五十四 雪が運ぶもの - la neige chante -

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五十四 雪が運ぶもの - la neige chante -

 真っ白な雪道を、バシルが駆けてやって来た。手にはユルクス大学の紋章が押された書簡を持っている。――入学試験の合否通知だ。  コルネール邸の書庫で、イオネがソワソワと待ち構えていた。バシルの勉強をずっとそばで見守っていたソニアも、まるで自分のことのように緊張した面持ちでいる。  書簡を開いた瞬間、イオネの目がキラキラと輝き、ソニアは両手を組んで跳び上がり、バシルは茫然とした。 「何て子なの、バシル!首席合格よ!」 「本当に、すごいです!毎日毎日努力されていましたから当然と言えば当然ですが、ウッ…」 「泣かないでよソニア」  バシルはそばかすの目立つ頬を真っ赤にして苦笑した。  通常のマルス語教養や外国語などに加え、イオネの誕生日に書いてきた書評が特別研究の成果として加点されたのだ。  ブロスキがこの少年らしからぬ皮肉たっぷりな観点で書かれた書評を面白がり、バシル・レンコを自分の学生として欲しがった。が、アルヴィーゼが以前言っていた通り、自分の師を選ぶ権利はバシルにもある。 「二月に大学で開かれる宴にあなたを連れて行くわ。様々な分野の教授を知る機会になるでしょうから、そこでブロスキ教授に師事するか、それとも他の教授にするか選んだらいい」 「う、うたげ…」  バシルは目を何度かぱちくりさせた後、大きく頷いた。 「わかった。頑張ってみるよ、イオネ先生。ソニアも来る?」 「もちろん。わたしの侍女として同伴するわ。ソニア、あなたとバシルでダンスの練習もしておいてね」 「えっ」  バシルとソニアが二人が同時に頓狂な声で叫んだ。 「ふふ。姉弟みたい。楽しみね」  イオネはこの頃、アルヴィーゼと共に夜を過ごすことが多くなった。  アルヴィーゼが毎晩誘惑を仕掛けてくるからだ。それも、自らの性的魅力を餌にするだけではなく、イオネの知的好奇心を刺激するような餌で釣ろうとしてくる。そしてイオネはそれに勝てない。たまにアルヴィーゼの帰りが遅いときは先に自分の寝室で眠りにつくが、そういう時は決まって朝になると広々としたアルヴィーゼの寝台で目が覚める。 「あなた、ちょっと異常よ」  アルヴィーゼの腕の中で目を覚ましたばかりのイオネが寝ぼけ声で言うと、アルヴィーゼは吐息で笑ってイオネの耳を噛んだ。 「お前を一日中この寝台に縛り付けておきたい欲求に耐えているだけまともだと思うがな」  上機嫌な声だ。多分、目を覚ますまでずっと寝ている姿を見られていたのだろう。 「それ本気なの?」  イオネが首を後ろへ巡らせると、すぐにアルヴィーゼの唇に捕まった。 (本気なのね…)  言葉がなくても分かってしまう。寝衣の下を這い始めた手を、イオネは拒まなかった。  冬に祝祭が多いのは、ユルクスだけではない。エマンシュナ王国もまた、王室の恒例行事が多く予定されている。王族の血筋でもあるアルヴィーゼもまた、遠く王都アストレンヌまで赴いて国王に拝謁しなければならない。本人がどれだけユルクスに留まりたくても、ルドヴァンの領主としてコルネールの名の下にアルヴィーゼが新年の祝詞を述べなければならないのだ。  この予定に、最短でも半月を要する。  ついこのあいだ屋敷を留守にしたときは、イオネが滅多に顔を出さない宴に自ら出掛け、忌々しいカスピオの名を再び耳にして帰って来た。カスピオ議員一家には万が一にも妙な気を起こさないように監視を付けているが、あれからひと月も経っていないというのにイオネを残してユルクスを発つことは有り得ない。  となれば、解決策は一つだ。 「お前も来い」  朝食の席で、イオネはニンジンとレタスをフォークに刺したまま固まった。 「…王城の祝宴に?」  これが何を意味するか、イオネは分かっている。 「冬期休暇だ。ちょうどいいだろう。遅くとも大学の新年の宴の二日前にはこちらへ戻れるから、助手殿の顔見せには差し支えない」 「そういう問題じゃなくて…」  あなた正気?と口に出そうになって、呑み込んだ。わかりきっている。この男はいつだって正気で、いつだって正気ではない。  ただの旅行ならともかく、国を越えて公式な行事に関わるには、身分や正当な目的を証明するための手続きが必要だ。アルヴィーゼのことだからその手続きを、恐らく正規とは言えない方法で既に済ませているか、そうでなくても無理矢理押し通すつもりに違いない。 「怖じ気づいたのか」  挑発的な言い方だ。イオネはアルヴィーゼの目論見通り、この挑戦に受けて立った。 「そんなことあるわけないでしょ」 「では問題ないな。三日後に発つ」  と、アルヴィーゼは重大なことをまるで朝食のメニューでも選ぶような調子で易々と決めてしまった。  それも、三日後と言えば今年最後の学会の翌日だ。イオネの予定を把握した上で、もっと以前から考えていたのだろう。 (勝手だわ)  それなのに、腹が立たない。  ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールが国王に拝謁するその隣に立てと言われたこの重大事が、決まってしまえばひとつの通過点ほどにしか思えないからだ。  イオネにとってアルヴィーゼは、ともに歩んで当然と言えるほどの存在になっている。 「いいわ、公爵。アストレンヌへ連れて行って」  イオネは権高に顎を上げた。アルヴィーゼの世界を共に見るのは、吝かではない。 「ついでにアストレンヌ大学の見学もできるかしら」 「手配する」  アルヴィーゼが優しく笑んだ。  三日後、予定通りイオネとアルヴィーゼはユルクスを発った。道中立ち寄った数々の領地ではコルネール公爵への凄まじい歓待にびっくりさせられたが、これこそアルヴィーゼの立場なのだ。宿泊するために立ち寄った場所ではその土地で最も豪華な館に案内され、最高級の料理でもてなされた。勿論イオネにも別の寝室が用意されたが、それらはソニアが使うことになった。アルヴィーゼが慣れない土地でイオネを一人にすることは有り得ない。  退屈なはずの馬車の中は、意外と悪くなかった。アルヴィーゼは手強いがそれだけに良いエシェック(チェス)の相手だし、話している間も、互いに沈黙している間も、居心地は良い。初対面の時はあれほど嫌っていたのに、人生はどう転ぶか分からないものだ。  アルヴィーゼは馬車に揺られながら、しばしばイオネを自分の纏っている外套の中に包み、暖を取った。イオネは温かく脈打つアルヴィーゼの首に頬をすり寄せ、自分より少し高い体温に身を預けた。身体を重ねていない時間も、確かな熱が伝わってくる。  こういう気持ちを何と呼ぶのか、言葉にしないだけで、イオネにはわかっていた。夏の終わりから雪が降り始めるまでの僅かな時間しかアルヴィーゼ・コルネールという男を知らないのに、すっかりイオネの人生でもっとも厄介な存在になってしまっている。  イオネは人生で初めて感情を形にしようと思った。  ――いつか愛を綴りたくなる相手が現れた時に、是非片方を贈ってください。  エル・ミエルド帝国のムラト教授は、以前イオネにそう言って対になっている翡翠のペンをくれた。きっとこれが、そういうことなのだ。  そして五日目の夕刻。  一行はエマンシュナ王国の都アストレンヌの城壁をくぐった。  普通はその街の賑わいと建物の壮麗さに感嘆するものだが、生憎この時のイオネの意識は微睡の中にある。散々アルヴィーゼの膝の上で甚振られたばかりだったのだ。 「信じられない!あんな所で、あんな…」  と、飛び起きたイオネが顔を真っ赤にしてアルヴィーゼを歓ばせたのは、既に夜も更けた時分だった。意識を失っている間にコルネール公爵家の王都の屋敷へ担ぎ込まれ、アルヴィーゼの大きな芸術品のような寝室の広すぎる寝台に寝かされ、衣服も旅装を解かれて室内用の柔らかいドレスに着替えさせられていた。すべてアルヴィーゼが自らやったことは分かっている。  この屋敷で働いている人間をイオネは誰一人知らないというのに、最悪の醜態も良いところだ。 「お前がエシェックで俺に負けたからだろう」  アルヴィーゼは読んでいた本をサイドテーブルに置いてソファで脚を組み、ニヤリと笑った。 「卑怯だわ、あんな手を使うなんて。この恥知らず。変態」 「何とでも言え」  アルヴィーゼは機嫌良く笑い声を上げて使用人を呼んだ。ずっと眠りこけていたイオネの食事を用意させるためだ。  程なくして軽食の準備が整うと、アルヴィーゼは給仕係を下がらせてワインを手ずから注いだ。 「ようこそ、アストレンヌへ」 「お招き感謝するわ。アルヴィーゼ・コルネール公爵閣下」  イオネはグラスを触れ合わせてワインに口をつけた後、視線を軽食として出された茄子とジャガイモのグラタンに視線を落とした。 「…そんなに見つめられると食べにくいわ」 「気にするな」 「随分と上機嫌ね」 「お前がこんなにすんなり王都に来ると思わなかったからな。予想が外れて嬉しいのは奇妙な感じだ」  イオネはグラタンを頬張って、アルヴィーゼの顔を見た。普段は意地悪く笑っているくせに、こんなふうに優しく微笑むなんて、なんて狡猾な男だろう。 「わたしをどういう名目で王城へ連れて行くつもり?」 「そうだな」  アルヴィーゼはゆったりと笑みを広げた。 「婚約者――」  とアルヴィーゼの唇が発した瞬間、予想していた答えにもかかわらず、イオネはどきりとした。 「――と紹介して回りたいが、お前はそれでいいのか?」 「いやよ」  イオネが頬を赤くしながら毅然と拒否したのは、王国に仕える身である公爵が国王の公的な許しなく結婚相手を決めることは不敬と見なされ、場合によっては罪になり得るという法を知っているからだ。  イオネがその手続きを経ずに公爵の婚約者であると自称すれば、世間知らずの厚かましい共和国の女として見られることになる。誇り高いイオネが自尊心を傷つけるような事を許すはずがない。アルヴィーゼも無論、理解している。 「公爵の女として認識されるなんて御免だわ。そんなことになるならわたしは城へは行かないつもりよ」 「なら、ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールの貿易事業の特別な協力者であるクレテ家の代表アリアーヌ・クレテ教授として隣に立て」 「悪くないわ。でも当主である伯父さまの許しを得ていない…」  と言いかけて、イオネは口を噤んだ。アルヴィーゼは全て理解しているような顔で鷹揚にワインを口に運んでいる。 「さすがね。行動が早いこと」  呆れを通り越して感心してしまう。イオネが言うまでもなく、既に伯父にのエリオスに話をつけていたのだ。一体いつからこのことを想定していたのか、考えるのも馬鹿馬鹿しい。  アルヴィーゼは寛いだ様子でグラタンを頬張るイオネを眺めながら、内心で愉悦に浸っていた。  イオネの反応は全て想定通りだ。イオネ自身がゆくゆくはアルヴィーゼの婚約者として国王に紹介されるであろうことを想定しているという点も、満足だ。  しかし、イオネは予想もしていないだろう。  アルヴィーゼは既に、内々に国王へ親書をしたためている。アルヴィーゼ・トリスタン・コルネールはイオネ・アリアーヌ・クレテを今後一年以内に妻として迎える、という内容だ。そして、国王から承諾の返事を受けている。  どういう名目でイオネが王城に現れようが、正式に公爵の妻として認知されるのは時間の問題だし、国王はとうにそのつもりでいるのだ。 (可愛いことだ)  既に囲い込まれていることも知らずに、イオネはグラタンを頬張りながらアストレンヌ大学の視察のことを話し始めた。 「ああ、楽しみだな」  アルヴィーゼは別のことを考えながら、イオネに微笑みかけた。
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