74 ルドヴァン城の小さな攻防 - Liberté, Amour, le petit événement -

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74 ルドヴァン城の小さな攻防 - Liberté, Amour, le petit événement -

 初秋の朝、アルヴィーゼは幸せな気分で目覚めた。  隣で静かに寝息を立てる美しい妻の胡桃色の髪を指で梳き、顔に掛かった髪を後ろへ退けてやると、隠れていた頬のほくろが現れた。アルヴィーゼはそこに羽が触れるような口付けをし、イオネを腕の中にしっかりと包んだ。  馬車の中で眠りこけるイオネを見た時には二か月分の愛おしさが溢れるのを感じたが、今はもっと大きな喜びが胸を占めている。  昨晩はイオネを抱かなかった。無論、身体に燻る欲望は暴れ出しそうだったが、それでも辛抱した。肉体的な欲望が解放されていないにもかかわらずこれほど心が満ち足りているのは、思わぬ世界の小さな変化が二人のあいだに舞い降りたからだ。  アルヴィーゼは全く起きる気配のないイオネの身体を抱き寄せ、片手で下腹を温めるように撫でてみた。二か月前と変わらず、肉置きの薄い腹だ。  ふと、どれくらいでここが膨れ始め、動き始めるのだろうかと考えた。  不思議なものだ。イオネが避妊薬を飲まなかったのは、最後にユルクスで熱を交わした夜だった。あの全身を灼くような熱情の中に、これほど穏やかな愛をもたらすものが秘められていたとは。  この中に収まっているちっぽけな存在も引っくるめて、今はとにかくイオネの全てが愛おしい。  アルヴィーゼは薄い目蓋にちょんちょんと啄むような口付けをして、額にも唇で触れた。 「んん…まだ寝る…」  イオネがくすぐったそうに身をよじって長い睫毛を震わせ、むにゃむにゃ言いながら胸に顔を押し付けてくる。 「もうすぐ朝食会だぞ」 「うぅーん、でもまだ眠いの…お願い」 「イオネ」  アルヴィーゼがふわふわの柔らかい髪を指で弄びながら甘い声で名前を呼ぶと、イオネが心地よさそうに唸った。 「…すぐに起きないと、お前の服を剥ぎ取って今すぐ抱くことになるぞ。手荒になる上、一度では終わらない」  冗談や脅しなどではない。その証拠に、イオネの下腹にアルヴィーゼの硬く立ち上がった身体の一部が当たっている。  イオネはバチッとスミレ色の瞳を大きく見開いた。 「あっ、朝から…!」  顔がみるみる赤くなっていく。 「関係あるか?」  アルヴィーゼはイオネの唇をがぶりと塞いだ。舌を挿し入れながらイオネの身体に覆い被さり、絹の寝衣の上から豊かな胸に手を這わせた。 「ん…」  イオネが甘い吐息を漏らして身をよじった時、アルヴィーゼはハタと手を止めた。昨夜は喜びのあまり、肝心なことを確認し忘れていた。 「…医師には診せたのか」 「まだよ」 「なぜ子ができたとわかった」 「月経が遅れていて、いつもより体温が高い日が続いているから、もしかしてと思って医学書で調べたの。体質の変化も特徴に一致するし、間違いないと思うわ」  アルヴィーゼは眉の下を暗くした。子ができるという重大事を、軽率に捉えていた事に気付いたのだ。 「気付いたのが出発の前日だったから、お医者さまに診てもらう暇が無かったのよ」 「熱があるのか。体調が悪いということじゃないのか」 「病気の熱とは違うわ。今はやたらと眠いだけ。吐き気はそれほどないから安心して」 「少しはあるんだな。食べられないものは?」  イオネはとうとう笑い出した。 「今のところはお酒ぐらいかしら。増えたら教えるわ。あなた、ちょっと心配しすぎよ」  アルヴィーゼは眉を寄せた。  イオネは医学的な知識を持っているはずだが、それでも一般的な知識に毛が生えた程度に過ぎない。一方、アルヴィーゼは医術の発達したルドヴァンの領主だ。妊娠した女の身体がどれほど脆くなるか、イオネよりも理解している。 「身体の中に子がいるんだ。心配しすぎると言うことはない」  知っていれば長旅などさせたくはなかった。せめてもっと日数を掛けてゆっくり移動させることも、いっそのこと子供が生まれるまでアルヴィーゼがトーレに滞在することもできたのだ。 「他に知っている者は」 「いいえ」  イオネは首を振った。口元に穏やかな笑みを浮かべている。 「あなたにいちばんに知らせたいと思ったから」  アルヴィーゼは溜め息をつき、もう一度イオネに口付けをした。渋面のまま、ひどく優しい仕草でイオネの頬を撫で、その細い腰を抱いた。  まったく腹立たしい。どれほどの精神力でこの魅惑的な身体の奥を暴き、隅々まで自分で満たしてしまいたい欲望と闘っているのか、この女は理解していない。  しかし、そんなことさえも愛おしく思えるほどに愛してしまった。 「…侍医を呼ぶ。朝食会は遅らせよう」 「診察なんか後でいいわ。みんなを待たせては悪いもの」 「だめだ」  アルヴィーゼはにべもない。 (出た)  イオネは心の中で舌を出した。よくない兆候だ。  このままではアルヴィーゼの度を超した管理が始まるに違いない。いくら自分が大丈夫だと主張したところで、コルネール家の跡継ぎが胎の中にいるとなれば、骨の髄まで主人に忠実なコルネール家の家臣たちはアルヴィーゼの判断に従うだろうし、これに関してはソニアもあちら(・・・)側につく可能性が高い。  あと半年以上も自由を奪われるなど、冗談ではない。 (わたしの味方になってくれるお医者さまが必要だわ) 「ねえ、アルヴィーゼ」  イオネは甘い声で夫の名を呼んだ。 「なんだ」  アルヴィーゼの声も同じくらい甘い。 「今日は侍医の診察を受けるけど、診て欲しい先生が他にいるの。お産も彼女にまかせたいわ」  イオネはこの男の御し方を心得てきている。自分勝手で傍若無人な男だが、イオネがしどけない態度で甘えると、自分の方針を曲げてもその要求を最終的に呑んでしまう。 「エゼキエリ医師か」 「ええ。ルドヴァンまで来てくれるかしら」  コルネール家の侍医の手腕は確かだが、アルヴィーゼにとってもエゼキエリ医師にイオネの診察を任せた方がいい理由がある。イオネが信頼を置く優秀な医師であり、女性であるということだ。 「すぐに手配する」  アルヴィーゼはイオネの額に羽が触れるような口付けをして立ち上がり、織物のガウンを羽織って寝室のドアを開けた。寝室の側に控えていたドミニクにいくつか指示を出した後、イオネが寝台に腰掛けて淡い藤色のガウンに袖を通す様をじっくりと眺めた。  寝衣の裾がめくれて、愛らしい足の指から扇情的な膝まで露わになっている。 (美しい)  白い肌もスミレ色の瞳も、いつも以上に輝いて見える。身体の中で愛情と欲望がふつふつと沸き上がり、あの白い脛を下から上へと撫でながら細い首筋に噛みつきたい衝動が起きた。  が、少なくとも医師の診察を受けてしばらく様子を見、問題ないという確信を持つまでは触れられない。なにしろ二人分の命に関わる事案だ。  じっと見つめていると、イオネがアルヴィーゼに向かって小首を傾げた。先程見せた穏やかな笑みは既にないが、ふっくらとした唇が幸せそうに淡く色づいている。 (……いや、触れるくらいなら大丈夫だろうか)  と、爪先が再び寝台に向いた時、扉の外から聞こえたソニアの声がアルヴィーゼに自制心を取り戻させた。  今の優先事項は、欲望を満たすよりも忠実な侍女の協力を得ることだ。  アルヴィーゼは渋々イオネの裾を直してガウンの紐を引き、前でしっかりと結んだ。  翌週のルドヴァン城は朝から大変な騒ぎだった。  これから三日間続く婚礼の祝祭は、第一夜の親族だけの小規模な晩餐会から始まり、二日目に大勢の貴賓を招いて行われる婚礼前夜の舞踏会、最終日には領民へ向けてパレードをしながら神殿へ向かい、厳粛な儀式を終えて城へ戻った後には大晩餐会が行われるという、主催にとっては息つく暇もない強行軍なのだ。  アルヴィーゼは当初、イオネの身体を心配するあまりこれらの行事を一日に短縮しようとしていたが、その計画を知ったイオネの猛反発にあった。 「勝手に決めないで。わたしには公爵夫人としての面目があるのよ」  二か月の修行の末、誇り高きルドヴァン公爵夫人として公の場に立つ準備をしてきたイオネにしてみれば、この主張は正当なものだ。  ところが、イオネの意見よりも彼女の身体を最重要事項としているアルヴィーゼも譲ろうとしない。 「面目など、どうでもいい」  この一言をきっかけに、家族の集まる食事の席で互いに皮肉たっぷりの口論が始まった。  見かねて諫めたのは、ガストンだった。 「アルヴィーゼ、ルドヴァン公爵として判断しなさい」  ガストンは享楽的で軽薄な男ではあるが、ルドヴァン公爵として二十年ものあいだ領地の運営だけでなく国政にも関わってきた人物だ。ガストンの春の野のような表情の裏には、私情でルドヴァンの名を貶めることは許さないという強い警告が隠されている。  アルヴィーゼは忌々しげに舌を打って引き下がった。  そんなことは言われなくても理解している。イオネがどれほどコルネール家で高い地位にいるかを婚礼で示さなければ、エマンシュナ王国の社交界で彼女は軽んじられ、よからぬ企みに巻き込もうとする不愉快な輩が近付いてくるだろう。イオネ自身を守るためにも、伝統に則ってコルネール家の盛大な婚礼を遂行することは当然のことなのだ。  とは言え、不本意であることに変わりはない。  自分の思い通りにならないことよりも、イオネが自分の身体と子供の安全を軽く考えていることが、アルヴィーゼの気分をひどく害した。  イオネに対する苛立ちは常に、その肉体を蹂躙し、与えられる快楽に陥落する様を目にし、その甘美な肉体の奥を自分で満たすことでしか解消することはできない。が、今はイオネに触れられない。  こんなことで懊悩するなど、初めてのことだった。その事実さえ、苛立ちの種になった。  こうして二人の間に険悪な空気が漂うまま、婚礼の第一夜を迎えている。  クレテ家からは当主のエリオスと妻ラヴィニア、母親のデルフィーヌと三人の妹たちとその夫や子供たちが続々と集まり、ロヴィタ領主嫡男でイオネの末弟でもあるキリル・アルバロが若い近習一人のみを伴い、騎馬で現れた。  イオネは家族との再会を喜び、特に一年前よりもぐんと背が伸びたキリルの姿に涙ぐんだ。身体の中の小さな存在のせいで、感情が昂りやすくなっている。  イオネは背後からしっかりと肩を掴んでくるアルヴィーゼをちらりと見上げ、ここ数日の険悪さを悟らせないように慣れない作り笑いをして見せた。 「夫を紹介するわ、キリル」 「アルヴィーゼ・コルネールだ。キリル・アルバロ公子」  アルヴィーゼはいつもの完璧な公爵の笑みを浮かべて義弟に手を差し出した。  キリルも笑顔でその手を取り、しっかりと握手をした。キリルはイオネと似た面立ちの美少年で、姉よりも柔らかい表情がその姿をいっそう貴公子らしく見せている。 「お目にかかれて光栄です、ルドヴァン公爵閣下。どうぞ、僕のことは気軽にキリルと呼んでください」 「よろしく、キリル」  アルヴィーゼはこの時、キリルがその容貌以上にイオネに似ているということを、身をもって知った。  キリルはイオネよりも僅かに青みの強い紫色の瞳に挑戦的な笑みを映し、口元からは笑みを消して、他の誰にも聞こえない程度の低い声でこう囁いた。 「僕はあなたを兄とは呼びませんけどね」 (こいつ――)  アルヴィーゼは思わず唇の片端を吊り上げた。あの敵意に満ちた目は、初対面でイオネが見せたものとそっくり同じだ。  第一夜の晩餐会は、両家の親族だけが集まる比較的小規模なものと言えど、その人数は百名にものぼり、ルドヴァン城の大広間が煌びやかな人々で埋め尽くされた。  若い夫婦は中央で挨拶の口上を述べ、あとは招待客ひとりひとりに直接挨拶をするためにあちこちへと移動した。  ソニアの計らいで、この日のドレスは腰回りから背中へ向けてリボンを編み上げる形のものになった。ドレスのスカートも軽やかなレース刺繍のもので、身動きに負担が少ない作りだ。  更には、イオネが間違って酒を手に取らないよう、口にするグラスや料理はすべてソニアが直接給仕するという念の入りようだった。  そして、当然のようにアルヴィーゼはイオネのそばをべったりと貼り付いて離れない。一歩でも歩いたら転ぶとでも思われているようだった。 (やり過ぎだわ)  イオネがうんざりした顔で訴えても、アルヴィーゼは忌々しいほどに涼やかな顔で黙殺した。  アルヴィーゼはこの日イオネに自由を与えることなく、晩餐のデザートを食べ終えるなりイオネの手を引いてさっさと寝室へ下がってしまった。 「いい加減にして」  とうとうイオネは不満を噴出させた。 「過保護が過ぎるわ。主催なのだから最後の一人が席を立つまでわたしたちが残っているべきでしょう」 「たかだか親族の集まりに無理して長居する必要はない」 「わたしにはあるわ。公爵夫人なのよ」 「お前は公爵夫人になるために俺の妻になったのか」  これには腹が立った。そんなはずはないと最も理解しているのは、アルヴィーゼではないか。 「あなたの妻になるために公爵夫人になることを受け入れたのよ!わたしは、自分の立場は自分で守るわ!」 「今俺たちが最も守るべきものは立場ではなくお前の身体と子供だろう」 「自分の体調は自分で管理できているわ。侍医の先生も概ね普段通りの生活をして問題ないと言っていたじゃない」 「これが普段通りか?普段ならお前はもうとっくに風呂に入って寝ている時間だ」  いくら身体に問題はないと言っても取り合ってもらえそうにない。アルヴィーゼが自分のことを心配していることは重々承知しているが、この窮屈さに加えてアルヴィーゼの独善的な態度がどうにもイオネから冷静さを奪った。 「それならあなたも普段通りにしたらどう?」  イオネは背中に手を伸ばしてドレスの紐を引き、はらはらとドレスを剥いだ。  白い薄絹のシュミーズの奥に淡い肌の色が透け、結い上げていた胡桃色の髪がはらりと頼りない肩に落ちて、胸元を隠した。  イオネにはわかる。  アルヴィーゼのエメラルドグリーンの瞳が暗く翳り、燻るような欲望がその奥に躍って、今にも手が伸びてきそうだ。荒々しい行為の前の、獲物との間合いを詰める、獣の目。――  胸の奥にどこか背徳的な行動に愉悦を感じる自分がいる。  イオネはアルヴィーゼの首に腕を巻き付け、自分の方へ引き寄せて、唇の端に蝶がとまったような口付けをした。アルヴィーゼが奥歯を噛み、こめかみに血管が浮いた。 「挑発するな」 「あなたこそ」  イオネの手がアルヴィーゼの脚の間に触れた瞬間、アルヴィーゼは怒りの唸り声を上げてイオネの後頭部を掴み、顎を上げさせ、獣のように口を覆った。  舌が絡み合い、昂った神経は火がついた導火線のように灼けた。甘い声がイオネの喉から上がり、息遣いが激しくなる。イオネの手が無様なほどに熱くなった脚の間から鳩尾を通って背中に回ると、アルヴィーゼは荒れ狂う海の中から酸素を求めて顔を上げるように、イオネから離れた。 「…ッ、くそ!」  アルヴィーゼのこんな行動は、初めて見る。まるで手負いの獣だ。アルヴィーゼはもうこれ以上その姿を見ていられないというようにイオネに背を向け、遠ざかった。 「もう寝ろ。身体を冷やすな」  扉が乾いた音を立てて閉まった後、イオネは自分の鼓動がやけに大きく聞こえた。 「なによ…」  熱くなった身体を撫でる夜気の冷たさを、イオネは初めて知った気がした。
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