58 兆しなき影 - le mal cachée -

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58 兆しなき影 - le mal cachée -

 ユルクスへ戻って一週間余りが過ぎた。  アルヴィーゼに贈ろうと思っていた翡翠のペンは、未だにイオネの机の中に仕舞われている。些細な婚約者騒動や過去の女たちを見たことで腹を立てているわけではない。  あの日、エマンシュナの王城に足を踏み入れ、アルヴィーゼ・コルネールを取り巻く世界がイオネの中で実態を持ったことで、新たな欲が生まれた。  波に攫われるがままアルヴィーゼの(たなごころ)に囚われて、何の合図もなく何の自覚もないまま、その思惑通り、知らぬ間に咲いた野花を摘むが如く公爵夫人という地位に据えられるのは、イオネにとっては全くもって公平ではないという事実に気付いてしまったのだ。  イオネ・クレテという一人の女として、アルヴィーゼ・コルネールの最後の女としての矜持を賭けて、自分さえ望めば何もかも思い通りになるというアルヴィーゼの傲慢極まりない考えを簡単に実現させてはならない。  アストレンヌ城での一件以来、アルヴィーゼは事あるごとに欲しいものは何かと聞き出そうとしてくるが、イオネはのらりくらりと躱し続けている。 (これだけは自ら悟るべきよ)  それまでは、自分から何かを示すつもりはない。イオネにとっては退くべからざる闘争なのだ。  イオネは鏡台の前に座り、鏡に映る顔を見た。ソニアが淡い色使いの化粧で綺麗に整えてくれたというのに、いつも以上に表情が冷たく見えるのは、珍しく緊張しているからだ。イオネはこの後、バシルを伴ってユルクス大学の宴に出席しなければならない。 (どうしよう。自分の時には一切緊張しなかったのに、愛弟子の将来が左右されると思うと…)  イオネは鏡に映る顔色の悪い女をキッと睨み、両方の頬をつねった。髪は教授らしく威厳たっぷりに結い上げ、上品で慎ましやかな深海色のドレスを纏っていても、表情がこれでは締まらない。 「優秀なバシルを信じるのよ。バシルはできる子、バシルはできる子、バシルはできる子…」 「また呪文か。久しぶりに聞いたな」  おかしそうに言いながらアルヴィーゼが背後から近付いてきてイオネを抱擁し、頬に口付けをした。 「俺の教授は今宵も美しい」  そういうアルヴィーゼこそ、黒髪を上げ、装飾が少ないながらも巧緻な地織りが目を引く黒絹の夜会服に身を包んだ姿は、嫌みったらしいくらいの男振りだ。 「いいえ、今日は顔色も悪いし冴えない顔をしているわ。ソニアに申し訳ないくらい」 「こんなに美味そうなものを無防備に晒しておいてよく言う」  そうこぼした唇が次に触れたのは、イオネの白い首筋だった。 「あっ。ちょっと…吸わないで」  鏡越しにアルヴィーゼが意地悪く笑んだのが見えた。抵抗しようとしたが、もう遅い。アルヴィーゼは折角ソニアが綺麗に着付けたドレスのボタンを易々と外し、襟を引き下ろして乳房を露わにしてしまった。  イオネは胸元を下りてきたアルヴィーゼの頭を掴んでやめさせようとしたが、この後髪を整えなけれならないドミニクの苦労を思って手を止めた。 「ここならいいか?」 「ダメに決まって…んん…!」  止めなければならないのに、乳房の先端を舌でつつかれて吸われると、身体が痺れて抵抗できなくなる。 「はっ…あ…もうだめ」 「そうか」  アルヴィーゼはそう言いながらイオネの白い乳房に赤い吸い痕を残し、抵抗しようと肩を掴んでくるイオネの手を黙殺して、ドレスの裾の内側に手を這わせ始めた。  アルヴィーゼの手を止めたのは、扉の向こうから聞こえる咳払いと扉を叩く音だ。 「イオネさまー!バシルが見えましたよー!」  ちょっとわざとらしいくらいのソニアの大声が扉越しに聞こえてくる。きっとアルヴィーゼがこの部屋に入った時点で、この不埒な主人が何を始めようとしたか察していたのだ。イオネは顔から火が出るかと思うほど恥ずかしくなった。 「もう!」  イオネはドレスの襟を引き上げ、くるりとアルヴィーゼに背を向けた。 「早く直して」 「仕方ないな」  アルヴィーゼは面白くなさそうに言いながら乱れたシュミーズの紐を結び直し、ドレスの小さな留め具を全て留め終える前にイオネの首の後ろに羽が触れるような口付けをして、最後にお気に入りの真珠の首飾りを胸元へ巡らせた。  指が首の後ろに微かに触れ、細い金の鎖をなぞって鎖骨の稜線を撫でると、イオネの肌の上にぞくりと甘い熱が走った。 「血色がよくなった」  鏡越しに意地悪く笑うアルヴィーゼの隣で、イオネは自分の頬が赤く染まるのを見た。自分でも分かる。この男に散々植え付けられた淫蕩の種が身体中で熱を発し、表情がアルヴィーゼを誘惑するようにだらしなく蕩け始めている。 「あなたのせいよ…」 「帰ったら意識を失うまで抱いてやる。それまでここに――」  と、アルヴィーゼの手のひらがドレスの上を這い、下腹部に触れた。 「――俺が入る瞬間を思いながら待っているといい」 「けもの」  恨めしそうに詰ったイオネの声には、興奮が混じっていた。  普段は重厚な学び舎の佇まいを見せるユルクス大学も、この日は数々のランプや温室で育てた花々が至る所に飾られ、祝宴のための豪華なタペストリーが壁中に飾られて、いつもとは違う華やかな雰囲気だ。  バシルは初めて参加する宴の華やかな雰囲気にすっかり気圧されて子鹿のようにぷるぷる震えていた。一方落ち着きを取り戻したイオネは、先ほどまでの緊張など微塵も残さず澄ました顔でバシルの肩をぽんぽんと叩いた。 「大丈夫よ、バシル。ただの挨拶回りと思っていたら良いわ。教授たちは首席合格の学生の顔を見たがっているし、とっても有意義な顔合わせになると思う」  イオネはバシルの気持ちを軽くしてやろうとしたが、これではバシルの気は休まらない。 「イオネ先生って本当に励ますの下手だよね。逆効果だよ」 「あら、それだけ生意気な口をきけるなら十分ね」  イオネは悠然と笑んで、隣で魔王のように佇むアルヴィーゼの腕に手を添えた。この時不意にアルヴィーゼが向けてきた視線の意味を、バシルはすぐに理解した。「お前もパートナーをエスコートしろ」と促しているのだ。 「あっ、はい」  誰にともなく返事をして、バシルはソニアに向けて腕を曲げて見せた。 「今日はよろしく、ソニア…。本当によろしく」 「ふふ。大丈夫。今日はお召し物も大人っぽくてとても素敵な紳士に見えますけど、中身はいつものバシルでいいんですよ。初めてのことを楽しむのは得意でしょう」 「ソニアは天使かな」  バシルはそばかすの目立つ頬を赤くして、腕に手を添えたソニアに笑いかけた。  イオネは感慨深い思いだった。出会った時は舌足らずの五歳の子供だったのに、今やバシルは少年から青年への過渡期にある。  大学で最も広い円形の講堂は、宴の夜は舞踏会場に変わる。学生や教授たちがその同伴者と一緒に華やかな伝統曲でダンスに興じる中へ、イオネは不安そうなバシルとソニアを送り出した。 「弟子も踊るなら師匠が踊らないわけにはいかないよな」  アルヴィーゼがニヤリと笑ってイオネを誘った。 「勿論よ。公爵」  ダンスは以前ほど嫌いではない。というより、アルヴィーゼが相手なら案外楽しいと思うようになった。 「あの二人、かわいいわね。でもちょっと寂しいわ」  イオネはアルヴィーゼのリードに任せながら円を描くように足を運び、ソニアとぎこちなく踊っているバシルの方へ目をやった。足が元の位置に戻ってアルヴィーゼと身体が近付いたとき、アルヴィーゼの手がするりと腰を這った。 「聞き捨てならないな。俺がそばにいるのに寂しさを感じる余裕があるとは」 「だって、もうすぐわたしの元を離れてしまうもの。子が独り立ちするときの親の気持ちって、こんな感じなのかしら」 「ほう」  とアルヴィーゼが悪巧みするような声で言うまで、イオネは自分の不用意な発言に気付かなかった。腰に手が這ってきて強く引き寄せられると、誘惑するように目を細めたアルヴィーゼの秀麗な貌が間近に迫っていた。 「それなら本当に子を持ってみるか?俺は今すぐでもいい。避妊薬を飲まずに萌芽を待つかは、お前次第だ」 「ちょっと、やめて。冗談で話すような内容じゃないわ。わたし、妻になってもいないのよ」 「俺は本気だ。それともお前の夫になるために足りないものが俺にあるのか」 「あるわ」  イオネは刺すように言って、足を止めた。アルヴィーゼの眉間に皺が寄ったのは、イオネが答えを示す気がないことを分かっているからだ。 「逃がさないぞ、イオネ」 「残念だけどこれからバシルの挨拶回りなの。あなたがいると目立つから大人しくしていてちょうだい。今夜の主役はバシルなんだから、邪魔はさせないわ」  イオネは高飛車に顎を上げてさっさとアルヴィーゼから離れ、ソニアと踊り終えたらしいバシルの方へ向かって言った。  ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールにこんな口をきけるのは、イオネだけだ。  アルヴィーゼは不機嫌にイオネを見送りながら、今夜はどうやってあの女を犯し屈服させてやろうかと思案した。  奪うように身体を手に入れ、アルヴィーゼが誘惑すればやすやすと快楽に陥落する淫蕩な肉体につくり変えてなお、イオネの心には決してやぶることのできない神殿がある。アルヴィーゼにだけは扉を開く様子を見せるときもあるのに、いつもは誰一人通すことなく堅く扉を閉ざしている。今は、開く兆しはない。 「イオネは何を欲しがってる」  と、琥珀色の蒸留酒を運んで来たソニアに訊ねてみたが、ソニアはのびやかに「さあ」と首を傾げた。 「ですがわたくしには、イオネさまが何かを欲しがっていると言うより、待っているように思えます」 「なるほど」  アルヴィーゼは蒸留酒を受け取って口を付けた。最も信頼する侍女にも何も明かさないということは、それだけ本気ということだ。 (まあ、いい)  イオネが何を欲しがっているのかはまだ分からないが、吐かせる自信はある。だんだんと快楽に貪欲になっていくイオネを閨で責める手段はいくらでもあるのだから、今夜実行すれば良いだけの話だ。もしくは、もので釣る手段もある。  アルヴィーゼはこの時、依然として楽観的だった。イオネが徐々に甘い空気を放つようになってきたことで、気が緩んでいたかもしれない。  異変が起きた。  イオネがアルヴィーゼのそばを離れてから二時間が過ぎようとした頃だ。  アルヴィーゼが他の教授の誘いを受けて参加したテーブルゲームの席から広間へ戻って来ると、バシルとソニアが困惑顔でアルヴィーゼを迎えた。イオネの姿は、そばに見当たらない。 「イオネはどこだ」 「コルネールさんと一緒だと思ってたんだ。色んな教授に挨拶したあと、先輩たちの話を聞いて来いって学生の集まりに送り出されて、イオネ先生は先に戻るって言ってたから」  このとき背筋を走った凍り付くような感覚が恐怖だと知ったのは、自分の顔色を映したように、二人の顔が蒼白くなったのを見た瞬間だった。  何か悪いことが起きたとは限らない。が、第六感がそう確信した。
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