五十 冬支度 - l’hiver vient -

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五十 冬支度 - l’hiver vient -

 アルヴィーゼは毛織物の上衣の上に綿の入ったベストを着込み、更に毛皮のついた外套を纏って、ひと月ぶりにルドヴァンの土を踏んだ。共連れは、使用人の男二人のみだ。最も信頼を置いているドミニクはイオネのそばに残してきた。 「兄さん、待ちかねたよ」  数百年前までは要塞として西部を守ってきたコルネール城の壮麗な門前で、ユーグ・コルネールが兄とそっくりな目を柔和に細めた。  爽やかな声色の裏に、ちょっと責めるような含みがある。  ユーグは、女性に対しては少々軽薄すぎるほどの振る舞いを見せるが、こと職責に対しては几帳面すぎるほどの実直な男だ。本来であればもっと早い段階で領地へ戻るよう催促していたにもかかわらず、あろうことか十二月を目前に控えた時分にのんびりと領地に戻ってきた兄をちくりと咎めているのだ。  が、アルヴィーゼは歯牙にも掛けず、 「本来なら名代であるお前が裁量すべきことだ」  と、白々と言い放った。  アルヴィーゼの言うことも尤もだが、ユーグにはユーグなりの言い分がある。  ルドヴァンの沿岸部では毎年雪害が出る。そのために、本格的な冬を迎える前に公爵家から選抜した地域ごとの代表者たちがそれぞれの地域の見回り、道や人家の補修、物流が停止した場合に必要な備蓄確保などの指揮に当たらねばならず、領主は彼らの報告を受け、都度必要な措置を取らねばならない。  その他、流行病への対策や薬の原料となる品目の流通の調整を行ったり、物流が滞っても経済活動が止まることがないよう、領内の産業を活性化させるための対策を取ったりと、領民の豊かな生活を守るためには多くの専門知識が必要だ。  コルネール公爵家の有能な家臣たちが大方のことを捌くにしろ、意見を求められたり判断を仰がれたりすると、ユーグには明瞭な答えが出せない。  ユーグは、決して愚鈍ではない。アルヴィーゼが有能すぎるのである。常日頃からそれを頼りにしている家臣たちは、ユーグにも同様に意見を求めてくる。 「それじゃ困る」  と、ユーグはエントランスで旅装を解いた兄に不満を漏らした。 「ユルクスでの仕事は三か月程度で軌道に乗せて戻ってくるという話だっただろ。既に想定以上の利益が出てる。そろそろ本拠をこっちに戻したらどう?元々、月ごとに行ったり来たりの予定だったじゃないか。馬で二日とかからない距離なんだし」 「まだやることがある」  アルヴィーゼはエントランスのソファに腰掛け、泥のついたブーツを脱いで従僕に預けた。室内用の革靴は、真新しいものが用意されている。  生まれ育ったコルネール城は美しく壮麗で、自分にとっては唯一無二の家庭だったが、久しぶりに幾何学模様を描く大理石の床を踏んだ瞬間、まるで馴染みのない場所に立ったような感覚に陥った。  いつの間にか、アルヴィーゼにとってイオネのいる場所が世界の中心になっている。 「もしかして、ルメオに愛人でもできた?」  ユーグはなかなか鋭い。が、兄がどれほどの感情で行動しているかということについては、理解していない。 「愛人?」 「うわ、そんな怖い顔しないでくれよ」  女の噂話が大好きな弟と煩わしいほどおせっかいな道楽者の父親にイオネのことを話す気はない。この二人の耳に入れば、狂喜して騒ぎ出しかねないからだ。  このままイオネが永遠に自分のそばから逃げられないよう根回しをしている最中だというのに、余計な手を回されては堪らない。  肩を竦めて両手を挙げたユーグを横目に、アルヴィーゼは不機嫌に上衣を脱ぎ、従僕に手渡した。 「俺の執務室に届いている報告を全て運んでおけ」 「もう謁見待ちが七十人以上いるよ」 「挨拶だけのやつは帰せ。市長たちの要望と報告から順に聞く」  脱いだ布の裏側から、イオネの匂いが微かに立ちのぼった。 (次に帰ってくるときは、必ずイオネも伴う)  と、アルヴィーゼはこの瞬間に二人分の人生を決定してしまった。今まで漠然と決めていたことを、その手段と時期まで明瞭にしたとも言える。  アルヴィーゼが帰郷してからというもの、領内で滞っていた事案が動き出し、それまで身に余る責務にあくせくしていたユーグは水を得た魚のように生き生きと動き始めた。元来、自分が指揮を執るよりも人に使われる方が性に合っているのだ。  アルヴィーゼは昼夜問わず領地の仕事にかかりきりになり、寝る間も惜しむほどだったが、優先して行ったことはイオネへ宛てて手紙を書くことだった。無事到着した旨の報告と、ユルクスへ戻るおおよその日付、ルドヴァンの街の様子など、書き始めると想定よりも多くのインクを使った。思えば、女性に手紙を書くのは、母親を除けば初めてだ。  この手紙をイオネが受け取ったのは、学生たちの論文の評価を終えた日の夕刻のことだった。 「まぁぁ。出発されてから五日と置かずお手紙が届くなんて、なんて愛が深いのでしょう。お着きになってすぐ書かれたのですわ」  うっとりとするマレーナの言葉を適当に受け流し、イオネは寝室へ引っ込んだ。 (妙な気持ちだわ)  アルヴィーゼから手紙が届いたことにも驚いたが、それ以上に嬉しく思ったことに驚いた。思っていたよりもアルヴィーゼを恋しく思っていたのだ。アルヴィーゼがいない屋敷はいつもよりずっと静かで、奇妙なほど穏やかだ。少し前まで離れている方が気が楽だと思っていたのに、今は違う。 「ふふ。案外、叙情的な文章を書くのね、アルヴィーゼ」  少しだけ左に傾いた気難しそうな字が、間もなく訪れるルドヴァンの冬が普段の景色をどのように変化させるかということについて穏やかに語っている。文末には「帰るまで毎晩俺の寝室で寝ろ」と結ばれていた。  イオネにはその意図がよく分からなかったが、何故か恥ずかしくなった。離れていてもこんなに落ち着かない気持ちにさせるのは、あの男くらいのものだ。 「ではあなたが帰ったら自分の寝室を使います」  と、イオネは返事の文末に書いて、折った手紙に教授として使っている「IAK」の文字の入った封蝋を押し、満面の笑みで待つソニアに渡した。  アルヴィーゼが不在にしている間に、イオネはユルクスを発つノンノ・ヴェッキオとシルヴァンを見送った。 「寂しくなるわ。たくさん招いてくださってありがとう、ノンノ・ヴェッキオ」 「次の夏にまたおいで。薬草学の長い長い講義と演奏会を予定しているからね。次はどんな音色になっているのか楽しみだ」  イオネはヴィクトル老公を抱擁し、シルヴァンとは握手を交わした。 「せっかくコルネール公爵が留守にしてるなら、僕だけ残ってイオネと楽しく過ごしたかったけど…」  シルヴァンが言うと、ヴィクトル老公は柔和な目の奥で孫を咎め、肘で小突いた。 「トーレの仕事にそろそろ戻らないといけないからさ。また来てよ」 「ええ、是非」  秋の終わりにはみな自分の家に帰っていく。  イオネは馬車の後ろ姿を眺めながら、急に心許ない気持ちになった。ルドヴァンへ発つ馬上のアルヴィーゼを見送ったときも、決して顔には出すまいとしたが、小さく胸が締め付けられた。これまで誰かを見送ることが寂しいと感じたことはなかったのに、アルヴィーゼと出会ってから自分の中で何かが変わった。  経済学の論文を一生懸命読み解こうとするバシルの姿にも、似たような気持ちになる。  昨日、バシルの家に赴いて大学へ進学させたいとその両親に告げた。イオネが奨学金を得るための試験について説明し、バシルがこれまで助手としての仕事の傍ら課題として取り組んできた短い論文や文学作品のマルス語訳を見せると、バシルの両親はイオネを拝むようにして末の子の将来を託した。 「見てて、イオネ先生。絶対試験に合格するから」  そう言うバシルの顔は、イオネが出会った五歳の子供ではなかった。次の夏にはこの少年も別の教授の下で指導を受けることになる。 「ええ。楽しみにしているわ」  いつも通り表情少なく言いながら、イオネは自分が感傷的な人間になってしまったことに驚いた。  冬休み前の大学の準備を大方終えたイオネが、読まずに置いていた本をようやく手に取ったのは、そういう気分を紛らわせたかったからだ。  ソニアがちょっとした異変に気付いたのは、この本が読みかけのままバルコニーに放置されているのを見つけた時だ。蜂蜜酒を混ぜたカモミールティーを盆に載せたまま、ソニアは傾き始めた太陽で黄金色に輝くバルコニーを見回した。二十分ほど前まで椅子に座って読書に熱中していたイオネの姿はない。  イオネはこの時、室内用の簡素なドレスの上に外套を被り、ユルクスの通りを急いでいた。向かう先は、大学だ。  女学級で使う講堂に併設された小さな書庫に、イオネが今まで受け持った学生たちの論文がある。それらが保管されているキャビネットの鍵を持つのは、イオネだけだ。キャビネットを開くと、内部にはアルファベットが順に書かれたいくつもの引き出しが並んでいる。イオネは「S」の引き出しの中から封蝋を押されて筒状に丸められた紙を一つずつ取り出して、外側に書かれた名前を確認した。――「Samaras.G」と、その著者の名が記されている。  目当てのものを見つけると、イオネは足速にコルネール邸へ戻った。既に東の空は群青色が深くなり、夕陽の色を淡くしている。 「イオネさま!」  屋敷の門前で、イオネを見るなり、ソニアが今にも泣き出しそうな声を上げた。今まで屋敷中を探し回っていたのだろう。 「心配かけてごめんなさい。しばらく部屋に篭るから、今日はもう下がっていいわ」  イオネの顔は、強張っている。  ソニアは尋常でない様子に不安になったが、食事と湯浴みだけは必ず世話を焼かせてもらえるようにと粘り、イオネから承諾を勝ち取った。  夜半、燭台の灯りの下で、イオネは怒りに燃えていた。  読みかけの本は、シルヴァンと植物園に行く前に買った古典文学の新訳本だ。あの時はアルヴィーゼとのことで頭がいっぱいで、翻訳者や内容にまで全く意識が向かなかった。  冒頭から文体に奇妙な既視感があったが、半分ほど読み進めた部分にあるアストラマリスについての翻訳者による注釈を読んだ時、記憶にある文章と内容が全く同じであることに気づいたのだ。  イオネが大学から持ち帰ってきた論文だ。二年前にジョアンナ・サマラスが卒業論文として発表し、イオネはその年の最優秀論文として評価した。  本と論文を照らし合わせた結果、文体、表現、内容どれを取っても、ジョアンナ・サマラスが書いたものであることは、イオネにとっては明らかだった。  翻訳者が彼女であれば、問題はない。訳文の正確さや表現は理に適っていて読みやすく、かつての生徒に賛辞を送りたいほどだ。  しかし、本に記されている翻訳者の名は違う。 (とんでもない不正だわ)  ジャシント・カスピオ――イオネが最も軽蔑する男の名だ。  学界を追われたはずの男が、どういうわけか、イオネの教え子の書いたものを自分の訳書であるとして発表していたのだ。
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