四十一 この世の総て - la Femme du Monde entier -

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四十一 この世の総て - la Femme du Monde entier -

 イオネの足が向いた先は、三階のバルコニーだ。風に靡くカーテンの向こうに先客がいる。 「あなた、わたしが行く場所をいつも把握してるの?」  イオネはバルコニーのティーテーブルに燭台を置いて腰掛け、向かいに座るアルヴィーゼに向かってしかめっつらを見せた。  本当はここで待ち構えているのではないかと思っていたのだ。 「お前の行動は概ね俺の予測通りなんだよ。最初にここへ来ると思っていた」  どきりと心臓が動いてしまった自分が少々悔しい。が、悪い感情ではない。イオネは無表情を取り繕って背を伸ばした。 「来なかったらどうするつもりだったの?」 「昨夜と同じことを」 「なっ…」  カッと身体が熱くなった。 (妹たちがいるところで…)  こんなことを涼しい顔で言い放つ精神構造が理解できない。アルヴィーゼの唇が艶めかしく動く様を直視できず、イオネは夜風に靡く燭台の火の先を凝視した。 「も、もう充分でしょう。あんな、とんでもないこと…」 「足りない」  小さな炎の向こうから、エメラルドグリーンの燃えるような目が射るような鋭さで正視してくる。肌がひりつくほどの強さだ。それに共鳴するように昨晩無理矢理開かれた身体の奥がじくりと熱を持って、イオネの胸を苦しくさせた。次第に呼吸が浅くなっていくのが分かる。  アルヴィーゼが立ち上がろうとしたのを見て、イオネは素早く席を立った。ほとんど反射のうちに、足が逃げようとしたのだ。しかし、アルヴィーゼは許さなかった。  足を扉へ向けるよりも先に腕を引かれ、あっという間にバルコニーの冷たい手摺りとアルヴィーゼの両腕に囲い込まれていた。  糸杉に似た肌の匂いが心拍を上げ、絹の寝衣の下で肌を湿らせた。鼓動が聞こえてしまいそうだ。 「邪魔が入ったせいで、話がまだ途中だった」 「わたしの妹たちを邪魔だなんて言わないで」 「ふん」  アルヴィーゼが鼻で笑った。不愉快な顔を装いながら、どこか楽しそうだ。 「まあ、そうだな。逆だ。妹たちのおかげでお前はフラヴァリの屋敷へ戻れなくなった」 「そうよ。でもノンノとシルヴァンには手紙を届けてもらったから、二人のことは心配ないわ」 「奴らのことなど知るか」  アルヴィーゼの鼻が頬に触れ、海の上を這う夜霧のような声が耳朶を震わせた。この男の声は、心臓に悪い。耳からあらゆる器官に入り込んで背徳的な快感をもたらし、思考を意識の奥に仕舞い込んでしまう。 「お前がここにいるなら、他のことはどうでもいい」  雲から顔を出した月がアルヴィーゼの目を照らしたとき、イオネは不思議な引力に導かれるように、ゆっくりと下りてきた唇を、自分の唇に触れ合わせた。  ささやかな触れ合いだ。それなのに、触れ合う肌から甘やかな体温が広がって、胸が熱で満ちる。  この熱こそ、この瞬間、この世界において、最も確かなものだ。 「…これが優先事項ね」  どういうわけか、まったく不可解かつ不本意極まりないことに、この世界一傲岸不遜なアルヴィーゼ・コルネールに惹かれてしまったのだ。 「何?」  アルヴィーゼが顔を上げてイオネの目を見た。黒いまつ毛が目元に影を描き、目の輝きがいっそう強く見えた。 「教えてあげない」  惹かれているからと言って、この男の求めているものを素直に差し出したくはない。こちらばかりが乱されるのは不公平だ。 「強情」  アルヴィーゼの目が優しく弧を描いたように見えた。表情の意味を考える暇もなく、唇が触れ合い、今度はもっと深くへ舌が入り込んでくる。 (これは、昨晩の贖罪のつもりかしら)  そう思うほど優しい口づけだった。心の深い部分をそっと撫でるような丁寧さで舌が触れ、頬を挟む手の熱が、甘やかに身体を伝った。 「…そういう顔をするとこのまま寝室へ連れて行くぞ」 「どういう顔よ」 「それ」  アルヴィーゼの親指がイオネの頬を撫でた。目の奥から耳まで燃えるように熱くなる。 「男を誘う顔だ。他のやつに見せていないだろうな」 「し、知らないわよ、そんなの。だいたいあなた、わたしにそんなことを言える立場じゃないでしょう」 「ではそういう立場にしてくれ、イオネ・アリアーヌ。お前を独占するには何が必要だ」  ぎゅう、と心臓が痛くなった。アルヴィーゼの視線が、灼けた鉄のように熱い。 「条件を言え」  頭の中で本能と理性が拮抗し、取るべき行動を議論している。が、もはや手遅れだ。  イオネは初めて自分の魂の声を聞いた気がした。 「…ひとこと――」  声が震える。それでももう止められない。 「ひとこと、遊びじゃないって言って」  愚にもつかない。こんなことを言ってどうなるというのだろう。言葉は不確かなものであるはずだ。それなのに、今、アルヴィーゼの言葉から真実を見出そうとしている。 「遊びじゃない」  イオネはアルヴィーゼの鮮やかな目を見た。 (ああ、この人…)  目の奥に踊る火は、燭台のものではない。確信がある。自分の目にも、同じものが映っているはずだ。 (本気なんだわ)  イオネは逃れる理由を探すことを諦めた。もうこれ以上は無理だ。  大洋(オケアノス)の果てしない波に呑まれていくように、イオネはアルヴィーゼの腕の中に身体を預けた。  身体の芯まで蕩けるような口付けも、頬を挟むアルヴィーゼの両手も、次第に激しくなる息遣いも、全てが柔らかな熱情に満ちて、意識を遠くへ連れて行く。  イオネはアルヴィーゼの広い背に腕を回し、寝衣の布を握った。しがみつかないと、足の力が抜けてしまいそうだ。 「俺の寝室へ連れて行く。いいな」  アルヴィーゼの掠れた声が官能的な響きを持って耳に触れた。 「いいわ」  小さく応えた瞬間、突然足が浮いて、驚く間もなくアルヴィーゼに抱き上げられていた。  そしてイオネは、アルヴィーゼがとびきり優しい笑顔でこちらを見下ろした時、胸が痛いほどに軋むのを無視して、反抗を試みることにした。海の底に沈む前の、最後の反抗だ。 「でも、わたしが欲しいなら我慢を覚えて」 「何?」 「昨晩乱暴にされたからまだ痛むの。今夜はしたくない」  これは半分は本当、半分は意趣返しだ。イオネの狙いが当たって、アルヴィーゼは苦虫を噛み潰したような顔で承諾した。 「…いいだろう」  イオネの小さな勝利だ。イオネは勝ち誇ったように微笑み、アルヴィーゼの唇に羽根が触れるようなキスをした。  面食らったアルヴィーゼの顔も、なかなか見応えがある。こうして見ると、この悪辣な男にも存外可愛いところがあるかもしれない。  アルヴィーゼはふかふかの毛布の中でイオネの身体を腕に包み、この柔らかい肉体の下に隠された金剛石のような意志を思った。 (利かん気の強い女だ)  自ら掌中に落ちてきてなお、アルヴィーゼの忍耐を試すことで自尊心を保とうとしているらしい。 「小悪魔め」 「あなたは悪魔」  イオネが眠たそうに言って、もぞもぞと背を向けた。アルヴィーゼはイオネの背中に身体をぴったりとくっつけてイオネの腹に腕を回すと、ゆっくりとガウンの下に手のひらを這わせた。  アルヴィーゼの手は、イオネの素肌に辿り着く前にピシャリと払い除けられた。そのくせに、イオネはアルヴィーゼの腕にしどけなく頭を擦り寄せてくる。 「そろそろ日付が変わった頃だ」  アルヴィーゼはイオネの首のくぼみにキスをして、唸り声をあげるイオネの顎を後ろへ引き寄せ、唇を啄んだ。  甘いスミレ色の目が、窓から差す月明かりに鈍く輝いている。 「お前の誕生はこの世が得た僥倖だ」  唇が離れると、イオネがふいと前を向いた。ひくひくと腹が波打っている。声を押し殺して笑っているのだ。 「何がおかしい」 「誕生日のお祝いをそんなふうに言われたのは初めて」 「そうか」  アルヴィーゼもおかしくなった。こんな大それたことを本心で思っているのだから、間違いなく重症だ。  今この瞬間にイオネが自分の腕の中で安心しきって身体を預けていることにも、一種の感動がある。人生で初めて覚えた類のものだ。アルヴィーゼ・コルネールにこんな感情を抱かせるのは、どこの世界を探してもこの女しかいない。 「…ひとつ、わかったわ」  イオネが鳩尾に触れるアルヴィーゼの手に自分の手を重ねて言った。疲れているのだろう。とろとろと間も無く眠りに落ちる声だ。 「なんだ」  イオネの手がアルヴィーゼの指をなぞり、節をぐりぐりと弄んでいる。 「わたし、あなたの腕の中にいるのが好き…」  それきり、イオネは言葉を発しなかった。イオネの甘い空気が静かな寝息に転じると、アルヴィーゼはふと我に返って奥歯を噛んだ。  してやられた。この女には、自分でも知らなかった感情をいくつも思い知らされる。 「…覚えていろよ」  臍を噛む思いで唸るように呟くと、アルヴィーゼはイオネの身体をきつく抱いてまぶたを閉じた。  多少の屈辱に堪えることは、(やぶさ)かではない。  なぜなら今腕の中に永遠に捕らえようとしているものは、ただの女ではなく、アルヴィーゼ・コルネールの生きる世界の総てなのだ。
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