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47 友情と分別 - Jupiter ou Venus -
中庭は広く、よく整理されていて、魔方陣を思わせる幾何学的な形で植栽が配置され、観賞用の植物の他、薬効のあるハーブが多く植えられている。医術を大いに発展させたルドヴァンの領主らしい庭園だ。
イオネはランプに照らされた白い薔薇の花びらをつるつると撫でながら、夜空を見上げた。
(今夜だけでひと月分は会話をした気分だわ)
空はひらけていて、満月が落とした涙のような星が一際明るく輝いているのがよく見える。
「あれって金星?」
不意に声を掛けてきたのは、ニッサだった。夜宴に飽きて出てきたのだろう。
「木星よ。金星はとっくに沈んでしまったわ」
「そうだった。明るいのは木星ね。ねえ、ドミニクを借りても良い?」
ニッサの要求に、イオネは迷わず顎を引いた。慌てたのはドミニクだ。主人からの厳命がある。
「しかし、教授のおそばに…」
「大丈夫よ、ドミニク。姉さんにはすぐソニアが付くわ。イオネが信頼しているあなたじゃないとお願いできないことがあるの」
ニッサは優美に目を細めた。笑顔の裏に、なんとも言えない圧力がある。この屋敷に押しかけてきた妹たちのうち、最もドミニクを手こずらせたのはこの二番目の妹だった。柔和な顔立ちに似合わず、頭の回転が速く弁が立ち、要求を拒もうものならその後に起きるであろう不吉な出来事を予感させる。押しの強さで言えば、イオネよりも秀でている。
「行って、ドミニク。わたしにお守りは必要ないわ」
「…承知しました」
こうなってはドミニクに拒否権はない。幸い今の時間は中庭に人はいないし、すぐにソニアが来るというなら問題はないはずだ。
(念のため人払いをしておいてよかった)
ドミニクは内心で安堵した。ニッサを伴って大広間へ戻った時には、イオネにシルヴァン・フラヴァリが近付いているということには露ほども気付いていない。
「今夜は月と木星の並び方がいい感じだね」
イオネは声のした方を振り返って、くすくすと笑った。淡い色の夜会服にすっきりと身を包んだシルヴァンが空を見上げている。
「みんな星が好きなのね。さっきニッサも木星のことを言っていたわ」
「聞いてたからね。ニッサに頼んで執事を連れ出してもらったんだ。君の警備が厳重でさ」
シルヴァンはヤレヤレと首を振った。
「わたしの警備ですって?」
「気付かなかったの?公爵が君にべったり貼り付いてたから声を掛ける隙もなかったよ」
そう言えばそんな気がする。いつも以上に距離が近くて心臓がうるさかったから気付く余裕もなかったが、あれは他の男たちへの牽制だったのかもしれない。
「気にしなくても、友達なんだから声を掛けてくれていいのよ」
「そういうわけにもいかないさ。確かに君と僕は友達だけど、実は先走ってラヴィニアさんに話進めていいよって言っちゃったまま断りを入れてないから、僕ら形式上は婚約者同士なんだって、君知ってる?」
「えっ…!」
「困ったな。こりゃ不貞だ」
イオネは一瞬青ざめたものの、シルヴァンの顔が明らかに悪戯っぽくニヤニヤしているのを見て揶揄われたことを知った。
「ちょっと!からかったわね」
「ハハハ嘘に決まってるだろ。大事な友達がやっと自分の足で辿り着いた安息地に石を投げるようなことはしないさ。他ならぬ君が公爵を信じるって言うんだから、僕もそうするよ。正直、目から血が噴き出しそうなほど悔しいけど。でも君は初恋の人って以前に親友だし、まあ、どんなに悔しくても目から血なんて出ないんだしさ」
「何それ」
イオネはおかしくなって思わず笑い出した。が、すぐにぴたりと笑うのをやめた。
「…ねえ、わたしそんなに緩んでる?」
「緩んでるよ」
真顔で指摘されるとなんだか恥ずかしい。イオネは唇の両端をぐりぐりと指で押してシルヴァンをじろりと睨め付けた。正直、好きだと言われて婚約者になり得るか考慮までしていた手前、シルヴァンに対して多少の罪悪感はある。試すような真似をしてしまったのだから、尚更だ。が、それを言葉にするほどイオネは無粋ではない。
「わざわざ二人になりたかったのは、君に謝りたくてさ」
シルヴァンが突然神妙に切り出したので、イオネは目を丸くした。
「どうして?」
「屋敷のこと、嘘ついたんだ。君に公爵の屋敷から離れて欲しくて。管理を任せてた人がいなくなったのは本当だけど、実はあのとき後任が決まってたんだよ。だから屋敷の管理のことに君が責任を感じる必要はないんだ。手紙で君すごく気にしてただろ。ノンノにも遠回しに叱られたよ」
「シルヴァンったら、策士なのね。まんまと騙されたわ」
人畜無害そうなシルヴァンにそんな一面があったとは、なんだか意外だ。
「でも姉さんにソニアが付くってニッサが言ったのは嘘じゃないよ」
「わかってるわ。ニッサは‘姉さんに’と言ったのだもの。ソニアはクロリスに付いているんでしょう」
シルヴァンが屈託ない笑い声をあげた。
「そういうこと。さすがみんなの姉さんだな」
「今回のこと、いろいろと自省するきっかけになったわ。あなたの気持ちも、驚いたけど、嬉しかった」
「君の気持ちも嬉しかったよ。僕のこと好きって言ってくれたから」
「親友としてね」
「水を差すなよな。口付けした仲だろ」
「今後はないわよ」
イオネはにべなく言って、首を振った。シルヴァンは相変わらず陽気な笑顔を浮かべている。
「どうかな。人生何が起きるか分からない」
「でもあなたと友人以外の関係になることはありえない。ずっと親友でいて欲しいって言ったでしょう。今まであまり人間関係を大切にしてこなかったから、わたしにとっては貴重なの。あなたが思っている以上に大切に思っているわ。我が儘かしら」
「そうだな。僕の気持ちを知っておきながらそんなことを言うなんて、我が儘だ」
シルヴァンは珍しく表情を暗くしたが、言葉の端々にイオネへの思いやりが隠れている。
「でも親友の頼みじゃ、仕方ないな」
イオネは微笑して、シルヴァンが差し出した手を握った。最後の別れ方が一方的だったことが気がかりだったが、今は心が軽い。
「お互いに好意を示して、親友成立ね」
握手した手を離した瞬間、突然ブワッと身体が浮いて後方に引き寄せられた。
「そこまでだ。抱擁は許さない」
突然背後に現れた声の主は、顔を見るまでもない。アルヴィーゼだ。足をジタバタさせて抵抗するイオネをものともせずにその身体を抱え、不機嫌に眉を寄せている。
「ものみたいに掴まないでったら」
「目を離す度にフラフラ浮気されては堪らない」
「そんなことしてないわ!」
アルヴィーゼは抵抗するイオネを強く抱き寄せ、肩に吸い付いた。シルヴァンは朗らかに笑っている。以前のような敵意は、その目にはない。
「束縛が激しいと嫌われますよ、公爵」
「君がまさか祖父まで使って時間を稼ごうとするとは思わなかった」
「違いますよ。ノンノは本当にあなたと話してみたかったんです。僕はその時間を利用して、イオネとの関係を正しただけだ。あなたと個人的に敵対しても利益はないしね」
ふん、とアルヴィーゼは尊大に笑った。
「まあ、いい。対価は得た」
「対価?」
イオネが訝しんでアルヴィーゼの顔を見上げた瞬間、アルヴィーゼはイオネの身体を抱えたまま、さっさと大広間とは反対の方向へ足を向けた。
「公爵、ちょっと待ってください」
アルヴィーゼが不機嫌そうに足を止めると、シルヴァンは上衣のポケットから取り出した手のひらほどの大きさの書物をイオネに差し出した。
「この間の忘れ物」
イオネは表紙のタイトルを見て、ようやく思い出した。植物園の前に立ち寄った書店で上の空のまま買った古典文学の新訳本だ。確か、アストラマリスの起源についての記述が含まれているとヴィクトル老公から聞いた気がする。
「ありがとう、シルヴァン」
「用は済んだな」
「ええ。次は是非事業についてお話ししましょう。僕、けっこういい取引相手になると思いますよ」
「フン」
アルヴィーゼは鼻で笑うのみで返事をしなかったが、イオネにはこれが肯定している顔に見えた。この予想は、正しいはずだ。
「夜宴はまだ終わっていないのに、主催者が抜け出していいの?」
イオネは抵抗を諦めて大人しくアルヴィーゼに運ばれることにした。自分の足で人がうじゃうじゃいる宴に戻るよりも、抱えられたまま静かな場所へ抜け出す方がましだ。ノンノ・ヴェッキオとは話す暇もなかったが、また明日にでも訪ねればいい。
「もう宴でやることはやった。あとはドミニクが捌く」
「大変な役目を押し付けたのね」
「あいつは失態を犯したからな。これぐらいは当然だ」
アルヴィーゼは中庭の奥の扉を開いて、ランプの灯りがぼんやりと光る廊下を進んだ。イオネが設計した浴室が、この先にある。
「ドミニクは失態なんて犯していないわ」
「お前にシルヴァン・フラヴァリを近付けた」
「ねえ、それって――」
言い終わる前に、アルヴィーゼが長い脚で浴室の扉を押し開いた。湯気が立ち上り、中からは入浴に使うハーブの香りが漂ってくる。
アルヴィーゼは脱衣所のサイドテーブルにイオネを下ろすと、両腕を檻のように広げてイオネを囲い込んだ。
「…入浴ならお一人でどうぞ、ルドヴァン公爵」
「それでは意味がない。俺がお前を洗うために来たんだ」
アルヴィーゼがイオネから本を取り上げて脱衣所の隅に放り投げ、細い腰に触れた。指が、肌を暴くための留め具を探している。腹の奥がじわじわと熱くなった。
「本を乱暴に扱わないで」
「本より自分の心配をした方がいい」
「そ、それって、嫉妬なの?」
「そうだ。俺が分別のない男ならお前を不埒な目で見るやつらの目を残らず潰している」
本気の目だ。イオネはその鋭さに背筋が冷たくなったが、同時にひどく胸がくすぐったくなった。あのアルヴィーゼ・コルネールが嫉妬するなんて、想像もできなかったことだ。
「今もじゅうぶん分別がないと思うわ。主催者なのに客人を見送りもせずこんなところにわたしを連れ込むなんて」
「お前はどうだ。あいつを好きだと言って、口付けしたそうじゃないか」
浴室を仄かに照らす燭台が揺れ、アルヴィーゼの目が鈍く光った。
(聞かれていたなんて)
後ろめたいことなど何もないが、少々気まずくはある。
「それは、友人として好感を持っているという意味よ」
「ただの友人と口付けを交わすのが分別ある人間の行動か」
「あの時は婚約者になるかもしれなかったんだもの」
浴室の蒸気がアルヴィーゼの首筋を湿らせ、糸杉のようなこの男の匂いと官能的な香水の香りが濃くなった。ドレスの留め具をひとつひとつ外していく指が、露わになった背に触れる。
「ん…離して」
アルヴィーゼには、イオネの要求に応える気はない。
「あの男はどうやってお前に口付けした」
「礼儀正しかったわ。許可を求めてきたもの」
「許可したということだな。俺と寝ておきながら」
声色に不機嫌さが滲み出ている。
だんだん腹が立ってきた。確かに当時他の女性を招き入れたと思っていたのは誤解だったし、アルヴィーゼは最初からイオネに対する気持ちを隠していたわけでもないが、そもそも信用に足る行動を取ってこなかったアルヴィーゼにも責任はあるではないか。
「拒む理由が見つからなかったの!今はもうそんなことはないわ。もうわかったもの。あなたが――」
イオネは口を噤んで唇を噛んだ。この先を言ったら負けのような気がする。
「俺が?」
アルヴィーゼの声色が、悪巧みを楽しむように弾んだ。
「言え、イオネ。俺が何だ」
アルヴィーゼの手のひらが開かれた背中からドレスの下を這い、腰に触れる。肌に伝うその体温が刺激となって、イオネの呼吸に微かな変化をもたらし、浴室の蒸気が次第に頭の中に入り込んでくるように錯覚した。
「あ、あなたが好きって…」
アルヴィーゼが不遜な笑みを顔中に広げたとき、イオネはこの男の企みを知った。しつこく追及してきたのは、この一言を言わせたかったからに違いない。
文句を言ってやろうと尖らせた唇は、既にアルヴィーゼの唇の下にある。
激しく蹂躙されるような口付けに翻弄された後、イオネはアルヴィーゼの官能的な声が耳を這うのを感じた。
「証明しろ」
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