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序 花と海 - une Fleur et l’Océan -
まるで海が空から降ってきたみたいだわ。
イオネは混乱する意識の中、どこか呑気な自分の声を聞いた。
彼女の明晰な頭脳をもってしても、いったいどんな運命の悪戯でこんなことが起きているのか、とんと見当も付かない。
スミレ色の目を大きく開いて瞬いたのち理解したことは、どうやら目の前の男の不愉快極まりない提案を呑むしかないということだ。少なくとも、今のところは。
なぜならば、今まで住んでいた屋敷の門は壊され、土地は丸ごとこの男のものになってしまった。
「どうする?イオネ・クレテ嬢」
真新しい執務机に肘をついて、両手の長い指を組み、ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールがその恐ろしく秀麗な貌に憎たらしい笑みを描いた。
一分の隙もなく整えられた艶やかな黒髪が、エメラルドグリーンの目をいっそう怜悧に引き立てている。まるで古い絵画から飛び出した美しき海の王のようだ。
「アリアーヌ・クレテ教授よ。イオネは親しい人しか使わない名なの」
イオネは波打つ胡桃色の長い髪を権高に背へ払い、腕を組んで、刺すように言った。言い直せということだ。
相手が最上級の絹で仕立てた上衣を纏っていようが、隣国の麗しき公爵閣下だろうが、関係ない。目には目を、不遜な態度には不遜な態度を返すまでだ。
目の前の男は、黒い睫毛に縁取られた冷たい目を愉快そうに細め、形の良い唇を開いた。
「アリアーヌ・クレテ教授」
ゆっくりと絹の上を滑るような声が、イオネの耳から喉へ這うように響く。
「このまま宿無しになるか、意地を捨てて俺の世話になるか、今選べ」
悪魔と取り引きをしている気分だ。
イオネは唇を噛んだ。どうしたってこんな男に自分の命運を預けたくはない。
しかし、アルヴィーゼ・コルネールは追い打ちを掛けるように言った。
「仕事に必要なら、書庫を使っても構わない。別棟にユルクス図書館がひとつ収まるぐらいの蔵書は揃えてある」
「…コルネール家の蔵書?」
声色に好奇心を隠しきれなかったのは、まったくの不覚だった。が、イオネは知的魅力に満ちた誘惑に勝てない。そういう性分なのだ。
外国の本や希少本が多く揃うユルクス図書館を越えるなら、蔵書の質に相当な期待ができる。それに、隣国の王家の血族でもあるコルネール家が所有する書物など、この機を逃せば一生お目にかかることはできないだろう。
「研究には最適な環境だ。部外者の出入りもない。古今東西の書物が独り占めできる」
スミレ色の瞳が今まさに好奇心でキラキラ輝いていることに、イオネは気づいていない。
(あまりに安直だわ)
そういう意識はある。だが、心はこれで決まったと言える。
「いいわ。提案に乗ります」
イオネは細い顎を上げ、権高な調子で言った。
が、丸め込まれたままでは気持ちが収まらない。子供っぽいが、どうせなら無理難題を言いつけてやろうと悪戯心が起きた。
「ただし、条件があるの」
「言ってみろ」
アルヴィーゼは面白そうに唇の左端を吊り上げ、イオネの気の強い顔を覗き込んだ。
「わたしの浴室を移築してちょうだい。確かに屋敷と土地はクレテ家のものだったけど、浴室だけはわたしのものよ。構造の設計から素材の選別までわたしがしたの。これだけは譲れないわ」
言ってやった、と思った。
イオネの浴室は、富裕層が持つ一般的な浴室とはまるで違う、特別なものだ。そうでなかったとしても、浴室をまるごと移築することは困難だし、もし可能だとしても、莫大な費用と労力が必要になる。
そんな条件は呑めないと言われれば、その程度かと態度に出して寛容に諦めて差し上げようと思っていた。ただ不愉快な思いをさせることで一矢報いたかっただけだ。
ところが、アルヴィーゼの返答は軽やかなものだった。
「いいだろう。明日技師を手配する」
拍子抜けだ。
相手を困らせてやろうという悪戯に失敗したイオネは、頬を膨らませる代わりに、左手の小指に嵌められたアメシストの指輪を右手の指でくるくると弄んだ。
「では、これで決まりだな」
ふん、とイオネは内心で悪態をついた。やれるものならやってみたらいい。後になってやはり不可能だったと言われれば、その時こそ、このささやかな報復の好機だ。
「アリアーヌ・クレテ教授は俺の仕事の手伝いを、俺は教授に屋敷と書庫を提供する」
「同意するわ。ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネール閣下」
イオネはにこりともせずに差し出された手を取った。形式的な握手だ。
ところが、イオネの意図に反してアルヴィーゼ・コルネールは軽く握った手を引き、自分の口元へ運んだ。
イオネは驚きのあまり身動きを忘れ、不遜な公爵がこちらの顔を愉快そうに覗き込みながら白い手の甲に口づけするのを許してしまった。
「これからよろしく。イオネ・クレテ嬢」
「アリアーヌ・クレテ教授よ。ムシュ・アルヴィーゼ・コルネール」
イオネは冷たく言って手を引いた。手の甲に柔らかい熱の感触が残り、なぜか自分のものではなくなったように錯覚した。
これこそ、高嶺に咲く野花のようなイオネの人生が、波濤荒ぶる溟海に落ちる瞬間だ。
しかし、孤高のイオネ・アリアーヌ・クレテ教授は、それをまだ知らない。
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