五十九 狂気 - la paranoïa -

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五十九 狂気 - la paranoïa -

 息遣いが聞こえる。空気を求めて喘ぐような、苦しそうな息遣いだ。聞いているうちに、だんだん自分も苦しくなってくる。心拍が上がり、脳までもが脈打つように熱くなり、身体中にざわざわと不快な感覚がまとわりついて、目を閉じているのも堪え難くなった。 「うぅ…」  誰かが呻いた。 (あ、違う…)  朦朧とした意識の奥で、イオネは微かに覚醒した。苦しそうな息遣いも、呻き声も、全て自分の口が発したものだった。  意識が次第にはっきりしてくると、今度は息苦しさが何倍にも増して襲いかかった。全身がうだるように熱い。冬の夜の肌を刺すような冷たい空気が漂っているにもかかわらず、ドレスの中にぐっしょりと汗をかいていた。まるで世界が回転するように、平衡感覚が乱れている。 (何が起きたの)  イオネは鈍った頭をどうにか働かせた。この経験したことのない感覚には、心当たりがある。アルヴィーゼの依頼で薬品の目録を翻訳していた時に、禁じられた薬物に関する記述を読んだ記憶がある。  軽度の意識障害、発汗、心拍の上昇、呼吸の乱れに―― (性衝動…)  ぞっとした。次第に脚の間が湿り気を帯びて、アルヴィーゼに触れられたときのように疼き、ひりひりと感覚が鋭くなっていく。 (‘ジヨロカ’を盛られたんだわ)  麻薬の一種だ。元々は異大陸から流れてきたもので、奴隷を従順にさせ、娼婦や性奴隷として縛り付けるために使われていた。その犯罪性の高さから、この大陸の殆どの国が流通を阻止すべく厳しく取り締まっている。が、十分ではない。  イオネはゆっくりとまぶたを開けた。頭が痛くなるほどの甘ったるいにおいが充満し、取り戻し始めた感覚を再び奪おうと頭の中に入り込んでくる。  視界に入ってきたのは、血を流したように赤い敷布だ。これが趣味の悪い色使いのベッドリネンだと気付くまでに、そう時間はかからなかった。手足が岩のように重くて動かせず、イオネは目だけを動かして辺りを見回した。  自分が横たわっている馬鹿馬鹿しいほど豪奢な寝台の向こうは、暗い色の壁に囲まれた狭い部屋だった。壁には、無数の絵画が飾られている。  奥に、誰かの影がある。椅子に座り、微動だにせず、こちらをじっと見つめているようだった。  イオネの心臓を、じっとりと恐怖が這った。  イオネが姿を消したと判明した直後、意識の無い女性を抱えて裏門から出て行った男がいると情報を得るや否や、バシルとソニアは恐慌状態に陥った。この時点ではまだイオネが犯罪に巻き込まれたとは断定できなかったが、ほぼ同時刻にコルネール家から届いた急報がその不穏な事実を確かなものにした。 「ジャシント・カスピオが逃げました」  全速力で馬を飛ばしてきたコルネール家の使者が、イオネ捜索の指揮を執ろうとしていたアルヴィーゼに告げた。  ジャシント・カスピオが人を買収して身代わりを用意し、追放先の島から脱出したというのだ。すぐに気付いた監視役が自ら船を操舵し、陸に上がってからは殆ど休まず馬を駆って報告に戻ったというから、既に逃亡から少なくとも一週間は経っていることになる。  カスピオ捜索の増員を願い出た使者の言葉を聞き終える前に、アルヴィーゼは走り出していた。  いやな予感が的中した。イオネが姿を消したのは、間違いなくカスピオの仕業だ。 (しくじった)  アルヴィーゼの全身を怒りと恐怖が巡った。  やはり命を取っておくべきだった。まさかあの卑怯なボンクラがこれほどの強硬手段に出るとは予想していなかった。  門前に停めた馬車から馬を外して跨がったとき、慌てて追いかけてきたドミニクが叫んだ。 「どこへ向かう気ですか!」 「ランゲ通り」  アルヴィーゼは吐き捨て、馬の腹を蹴って夜闇に馬蹄の音を響かせた。  かつてイオネに届いた不審な手紙は、ランゲ通りの邸宅から送られていた。ジャシント・カスピオの所有する不動産は全て没収されたが、どういうわけかこの邸宅だけはカスピオ家との繋がりを証明できなかったために、法的措置が取れず保留になっていた。  この屋敷がカスピオの悪事の拠点になっていることは、恐らく間違いない。  これが、もうひとつの誤算だった。所有者の権限など黙殺して、不審な手紙が発送されたという調査結果のみを根拠にその屋敷を潰しておけば良かった。コルネール公爵家の名分など、知ったことではない。――が、もはや事は起きた。 (無事でいろ)  神など信じないアルヴィーゼが、この時ばかりは神に祈るような気持ちだった。  こんなに焦燥に駆られ我を忘れたことは、生まれてこのかた一度もない。石畳を叩く馬蹄の音が心臓と共鳴し、襲歩で疾駆させてなお、ひどく遅々として時間が経つように感じる。  イオネは狂いそうなほどに熱くなった身体を厭わしく思いながら、自分の軽率な行動を後悔した。  教授たちへの挨拶回りを終えてバシルを学生同志の集まりに参加させた後、突然亡霊のように現れたジャシント・カスピオなどから杯を受け取らずにアルヴィーゼの元に戻るべきだったのだ。  以前よりもすっかり痩せ、いつもの軽薄な白い夜会服とは全く違う地味な装いだったから、怖気のするような笑みを向けられるまで誰だか分からなかった。  普段なら絶対に拒否するのに、この日に限ってカスピオに勧められたワインを受け取った理由は、一言文句を言ってやりたかったからだ。最低限の礼儀として一口だけ杯を交わした後は、自分の生徒を侮辱し、利用し、高潔であるべき学堂を身勝手な野心のために穢したことを責め、二度と自分と学生たちに近付くなと言ってその場を去るつもりだった。  しかし、ワインを一口飲んだ後、意識が混濁した。 (最悪…)  きっと今頃アルヴィーゼが街を一つ滅ぼすような勢いで探しているに違いない。ここに辿り着けるか定かではないが、あの男のことだから何か策を講じているはずだ。  寝台の向こうで、ジャシント・カスピオが口を開いた。 「やっと二人きりですね、アリアーヌ教授」  喉がひりついて、罵ってやりたいのに声が出せない。イオネは椅子に座る男の影を睨め付けた。 「ずっとあなたとこうなりたいと思っていました。あなたが叔父の学生だったときから、ずっと…。あなたがわたしを冷たくあしらう振りをしても、わたしだけはわかっていました。攫ってほしいと思っていることを。いつもあなたの想いを感じていました。わたしが降りた仕事を引き継いだのも、わたしよりも多くの功績を重ねているのも、全てわたしの気を引きたいからでしょう。勿論分かっています」  夢を見るような恍惚とした声だ。イオネの全身が不快感で粟立った。恐ろしかったのは、こんな男に自分の理屈が通用すると思い込んで今まで関わってきたという事実だ。ジャシント・カスピオはまともに話が通じるような人間ではない。 「アルヴィーゼ・コルネールとのことも、わたしだけはわかっていますよ。弱みを握られて、無理矢理彼の元にいるのでしょう。ですが、もう安心していいんですよ。秘密の手紙に書いた通り、こうして迎えに来ましたから。卑怯なコルネールはわたしを追放すれば全て終わると思っていたようですが、わたしはそんな圧力に屈するような男ではありません。あなたへの愛は、誰にも邪魔できない」 (手紙…追放…?どういうこと?)  イオネはジャシント・カスピオが立ち上がる音を聞いて、脚をにじり寄せ、後方へ退こうとした。が、酷く熱を持って重くなった身体は、小さく敷布を乱しただけだった。  いつもの真っ白な夜会服に身を包み、髪を小綺麗に整えたジャシント・カスピオが寝台に乗り上げてきた。痩せているせいか、その精神病質のせいか、目が異様に大きく光って見える。  イオネは震える腕に力を込めて上体を起こし、やっとのことで後方へ下がった。ヘッドボードの隅に背中を強くぶつけた拍子にサイドテーブルの燭台が倒れ、蝋燭が床に落ちた。イオネが転がっていく蝋燭を思わず目で追ったのは、蝋燭に火がついていないことを確認するためだった。そしてその奥に、見てしまった。壁いっぱいに飾られた絵画は全てが女神の裸婦画で、全てが同じように髪と目の色を上から塗り直されていた。胡桃色の髪と、紫色の目。――  イオネは叫び出しそうになるのを堪えて、奥歯を噛んだ。凍り付きそうな恐怖と身悶えするような薬の影響で、心臓が異常なほどに速く脈打っている。  足元まで迫ってきたカスピオは、人間の形をした怪物そのものだ。 (何て醜悪なの)  朦朧とした頭では理解が及ばないが、一つだけ確かなことがある。  今までアルヴィーゼによって徹底的に守られていたのだ。恐らくはブロスキの夜会で初めて会って以来、この男の存在を目に触れさせないようにしていたのだろう。  少し前なら、勝手なことをしたと腹を立てていたかもしれない。が、今は違う。アルヴィーゼを力一杯抱き締めたかった。 「ああ。怖がらないで、アリアーヌ。その薬は催淫効果もありますが、本当の薬効は心の奥にある本来の欲望を解放させるものです。わたしはどこかの卑劣な男と違って無理矢理あなたの身体を奪うようなことはしません。欲望に耐えられなくなったら、いくらでも抱いて差し上げましょう。それまでは、愛するあなたの身体が情熱に悶えるのを見守らせてください」 (気持ち悪い…)  イオネはじくじくと疼く脚の間の感覚も、身体中を這い回る熱も、不快にしか感じられなかった。しかし、肌に触れられたら無様にも声を上げてしまいそうな気がする。 (そんなの、絶対にいや)  イオネは腕を振り上げた。 「何を…!」  驚いたカスピオが止める間もなく、イオネは倒れた燭台を掴み、躊躇なくドレスの上から自分の腿に向かって突き刺した。  燭台の針が皮膚を破り、生温かい血が滲み出す。びりびりと走る痛覚が薬に侵された意識を僅かに明瞭にした。 「あなたみたいな陋劣(ろうれつ)な人間が――」  イオネは声を絞り出した。 「わたしを愛しているですって?冗談じゃないわ。こんな下劣な手を使わなければ女一人誘い出すこともできない下衆が、わたしを愛する資格なんてない。わたしがそれを許すのは、アルヴィーゼだけよ!」  イオネにはわかっていた。カスピオがイオネに向ける感情は愛などではない。初めは凡庸な自分よりも優秀な女学生であるイオネに対する嫉妬だっただろう。そしてイオネが異例の若さで教授となり頭角を現すにつれ、膨らんだ嫉妬が歪んだ妄想を生んだのだ。イオネが自分の気を引きたくて力を見せつけているのだと妄想することで、矮小な自尊心を保ち、同時にイオネへの執念を募らせていったに違いなかった。  そんな男に、アルヴィーゼを侮辱されたことが何よりも腹立たしかった。 「その汚い口で二度とあの人の名を呼ばないで。吐き気がするわ」  この異常事態のせいで、正常な判断ができていなかったせいかもしれない。イオネは狂人に石を投げる行為がどんな結果をもたらすか、考えが及んでいなかった。  カスピオは目をギラリと光らせ、イオネに飛びかかった。イオネは掴んだままの燭台を思い切り投げつけたが、カスピオの肩の上を飛び越えて壁に当たり、重々しく額装された絵画を床に落とした。 「違う!違う――あなたは、わかっていない」  カスピオが腕を掴み、のしかかってくる。血走った目が眼前に迫り、煙草と何か甘ったるい煙を含んだような息遣いが肌に触れた。 「触らないで!」 「本当はわたしを求めているでしょう。身体が熱く疼いているはずだ」  カスピオがドレスの裾をめくり上げようとしたとき、イオネは渾身の力で脚を蹴り上げ、カスピオの鳩尾を強打した。  腿から流れる血の温もりが、イオネの正気を保たせた。まるで熱病に罹ったように重い身体を動かしてベッドから這うように落ち、扉を目指してよろよろと立ち上がった。まるで床が回転しているようだ。 「アルヴィーゼ!アルヴィーゼ…!」  叫んでも届くはずがないと分かっていた。が、叫ばずにはいられなかった。  絶望は背後から襲ってきた。イオネの身体がいとも簡単に床に倒され、背中を膝で圧迫されて、呼吸が一気に苦しくなった。 「そんなに他の男がいいというなら、死をもってわたしのものにしましょう。肉体はそのあと手に入れればいい。いつまでもここに飾っておけば、ずっと一緒にいられます。そうでしょう、アリアーヌ教授」  イオネが藻掻けば藻掻くほど、膝が背に食い込み、肺が押し潰される。ドレスの背を破かれる音がした時には、イオネの意識は朦朧としていた。 (こんなことなら、素直に言っておけばよかった)  もう二度と会えないかもしれない。最後に交わした会話が「邪魔するな」だなんて、最悪だ。 (意地なんて捨てて、愛してるって伝えておくべきだったんだわ)  そしてアルヴィーゼの口からも、愛の言葉を聞いておきたかった。たったそれだけのことだったのだ。  視界が涙で歪む。  背後でカスピオが突然「淫売」と激昂した。アルヴィーゼが付けた痕を見たのだろう。首に何かが巻きつけられるのを感じた瞬間、大きな衝撃音と同時にふと身体が軽くなった。 「イオネ!」  その声が、再び全身に血を巡らせた。
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