一人が顔を曇らせた。 「僕は――」  小さな声に、家族だけが気付いた。 「こんなの祝福できない」  三人の姉と母は本当にこの子から出た言葉なのかと信じられないような顔で凍り付き、マルクの怪力に抱き締められていたアルヴィーゼはイオネの顔が急激に萎れていくのを見た。  キリルはイオネの表情を見て自分が何を口にしたのか気付いたのだろう。サッと顔色を変えて、人々の間を縫うように大広間を出て行ってしまった。  キリルがつるバラの咲き誇る庭園のアーチを抜け、空に上がった満月を見上げた時だった。 「おい、クソガキ」  と、突然襟首を掴まれ、キリルはアーチの外へ引き戻された。  粗野な言葉でキリルを罵った男は、アルヴィーゼだった。そこに完璧な公爵の顔はなく、怒りに燃える目がキリルを見下ろしている。  これまで誰とでも良好な関係を築いてきたキリルにとっては、これほどの怒りをまっすぐ向けられたのは初めての経験だ。 「俺のことが気に食わないのは一向に構わないが、俺の妻を傷付けるやつは、弟だろうがロヴィタ領主の嫡男だろうが、容赦はしない。お前を、徹底的に破滅させてやる」  深い緑色の目が月明かりを受けて剣呑に光った。 「……ごめんなさい」  キリルの喉が震え、イオネとよく似た目がいくつも光を放って、涙がまだ子供っぽさの残る頬を濡らした。  あまりに素直な謝罪だった。もう少し反抗があると思っていたアルヴィーゼにしてみれば、拍子抜けだ。 「イオネに言え」  アルヴィーゼは吐き捨てるように言い、少年の襟から乱暴に手を離した。アルヴィーゼの後ろから、イオネが駆けてくる。 「キリル!」 「おい、走るな」  慌てて駆け寄ってきたアルヴィーゼの腕に抱き止められた時、イオネはキリルの涙に気付いた。 「あなた、わたしの可愛い弟に何をしたのよ」 「俺たちの(・・・・)弟に、必要な指導を与えただけだ」  アルヴィーゼは白々と言い放った。 「多感な年頃なのよ。あんまり――」 「いいんだ、イオ姉さん」  キリルがイオネの袖をそっと取り、手のひらで涙を拭った。 「ごめん。本当に…僕、最低なことを言っちゃった。傷付けたかったわけじゃないんだ」  イオネは首をふるふると振って弟を抱き締めた。 「いいのよ。理由があるのは分かっているわ」 「僕は…多分、勝手にイオ姉さんに自分の夢を託してたんだ」 「どういうこと?」 「僕は、大学で軍学を学びたくても、アルバロ家を継ぐことが決まってる。僕は自由に仕事を選べない。不満なわけじゃないんだ。ロヴィタの土地も人も好きだし、領地の仕事だって面白い。ただ、イオ姉さんは仕事に誇りを持っていて、すごく充実してた。だから、公爵夫人になって仕事を諦めなくちゃいけないのが、悔しかったんだ。だって、イオ姉さんほどの人がお城で使用人に囲まれて子供を育てて暮らすだけなんて、宝の持ち腐れだ」  これを聞いて、アルヴィーゼは人知れず笑いを噛み殺した。この姉弟は顔だけでなく、精神までもそっくり同じものを持って生まれてきたのではないか。 「キリル…」  イオネは鼻の奥がツンと痛くなったのを無視して、自分よりも真っ赤になった弟の鼻をキュッとつまみ、権高な調子で顎を上げた。 「あなた、わたしを誰だと思っているの?」  キリルは目を丸くして眉尻を上げた姉の顔を見た。 「わたしが辞めたのはユルクス大学の教授職であって、教育者を辞めたわけでも研究者を辞めたわけでもないわ。わたしにとっては、ルドヴァン公爵夫人という役割が増えただけよ。それに、誰かの妻や、もうすぐ母という役割もね」  イオネは晴れ晴れと微笑んでキリルの頬を両手に挟み、額をくっつけた。 「大変だよ。心配だ」 「それはそうよ。でも、多才なわたしにはそれくらいがちょうどいいと思わない?わたしは自分の選んだものに誇りを持っているし、愛しているの。それに、一緒に歩む人がいるから、絶対に大丈夫」  イオネはアルヴィーゼに笑いかけた。そう確信させる力を、この男は間違いなく持っている。 「あなたの気持ちが嬉しいわ、キリル。もう一人甥っ子か姪っ子が増えることについては、どう思う?」 「すごく嬉しいよ。イオ姉さんが母親になるなんて、最高だ。おめでとう、姉さん」  キリルがイオネをぎゅうっと抱き締めた。この言葉こそ、最初に伝えたかったのだ。 「それから、結婚も。ちょっと、正直あの人はどうかなって思ってたんだけど…」  と、キリルがアルヴィーゼを見た。アルヴィーゼは目を細めたが、口元に薄く笑みを浮かべている。 「間違っていないわよ。初めは最悪だったもの」 「でも、今は好きなんだよね?」 「ええ。まあ、腹が立つこともあるけど、この人の複雑そうに見えて実は明快な人間性とか、研究熱心なところとか、気に入っているの…」  アルヴィーゼは片眉を上げてイオネの顔を見た。イオネはかっかと頬を赤くしながら、「だから何?」とでも言いたそうにアルヴィーゼに向けて目をぎょろりとさせた。 「僕、この庭を見て気付いたんだ。香りが強くない花ばっかり植えてある。イオ姉さんが匂いの強い花が好きじゃないからだ。侍女だって、公爵夫人なのに一人だけだ。それも一人が好きなイオ姉さんのためだろ。ここのみんながイオ姉さんのために動いてるのは、公爵がイオ姉さんのことを一番に考えてるからだって、今わかったんだ。それに、さっきも――」  と、キリルはキラキラと瞳を輝かせた。 「兄さん(・・・)は、すごくかっこよかったんだ」 「……一体この子に何をしたの?」  イオネが胡乱げに尋ねたが、アルヴィーゼは左側の唇を吊り上げただけだった。 「そろそろ戻るぞ。挨拶を終えてさっさと引き揚げよう」  アルヴィーゼが腕を曲げて言った。イオネはその腕に片手を添え、もう片方の手をキリルの腕に添えた。  何にせよ、夫と弟の仲が深まったことは、イオネにとっては三日間の婚礼で一番の収穫だ。
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