五十七 見えざる竜 - les poules, les dragons et l’esprit -

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五十七 見えざる竜 - les poules, les dragons et l’esprit -

 アルヴィーゼがマルクの口からそれを聞いたのは、化粧室へ続く廊下を進んでいるときだった。 「お前の親父さんとヴィスコント伯爵の間でお前と末の娘の婚約を決めたって聞いたぞ」 「どうせ道楽親父が酒の席で適当な相槌を打ったんだろう」  父ガストン・コルネールがこういうことをしでかすのは、これが初めてではない。ガストンは息子のアルヴィーゼとは正反対で、遊び半分の詩作と酒を愛する軽薄な男だ。しかも、酒にめっぽう弱いくせに酒に酔うのは好きという厄介な性格をしている。ルドヴァン公爵という重すぎる荷を成人したばかりの優秀すぎる嫡男にさっさと譲ってしまったのも、自由と享楽を謳歌したかったからに他ならない。  そのガストンが、酒席で適当な約束事をしては朝になったらけろりと忘れてしまっているということが度々起きている。ガストンの性格をよく知る者であれば酒を片手にこの男が言ったことなど信じることも馬鹿馬鹿しいと思うはずだが、ヴィスコント伯爵は本気だったのだろう。「娘がルドヴァン公に嫁ぐ」などと周囲のものに嬉々として吹聴しているというのだった。 「愚かすぎて哀れになってくるな。親父が何の決定権も持っていないことなど少し考えれば分かるだろうに」  アルヴィーゼはまるで他人事のように一蹴した。  そもそも、アルヴィーゼの結婚相手を決められるのは当主であるルドヴァン公爵だけだ。国王も既にイオネとの婚姻の意志を承知しているから、これが覆ることはない。 「伯爵と令嬢がすっかりその気になって、それはそれは大喜びしてるそうだぞ。きっとガッカリするだろうな」  マルクは眉尻を下げた。特に親しくもない者にも心を分けられるところが、マルクの美徳だ。  一方で、アルヴィーゼは冷ややかだった。新年の宴に参加しているはずのヴィスコント伯が、他の女を伴って現れたアルヴィーゼに対して挨拶も文句も言ってこないということは、二人の姿を見た瞬間に察したのだろう。あんな酔っ払いの言葉に何の意味もなかったということに、今日この場でようやく気付いたのだ。 「愚かなことだ。親父は暫く謹慎だな」  アルヴィーゼは冷笑を浮かべ、化粧室の手前の角で突然ピタリと足を止めた。 「おい、どうしたんだよ」 「ヴィスコントの娘というのはあれか」  マルクがアルヴィーゼの視線の先を目で辿ると、何人も取り巻きを引き連れたヴィスコント伯の令嬢がいた。しかも、イオネを取り囲んでいる。 「おっと。これは、助けに行かないと」 「シッ」  アルヴィーゼは先へ進もうとしたマルクを制した。 「なんだよ」 「もう少し見たい」  まるで悪魔のような笑みだ。 「おっ…お前なぁ」  マルクはアルヴィーゼの目的に気づき、目をぎょろつかせた。十歳の頃からアルヴィーゼを知っているが、こんなに昏く底の知れない情念があったのかと、ひどく驚いた。まるで初めて会う人間のようだ。  今アルヴィーゼは、自分が地獄の底まででも追いかけようと躍起になっている女が、アルヴィーゼという自分の縄張りを守るべく他の女と争って優位に立つ様を目に焼き付け、更なる愉悦に浸ろうとしているのだ。 「まじで、めちゃくちゃ悪趣味だぞ」  アルヴィーゼは黙殺した。  イオネはまったく理解が出来ない思いで目の前の令嬢を見た。 「つまりあなたとあなたのお父さまは、証明書もないお酒の席での口約束が実現すると考えているのね」 「ただの口約束ではありませんわ。高貴なる公爵閣下のお父さまのお言葉ですもの」  令嬢は声高らかに言った。自分が受けるに相応しい縁談だと疑ってもいないようだ。 (なんという幼さなの)  顔立ちを見るとニッサと同じくらいの年頃に見えるが、ニッサの方がよほど大人びている。不遇の時代を知恵と並ならぬ胆力で乗り越えてきた妹たちと、花よ蝶よと育てられてきた世間知らずの令嬢と比べるのは酷かもしれないが、それにしてもこの浅はかさは、彼女のためにはならないだろう。 「あなたこそ身の程を弁えたらいかがですか。恥ずべき共和国の、爵位もない家の女が、麗しの公爵閣下に馴れ馴れしくするなんて、恥ずべきことだわ。わがヴィスコント伯爵家は――」 「あら、共和国がなぁに?」  イオネは冷たく空気を震わせるような声色で、令嬢の言葉を遮った。令嬢の一番の悪手は、イオネの共和国民としての誇りを刺激したことだ。  イオネの期待通り、令嬢は食ってかかった。 「かつてルメオ共和国は、偉大なるエマンシュナ国王の庇護を受けた我が国の一部だったにもかかわらず、貿易の利益のために恩も忘れて王国に宣戦布告し、戦を起こした挙げ句にまんまと独立した、身勝手で強欲な者たちの国ですもの。軽蔑されて当然です」 「あなたそれは、誰に教わった物語なの?」 「歴史です。お父さまがそう仰っていました」  イオネには、だんだんこの娘が哀れに思えてきた。 「あなたが真っ当な教育を受けて本物の歴史書を読んでいたなら、そんな妄言を堂々と口にすることもなかったでしょう。今からでも図書館に通うことをおすすめするわ。王立アストレンヌ図書館はまさに宝の山よ」  令嬢と取り巻きの娘たちは顔を真っ赤にして言葉を失った。怒っているのか恥じているのか、イオネには判別できないが、それは全く問題ではない。 「ルメオが宣戦布告をしたのは王国にではなく、専横を極めていた当時の領主に対してよ。内乱が広がることを憂慮した当時の国王夫妻がルメオの諸侯と手を組んで速やかにクーデタを起こさせ、共和国として独立したの。その後の経済協力によって王国にもそれまで以上の利益がもたらされたのよ。あなたは今、ご自分が共和国だけでなく王家のことも侮辱したということを理解しているかしら。そして、国王と協力関係にあったわたしの曽祖父のこともね」  令嬢は顔を赤くしたり青くしたりと忙しい。失言に気付いた後は、ただ小さな口をぱくぱくとさせていた。 「あなたたちも無関係ではないわ」  イオネは取り巻きの令嬢たちにも容赦なかった。 「例えばあなたが誇らしげに髪に飾っている稀少なオパール・ローズという鉱石は、ルメオの交易版図がなければこの国に入ってくることはなかったものよ。隣のあなたのドレスも、その巧緻な幾何学模様の刺繍は異大陸の小さな国からルメオを通じてこの国が得た技術だし、ヴィスコント領の東の港も、共和国を発着する船から関税で潤っている。ルメオとエマンシュナが共に栄えたからこそ得た恩恵を、わたしなら誇りに思うわ」  イオネは返す言葉をすっかりなくしてしまった令嬢たちを静かに一瞥し 「それから、爵位は――」  と、淡々と付け加えた。 「実力と資本が重要視される共和国では爵位で呼び合う習慣がないの。わたしの家は王国時代にはトーレ侯爵と呼ばれていたわ」  もっと言えば、共和国として独立した後もルメオの諸侯はそれ以前の爵位を失っていない。家門の序列で言えば、ヴィスコント伯爵家がトーレ侯爵家に頭を下げさせることはできないのである。  しかし、イオネは令嬢の無礼に対して腹を立てることはなかった。無知は時に罪になり得るが、知を得ることで贖うことが出来ると信じているからだ。 「よければ歴史の参考文献を紹介するわ。学生向けのマルス語の本だから難解な文法もないし、機知に富んだ語り口が面白いの。理解を深めるのに役に立つわよ」  すっかり顔面を蒼白にして呆然としていたヴィスコント伯の令嬢が、ハッと我に返って頬を赤くし、ワナワナと顎を震わせ始めた。 「わ、わたくしは…歴史の講釈を聞きたいのではないわ!女は物知りになり過ぎてはいけないのよ。だって、お父さまはいつも正しいの。お父さまが、わたくしをアルヴィーゼ閣下のお嫁さんにしてくれるって言ったもの!」  取り巻きの令嬢たちがヴィスコント伯の令嬢を哀れむような目で見た。が、彼女の言葉に口を挟むものは誰もいない。 「わたしが最も共感するアルヴィーゼ・コルネールの美徳は、欲しいものは自らすべて選び、いかなる手段を使ってでも自ら手に入れることよ」  これが、イオネの最大限の配慮だった。歯に衣着せぬ物言いをするのであれば、選ばれもせず自ら動く能力のない部外者は身の程を弁えて黙っていろといったところだ。  この時イオネがどんな顔をしていたのか、アルヴィーゼとマルクには見えなかった。しかし、アルヴィーゼはその声色だけで満足した。きっとイオネはどれほど冷たい声を出しているか、自覚していない。 「聞いたか。律儀に参考文献を紹介してやるとさ」  アルヴィーゼが悪童のように声を弾ませると、マルクはヤレヤレと首を振った。 「喧嘩を売られても教授の本分を忘れないあたりに彼女の(エスプリ)を感じるな」 「いい女だろう」  アルヴィーゼは悪魔のように笑み、大袈裟に呆れ顔をして見せたマルクを一瞥すると、ようやく足を動かした。 「イオネ」  アルヴィーゼは後方からイオネに近づくと、息をするような自然さで腰に腕を回し、頬にキスをした。令嬢たちの顔は、今度は真っ白だ。 「何をしている」 「彼女たちに本を紹介しようとしていたの」 「それはいい。それぞれの家に届けさせよう」  名を知らずとも、この場にいる全員の家を調べることなど造作もない。アルヴィーゼの言葉にはそういう脅しめいた含みがある。 「では、そろそろわたしの教授を返してもらう」  アルヴィーゼは殊更輝くばかりの笑顔を作り、この後何をされるか察してたじろいだイオネの腰を強く引き寄せて拒否する隙を奪い、唇を重ねた。  いつもなら怒って拒むはずのイオネは、人目が多くあるにも関わらず、アルヴィーゼのとても慎ましやかとは言えない口付けを受け入れた。 (見せつけて悦に浸っているな)  イオネにそんな意図がないにせよ、心の奥深くではそういう欲求があるに違いない。そうでなければ、自らこの場で唇を開くことはないだろう。  そそくさとその場を去っていった令嬢たちのことは、もはや眼中にもない。が、なかなかいい仕事をしてくれたことは確かだ。 「ちょっと言い過ぎてしまったわ」  帰りの馬車で、イオネがぼやいた。 「十分すぎるほど優しかったと思うが」  アルヴィーゼは機嫌良く指にイオネの髪を絡ませて、生花のように官能的なその香りを嗅ぎ、髪の先に口付けをした。 「やっぱり聞いていたのね」  イオネは咎めるように言ったが、アルヴィーゼは意に介さず、機嫌良くイオネの髪を弄び続けている。 「お前が勇敢に竜の首を落とそうとしていたのに、邪魔はできないだろう」 「竜だなんて。あまり人を他の生き物に喩えるのは気が進まないけど、彼女たちは言うなれば鶏よ。広い世界を知らないの」 「鶏とは、言い得て妙だな。親鳥と揃ってけたたましく勝手な噂を鳴き散らしてくれたものだ」  アルヴィーゼがひどく楽しそうなのがなんだか癪だ。 「言っておくけど、あの子にやきもちなんか妬いてないわよ」  イオネはピシャリと言い、ぷいと窓の方へ顔を背けた。  不愉快でなかったはずがない。自分の男の婚約者であると堂々と偽称する女がいることに対して、自分でも驚くほど嫌悪感があった。が、それは問題ではない。こんな勝手をアルヴィーゼが許す筈がなく、すぐに手を回すであろうことは明白だ。 (竜なら別にいたわ)  アルヴィーゼがこれまで遊び相手を慎重に選んで後腐れなく切ってきたという話は、正しかった。  今日王城で感じたいくつかの生温かい視線は、どれもどこぞの世慣れしていそうな美しい奥方たちから浴びせられたものだった。イオネは彼女たちがアルヴィーゼのかつての愛人だったということを何となく察していた。今まで自分に備わっているとは思っていなかった、おんなの勘というやつだ。  それも、嫉妬や品定めするような類ではなく、立派に育った親戚の少年や教え子を久しぶりに見るような類のものだ。イオネには、こちらの方がよほど居心地が悪かった。  が、決して口にはしないし、態度にも出さない。  悟られれば、アルヴィーゼはイオネの悋気を大いに愉しむに決まっているのだ。 (ペンを贈る時期は、もっとよく見定めよう)  ちょっとした反抗のつもりだ。無自覚に悋気を煽られた上で素直に愛を告げてしまっては、完全な負け戦になるではないか。 「何を考えている」  突然アルヴィーゼに腰を抱き寄せられて、イオネはねじくれた思考からふと我に返った。見上げると、アルヴィーゼの翠玉の目が薄闇に鈍く光って、こちらを射るように見つめている。 「欲しいもののことを考えていたのよ」 「何が欲しい?」  アルヴィーゼの高い鼻が首の窪みに触れ、唇が肌に触れる。イオネの腹の奥がぞわっと熱を持って、甘く痺れた。 「教えてあげない」  イオネはそのまま重なってきた脣の下で息も絶え絶えになり、悪戯を始めたアルヴィーゼの手に翻弄されるまま、思考を停止した。
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