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53 鋼の涙 - une larme d’acier -
アルヴィーゼはイオネを伴い、中心地の外れにある大衆酒場の前で馬を繋いだ。酒場の小間使いの青年に銀貨を渡して馬の見張りを頼み、小綺麗な中流階級から庶民の男女が多く賑わう中を縫って、店の中がよく見える奥の円卓に腰を落ち着けた。トーレの港で食事した船乗りたちの店と雰囲気がよく似ている。
「先日仕事を頼んだ船長にこの店を勧められた。毎晩楽団が歌曲を披露するそうだ」
「船乗りが勧める店だから料理が美味しいと踏んでいるのね」
「そうだ」
アルヴィーゼが笑うと、イオネは唇の端を歪に吊り上げて見せた。
(作り笑いの下手な女だ)
アルヴィーゼはおかしくなった。頑ななイオネの肚の内を知るためにアルヴィーゼが選んだ手段は、尋問ではなく酒だった。屋敷や格式張った店ではイオネは酒をそれほど多く飲まないが、トーレの港町では酒がよく進んでいた。それを踏襲して、似たような雰囲気の店を選んだのだ。
思惑通り、イオネは下町に似つかわしい楽団の賑やかな演奏と歌を物珍しそうに楽しんでワインを飲んでいた。貴族たちが舞踏会で舞うような音曲よりも、庶民が祭りで集まって踊るような曲の方が好きらしい。
イオネがジャガイモとエビのフリッターを摘まみながら五杯目のワインを飲み始めた頃、アルヴィーゼはイオネの唇を濡らしたワインを指で拭った。そろそろ頃合いだ。
「それで、宴の土産話はしてくれないのか?」
イオネは深々と眉間に皺を刻んで、憤懣やるかたないと言ったように頬をむうっと膨らませた。単に宴のことを訊いているのではないと言うことを理解しているのだ。相当にいやな思いをしたのだろうが、この顔では怒りを相手に伝えるよりも可愛さが勝ってしまう。
「あなたのことだから、何があったかもう把握しているんじゃないの?」
「お前が教えてくれれば事足りる」
もっと言えば、イオネがどの程度心を許しているのか、アルヴィーゼはこれを機に測ろうとしていた。
ところが、イオネの反応はアルヴィーゼの予想を遙かに超えていた。イオネは唇をぎりりと噛んで、いつもは強気な光が宿っている目を涙でいっぱいにし、喉が震えるのを我慢するように声を発した。
「…わたしの仕事って、一体何の役に立っているのかしら」
「驚いたな。お前がそんなことで思い悩むとは」
円卓が小さくてよかった。向かいに座るイオネの涙を拭うのに、十分な近さだ。
「わたしもそう思うわ。でも、自分のことに精一杯で、学生たちに対する考えが足りていなかったと気付いたの。わたしが教えたことは彼女たちの翼にはならなかったのかもしれない。わたしを信じてそれぞれの道を進んでいった彼女たちが、他の誰かに利用されて搾取されることなんて、あってはならないはずだったのに」
拭ったそばから、涙がこぼれていく。アルヴィーゼの指を涙が伝い、手の甲まで落ちた。
「悔しい…」
そう絞り出して顔を歪ませたイオネを目にした瞬間、アルヴィーゼの胸に下劣な悦びが満ちた。イオネのこの顔は、自分だけのものだ。
「俺がその気になれば望みを叶えてやれるぞ」
まるで悪魔の誘惑のように、低く滑らかな声が喉から出た。生真面目で気位の高いイオネが、アルヴィーゼに乞い公爵の権力を行使させようとする様を見てみたい。その機があるとすれば、今だろう。
「罰したいやつがいるなら言え」
アルヴィーゼはイオネの顔を覗き込んで、強く見つめ返してくるスミレ色の潤んだ瞳を見た。しかし、唇は強い意志を持って言葉を発した。
「いいえ」
予想していた答えだ。助けを乞う姿を見られないのは惜しいが、この負けん気の強さは堪らなくそそる。アルヴィーゼはニヤリと唇の端を吊り上げた。
「より大きな権力で誰かを罰するのでは容易だけど、あまり意味がないわ。必要なのは、今まで存在しなかった仕組みを作ることよ。大学と学者がその最初の歯車にならないといけないわ」
「アリアーヌ教授らしい」
アルヴィーゼはイオネの頬に流れた最後の涙を指で拭って、その指を舐めた。名残惜しい味だ。イオネは頬を赤くしてキッと睨んで見せたが、アルヴィーゼの嗜虐心を満たす以外の効果はない。
「ジャシント・カスピオを罰するのは、その後ね。学生たちの才能を守る仕組みを作る方が優先よ。二度と誰も同じことができないように」
この名を聞いた瞬間、アルヴィーゼは血が凍り付くほど不愉快になった。
「…ジャシント・カスピオ?」
イオネの口からまたその名が出てくるとは思っていなかった。一族はおろか、この国からも追放された男がイオネの人生に再び登場することはないと確信していたのだ。
「こわい顔」
イオネが怪訝そうに手を伸ばし、アルヴィーゼの眉間を指でつついた。
この後イオネから事の仔細を聞いたアルヴィーゼは、この男にしては珍しく己の行動を悔いた。
(もっと徹底的にやるべきだった)
国外追放では手緩い。あの男がこの国に存在した証を全て残らず消し去ってしまうべきだったのだ。そうすれば、イオネが既に消えていなくなった男に煩わされることもなかった。
あの時、いくつかの妥協をしてカスピオをイオネのそばから迅速に排除することを優先した結果、イオネを連れ戻すのにそれほど時間は掛からなかったが、未だにイオネの神域に害悪の影がうろついている。
(いっそ刺客を送って命を取ろうか)
道理に外れていようが、必要ならば迷いなくやる。しかし、イオネの望みは不正をただして出版された本からジャシント・カスピオの名を消すことだ。人知れずジャシント・カスピオの存在を消すことではない。
「…翻訳者の名を差し替えさせる手はある」
アルヴィーゼが言うと、イオネの瞳がキラキラと輝いた。
「本当?」
「ボンクラ息子本人でなくても、議員の父親に本から息子の名前を消すよう要請させればいい。議員を説くのは簡単だ。大事な家名の面目が懸かっているからな」
息子の事件を公表しなかった貸しがあるから、というのが本当のところだ。が、これは口には出さない。
「ただし、教え子に自分の名を世に出す覚悟を決めさせるのは、お前の役目だ」
「当然よ!」
イオネは跳び上がるようにして席を立ち、面食らって目を丸くしたアルヴィーゼをギュッと抱きしめて、唇に触れるだけの口付けをした。
「あなたって頼りになる。早速明日ジョアンナを訪ねるわ」
「足りない」
「なに?」
アルヴィーゼは離れようとしたイオネの身体をがっちりと抱き寄せ、意地の悪い笑みを顔に広げて、唇が耳に触れる距離で囁いた。
「子供騙しの口付けでは、見返りには程遠いと言ったんだ」
不穏な空気を察したイオネがアルヴィーゼの腕から逃れようとしたが、もう遅い。アルヴィーゼはイオネの腰を強く引いて膝の上に座らせることに成功すると、頤を掴んで噛み付くような口付けをした。
「んん…!」
舌が触れ合うと、イオネはアルヴィーゼの袖を掴んで抵抗しようとした。が、次第に力が抜けていく。アルヴィーゼの手がイオネの尻を這いだしたとき、イオネはようやく首を振って唇を離した。
「なっ、何するのよ!こんな人目のあるところで…」
「みんな歌手しか見ていない。ここでは誰がいちゃついていようが誰も気にしないさ」
アルヴィーゼの言う通り、ここは祭のように賑やかだ。楽団と歌手に合わせて歌い出す客もいれば、ダンスに興じる客もいる。そうでなければ、内輪の陽気な会話に夢中だ。
「それともここでなければいいのか?二人だけなら――」
誘惑は、思ったより効いている。イオネは目元を赤くして可愛らしく頬を膨らませ、ぷいと目を逸らした。
満更でもない態度だ。
(このまま俺で頭をいっぱいにすればいい)
アルヴィーゼは軍人のような体つきの店主に金を払い、二階の狭い客室にイオネを連れ込んだ。イオネは不満げな表情を取り繕っているが、頬を赤くして大人しく腕を引かれるがままになっていた。
安い店の宿泊客用の部屋には、必要最低限のものしかない。硬く軋む寝台と、窓に掛かる古布のカーテンだ。燭台もないから、窓の外からぼんやりと差し込む月明かりを頼りにしなければ、あたりは暗闇だ。
階下から歌や演奏に混じって酔っ払いの響き渡るような笑い声が聞こえてくるが、アルヴィーゼとイオネには互いの息遣いの方が大きく聞こえていた。
アルヴィーゼは暗闇の中で、イオネの肌を暴き、余す所なく味わい、イオネの懇願も黙殺して秘所に強く吸いつき、奥まで舌でなぞった。彼女の熱源が融け出しても、やめてはやらない。
「声を出せ、イオネ」
イオネはこの店の狭さと薄い壁を気にして頑なに声を我慢していたが、胸を啄まれながら秘所の奥を指で突かれているうちにとうとう法悦の叫びを上げた。
この瞬間を待っていたのだ。
忘我の果てに己を投げ出し、天も地もすべて忘れて、ただひとつ、アルヴィーゼだけがイオネの世界のすべてになる瞬間を。
「お前の中にいるのが誰か、言ってみろ」
興奮で声が掠れる。性急に押し入ったイオネの中は熱く吸い付くようにアルヴィーゼを包み、月光に燐光を放つように白く嫋やかな脚が腰へ絡んでくる。
「アルヴィーゼ…!」
イオネが甘い声で叫んだ。
もっと溺れさせたい。この女の肉体も精神も、すべてが欲しい。それなのに、身体を重ねている時でさえ、すべてを手に入れた気がしない。
アルヴィーゼはイオネの中にある自分以外の一切を洗い流すような激しさで、その身体を貫き続けた。
ジャシント・カスピオの名が本から消えるまでには、時間は掛からなかった。この事案に対して大学の介入は叶わなかったが、ブロスキが理事の教授たちから賛同を得、今後在学中に書かれた学生たちの論文が第三者によって不正に利用されないよう、ユルクス大学としての規則を設けることが理事会で決定した。この草案は、イオネがブロスキと共同で作成することになった。
あくまで大学の規則であるために、もし違反したとしても共和国の法律で罰することはできないが、まずは一歩前進だ。
ジョアンナは、イオネの説得に応じた。
本当の翻訳者がカスピオの不正に関わったことを出版社に改めて申し出たことで、当初出版が取りやめになる可能性もあったが、出版社と懇意にしている多くの文化人たちが学術書として高く評価したために、既に刊行している分も含め、翻訳者の名が差し替えられることになった。
翻訳者の名は、「ジョアンナ」とだけ記された。これは、家の付属品である「夫人」という立場に対するジョアンナ自身の反抗でもあった。
すでにカスピオの名で刊行された分についても、カスピオ議員の強い要請により、出版社の者たちが回収し、翻訳者の名を手書きで直すという途方もない作業となった。ここまで徹底されるのは、異例の事態だ。
この背後にアルヴィーゼがいることを、イオネは知っている。
どういう理由があってカスピオ議員がアルヴィーゼの言いなりになっているのかはわからないが、イオネに対して恐らく今後も明らかにする気がないであろう密事があることには、議員がすぐに動いた時点で確信していた。
(嘘はつかないけど、隠し事の尽きない人ね)
イオネは翻訳者の名が差し替えられた本をぼんやりと脳裏に浮かべながら帰路に就く学生たちと挨拶を交わし、冬休み前の最後の授業を終えた講堂を後にした。
シルヴァンがアルヴィーゼを信用ならないと言っていたのは、こういう性質を理解していたからだろう。しかし、イオネの考えでは、秘密とは悪ではない。
王家の血筋でもあるルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールがどういう世界で生きているのか、貴族でありながら商人気質の強い家風で育ったイオネにはまだ理解が及ばない。かと言って、アルヴィーゼの全てを知り尽くし、理解し、受け容れることがそれほど重要だとも思えない。
なぜばらば、イオネにとっては目に見えるものが真実だからだ。
例えば、アルヴィーゼは今日のように暇なく忙殺されているにもかかわらず、ちらちらと舞い始めた雪の中、わざわざ自ら馬車で迎えに来たり、祝祭のために賑々しく飾り付けられた町を二人きりで楽しむ時間を作ったりする。常に冷淡で利己的な合理主義者のこの男が、イオネに対してだけは非合理的に己の時間を削り、時には少年のように笑って見せる。
アルヴィーゼのイオネに対する言動は、すべて心のままの真実なのだ。
(わたしに覚悟が足りていないだけかも)
イオネは屋台で買ったグリューワインを差し出し、いつものように意地悪そうな笑みを浮かべるアルヴィーゼを見上げた。
どのみち、離れることはできない。この世でいちばん厄介な男に囚われ、それを心地よいと感じてしまうほどに、遠いところまで流れて来てしまった。
この翌日、夜のうちに強く吹き始めた雪がユルクスを白く染めた。
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