71 公爵夫人の器 - pour être la duchesse -

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71 公爵夫人の器 - pour être la duchesse -

 ルドヴァンでの初めての晩餐は、これ以上ないくらいに最悪の雰囲気だった。デルフィーヌの宣言がアルヴィーゼの機嫌をひどく損ねたせいだ。  しかしイオネには、世にも珍しいアルヴィーゼの遠慮が見えた。  デルフィーヌの地位はトーレのかつての領主の未亡人に過ぎず、クレテ家における権力などとうに無い。出自も古くから続くエマンシュナの豪商の娘と言うだけで、数代前に金で買った子爵位を当主が受け継いでいるだけのものだ。アルヴィーゼがその気になれば、デルフィーヌを排除することなど造作も無い。  その本来弁えるべき身の程を越えたデルフィーヌの態度に対して、アルヴィーゼは権力を振りかざすこともなければ、公爵の権限でもって彼女を追い出すこともない。  理由は明白だ。他ならぬイオネの母親に、この男なりの敬意を払っているのである。  イオネ自身も突然やって来た母の物言いに対して思うことはある。が、それはアルヴィーゼの感情とは違う。 (母さまはわたしの才覚を信頼していないのだわ)  イオネが感じているのは、そういう不満だ。  しかし、母親が確固たる規範であるクレテの女家族で少女時代を過ごしたイオネには、ただ反発しただけでは母親の心が変わらないことはわかっている。  会話の少ない食事の間、イオネは無言でアルヴィーゼと視線を交わしては、母にどう対応すべきか考えあぐねていた。 「いいですか、あなたたち」  デルフィーヌが口を開いた。  デザートのイチゴのタルトを食べ終わった後のことだ。 「誤解のないように言っておきますが、結婚には大賛成です。これ以上ない良縁だわ。学問ばかりで結婚に石ころほどの興味も抱かなかった一番上の娘を天下のルドヴァン公爵に嫁がせることができるのですもの。わたくしとしては願ったりです」 「矛盾しているわ。母さまはわたしが公爵夫人になるのを認めないって言ったじゃない」  イオネは母が結婚を喜んでいたことに内心で安堵を覚えながら、一方で不満を大きくもした。一方的な言い分だ。 「ええ、そうよ。まだその時期ではないということです」 「悪いが、お母上。イオネとの婚姻はもう成立している。エマンシュナにおける手続きの時期についても、あなたの意向に従うつもりはない」  アルヴィーゼにしてみれば、デルフィーヌが婚姻に同意しようが反対しようが、全く問題ではない。イオネが自分と同じ望みを持っていることこそ、唯一の重大事項だ。 「公爵閣下ならそうおっしゃると思っていました。…イオネ」  デルフィーヌは厳しい顔を娘に向けた。これが、クレテ家における為政者の顔だ。 「お前は確かに聡明な子です。ですが公爵夫人の器としては、話は別。お前、この強大な公爵家の女主人たる者が何に気を配り、どう立ち回るべきか、僅かな知識でもあるのですか?お前が先導すべき貴婦人たちのサロンは、学者の集まりとはわけが違うのですよ」 「う…」  そう言われると、母がトーレの女主人だった頃でさえ彼女が何をしていたのか、全く気に掛けたこともなければ興味を持ったこともなかった。どちらかと言えば、苦手分野だ。 「わたくしはお前の結婚を早々に諦めて高位貴族の妻になるための教育を怠りました。例えイシドールの願いを叶えたいという気持ちがあったにせよ、運命の悪戯が起こり得ることを考慮していなかったわたくしの手落ちです。まさか本当にお前が公爵と結婚するなんて…」 「そんなに驚くこと?」  この一年足らずの間にアルヴィーゼとの結婚を決めてしまったことには自分でも驚いているが、ここまで言われると、なんだか複雑だ。 「お前は、正式にクレテ家からコルネール家へ嫁ぐのです。持参金もすっかり使い果たして公爵夫人としての心得も家政の知識も備えていない娘を公爵家へ送り出しては、クレテ家の面目が潰れます」  ぐうの音も出ない。しかも、研究のために持参金を使い果たしていたことまで知られている。悪戯を見つかった七歳の子供のような気分だ。 「いかに才覚が優れていようとも、それだけではすべての者を納得させるには不十分なのよ。お前たちにとっては情熱的な恋愛の延長線上にあったとしても、家にとってこれは政治です。まさかルドヴァン公爵ほどのお方がこのことを理解していないはずがございませんわね」 「無論だ、お母上。だが妻の公爵夫人としての教育はこちらで行う。あなたの手を煩わせることはない。我が家のことを気にかけていただかなくて結構だ」 「いいえ、公爵閣下」  デルフィーヌは不機嫌極まりないアルヴィーゼの顔を権高に見返した。あくまで主導権は渡さないつもりらしい。 「先代の公爵夫人は既に亡く、ルドヴァン公爵家には残念ながら女主人としての心得を持つ方はいらっしゃいません。女主人の役割は、紳士諸君が考えるよりもずっと重いのです。その身ひとつで嫁に行こうなんて、甘いわよ」  母の鋭い視線が矢のように飛んできて、イオネはまたしてもギクリとした。  また母親の特殊能力『魔法の水晶』だ。持参金のことはおろか、閨での睦言まで見透かされているようで、ひどく恥ずかしくなった。  しかし、それよりも恥ずべきことは、自分ほどの才覚があれば公爵夫人としての勤めもなんとかなるだろうという、漠然とした慢心を持っていたことだ。  この居城の規模にしても、ルドヴァンという地域の大きさにしても、その統治がどれほどの重責を伴うかということも、この地に足を踏み入れるまで想像もできていなかった。  街の様子を見ても分かる。ルドヴァンは、恐らくはトーレを大きく上回る大経済都市だ。この富が、遠く離れた王都にも大きな影響を与えている。  当然、ルドヴァン公爵夫人は、領地だけでなく、この強大な王国を支えるひとつの歯車にならなければならない。それも、小さな部品などではない。  デルフィーヌは、そういうことを言っているのだ。 「イオネには、クレテ家が責任を持って教育を授けます。三か月もあればじゅうぶんでしょう。既にガストン卿の賛同も得ました。しかるのちに、イオネを公爵夫人となさいませ」 「つまり、我が公爵家にはイオネへ教育を施すに値するものがいないと言いたいのか。イオネがこれから裁量すべきはクレテでなくコルネールの家だ」  アルヴィーゼが勝手な取り決めを許した父を冷ややかに睨め付け、デルフィーヌに対しても静かに怒気を発した。相当に神経を逆撫でしたらしい。  同席していたユーグは味も感じられない様子で食後酒の発泡酒を飲み込み、その隣ではガストンが興味深げに二人の応酬を眺めている。 「駄々をこねないの、公爵閣下」  デルフィーヌがピシャリと言った。  ユーグだけでなく、その場にいた使用人たち全員がピリリと緊張した瞬間だ。天下のルドヴァン公爵を子供のようにあしらうなど、未亡人デルフィーヌ・クレテは並の婦人ではない。 「両家の政治問題だと申し上げたはずです。コルネール家の規範はどうぞ嫁いだ後に仕込んでやってくださいな。ですが、クレテ家での常識的かつ基礎的な女主人としての教育は、わたくしがこの子に授けます。わたくしがイオネの母として結婚を許す条件は、この一点だけよ」  デルフィーヌは、これ以上交渉の余地はないと言うようにキッパリと言い切ってアルヴィーゼの顔を一瞥し、次にイオネの顔を威厳たっぷりに見た。 「教授としての務めに差し支えないよう、トーレへ戻る準備をしておきなさい。いいですね、イオネ」  それだけ言って、デルフィーヌは席を立った。  この夜、イオネはアルヴィーゼの苛立ちを全身で受け止めた後、汗の浮いたアルヴィーゼの背に腕を伸ばし、キュッとその身体を抱きしめた。  アルヴィーゼが憂鬱そうに髪を梳いて、顔を覗き込んでくる。 「…母さまは正しいわ」 「俺から離れる気か。新婚だぞ」 「それでも――」  アルヴィーゼはイオネの言葉を遮るように、唇を塞いだ。 「ん、ちょっと…」  イオネが口を開いたそばからアルヴィーゼの舌が邪魔してくる。腹に当たるアルヴィーゼの一部が、早くも再び硬くなり始めた。 「待って…」 「母親と結託して俺の忍耐を試すつもりか。こんなに――」  アルヴィーゼはイオネの内腿を掴んで開き、もう一度中へ入った。 「ん…!」 「お前を求めているのに。お前は耐えられるのか?」 「あっ…」  イオネの頭の中がアルヴィーゼの熱で再び満ち始める。イオネはふるふると首を振って快楽に抗い、アルヴィーゼの顔を引き寄せ、唇を重ねた。  こうすればアルヴィーゼが隙を作ることを、イオネはもう知っている。 「愛してる」  アルヴィーゼが動きを止めた。不意打ちに成功したらしい。 「だからこそ、徹底的にやりたいの。わたしたちの関係がどんなものでも、あなたがルドヴァン公爵である以上、わたしたちには政治がついて回るわ」  そしてそれは、イオネの不得意分野だ。政治に必要な社交もおざなりにしてきたし、できる限り関わらないように生きてきた。  自分の世界の中心は学問であり、ユルクス大学が唯一の砦だった。  しかし、イオネの世界の中心は、いまやアルヴィーゼが取って代わってしまった。その世界に常に政治が介在するのであれば、避けるのではなく自分たちの一部として共存すべきなのだ。 「わたしは、自分の立場は自分で守るわ。すべきことに背を向けることは絶対にしない。あなたと生きるために、必要なことよ。誰にも邪魔させない。あなたでも」 「くそ真面目」  アルヴィーゼが苦々しげに眉を寄せ、イオネの奥に自身を埋めて、小さく唸った。  イオネは喉の奥で快楽に喘ぎ、アルヴィーゼの熱が身体の中に溶けていくのを恍惚と受け入れた。 「…三か月もいらないだろう」 「そうね。わたしなら二か月で十分じゃないかしら」 「ひと月で戻れ」  アルヴィーゼの唇がイオネの首を啄み、上下の唇に交互に吸い付いた。「離したくない」と、全身で訴えてくる不遜な男が、堪らなく愛おしくなった。 「母さまと話してみるわ」 「お母上の対処はお前に任せる」 「ああ。あなた――」  イオネがアルヴィーゼの腹の下で、ひくひくと身体を震わせた。忍び笑いをしている。 「母さまにはいつもみたいな強気にならないのね。ちょっとおかしかったわ」  アルヴィーゼは眉を寄せた。 「お前の母親だからだ」 「わかってる」  イオネは面白くなさそうに唇を結んだアルヴィーゼの頬を両手で挟み、唇に蝶が止まるような口付けをした。 「あなたのお母さまも厳しい人だった?」 「父親があれだからな。生きていれば良い模範になっただろう」 「会ってみたかったわ」  イオネはアルヴィーゼの額に落ちた黒髪に指先で触れた。母親を亡くした十一歳の少年の顔が、その目の奥に見えた気がした。  案外、お母さん子だったかもしれない。そうでなければ、イオネの母親にあれほど気弱にならないだろう。 「余裕だな」  アルヴィーゼは低く誘惑するような声色でイオネの耳をくすぐると、二人の繋がった場所を指でなぞり、イオネの陰核を親指の腹で撫でた。 「あっ…!」  イオネは甘い声で叫び、腰を反らせた。 「俺のことだけ考えていろ」  身体の奥でアルヴィーゼが再び律動を始めた。  そのあとは、アルヴィーゼの熱に翻弄され、いつの間にか眠りに落ちた。  アルヴィーゼは朝までイオネの肌を離さなかった。
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