75 愛すべき雪の予兆 - la veille des noces -

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75 愛すべき雪の予兆 - la veille des noces -

 イオネはつんと唇を結んだまま、アルヴィーゼと目を合わせずに大広間へ歩みを進めていた。  レース装飾と花々の刺繍がとびきり美しいルドヴァン風のドレスで着飾っているのに、気持ちはちっとも華やいでいない。ルドヴァンへ来てからアルヴィーゼと別の寝室で夜を過ごしたのも初めてのことだ。  舞踏会には、昨晩の晩餐会に参加した親族に加え、王族や国中の貴族や有力者が集まる。  イオネは朝から目も合わせないくせに身体だけはピッタリと寄せてくるアルヴィーゼに苛立ちを感じながら、顔の筋肉が痛くなるほど口角を上げ続けた。  普段は静かで荘厳なルドヴァン城が、今夜は目が痛くなるほど輝き、大広間は煌びやかに着飾った高貴な人々で溢れている。 「最初のダンスだ、公爵夫人」  アルヴィーゼが誰もがうっとりと見蕩れるほどに優雅な所作で手を差し出した。秀麗な貌に艶美な微笑を描き、精悍な肉体をルドヴァンの丈の長い伝統衣装で包んだ姿は、正に完璧な公爵の佇まいだ。  イオネはその手を取りながら、心の奥にひどく落胆した自分を見つけた。  これは、アルヴィーゼが見せるルドヴァン公爵の姿だ。イオネがよく知る傍若無人で傲岸なアルヴィーゼは、今ここにはいない。  ふたりのファーストダンスをうっとりと眺める招待客は、無論そんな事情など知らない。二曲続けてアルヴィーゼと踊ったイオネは他の紳士からの誘いを丁重に断り、微笑の奥に怒りを秘めたアルヴィーゼと挨拶回りに終始した。  母はガストンをダンスのパートナーに選んだらしく、思いのほか楽しそうにしていた。妹たちはそれぞれの夫と踊り、時々パートナーを入れ替えては面白そうに笑っている。  大広間の隅では、キリルが何やらマルクと白熱した様子で話し込んでいるのが見えた。アルヴィーゼと挨拶を交わした時よりも寛いでいるようだ。  イオネの足が重くなり始めた頃、アルヴィーゼは無言で庭園へイオネを連れ出し、噴水のそばの長椅子に腰掛けさせた。  何でも見透かされているようで、ちょっと癪だ。 (怒っているなら、放っておけばいいじゃない)  イオネも必要以上に言葉を発さず、髪の中に夜風を遊ばせている。 「…肩掛けを持たせる」  アルヴィーゼがそう言って扉の前で控えるドミニクの方へ寄って行くと、イオネの背後からヌッと大きな影が躍り上がった。 「やあイオネ!」  イオネは跳び上がって声も上げられないほど驚いたが、その陽気な声の主が誰であるかは、すぐにわかった。 「マルク!ああ、驚いた」  今宵はナヴァレの軍服ではなく、群青の夜会服に身を包んでいる。 「弟くん、可愛いやつだな。俺が兄貴になってくれたらよかったなんて言われちゃったよ」  イオネは思わず表情を崩した。先ほどまでの鬱々とした気持ちが軽くなったのは、間違いなくマルクの才能のおかげだ。 「小さい頃からナヴァレに憧れているの。あなたと仲良くなりたいんだわ」 「もうなったさ」  ニカッとマルクが白い歯を見せた。この男の言葉は軽薄そうに聞こえて、案外本心なのだろうという気にさせる。 「ところで、イオネ。俺に親友のとびきり美しい新妻と踊る栄誉をくれるかい?」  マルクがパチリとお茶目に片目を瞑って見せたので、イオネは笑い出した。疲れてはいるが、気分の落ち込んでいる夜にマルクの誘いを断るのは勿体無い。 「いいわ」  イオネがマルクの手を取ると、マルクはニカーと嬉しそうに笑って大声をあげた。 「おぉい、親友!俺がイオネの二番目の男に決まったぞ」 「は?おい!」  珍しく取り乱したアルヴィーゼの様子がおかしくて、イオネは声を上げて笑った。完璧な公爵の仮面を壊すとしたら、この手が有効だ。  マルクは大柄で声が大きい割に、ダンスの時には繊細な足運びをする。女好きだけあって女性への気遣いが行き届いているのだろう。 「君に言いたいことがあったんだ」 「なぁに?」  イオネはマルクと手を合わせてくるりと回り、マルクの顔を見上げた。 「アルヴィーゼと出会ってくれてありがとうって、礼が言いたかったんだよ。あいつがありのままの自分を見せたいと思ったのは、君が初めてだからさ」 「そうかしら」  イオネはついさっき見たアルヴィーゼの完璧な公爵の顔を思い出した。 「時々、ただわたしを支配したがっているだけのように感じるわ。婚礼を予定通りにするのもすごく嫌がっていたの。最近疲れやすいだけで体調は問題ないって何度言っても信じてもらえないし、ずっと監視されているみたいで…夫婦ってこんなに窮屈な思いをするものかしら」 「うーん、そうだな…」  マルクは軽やかな足運びでイオネを導きながら、ちょっと眉尻を下げて見せた。 「何かふとしたきっかけで子供の頃に怖かったものを突然思い出すことってあるだろ?屋敷に飾ってあるガイコツみたいなご先祖の肖像画とか、夢に出てくる怪物みたいに。あいつの場合は、喪失なんだ。母君は特別病弱ってことはなかったんだけど、ちょっとした風邪をひいたのがきっかけであっという間に亡くなったんだよ」  きっとただの風邪ではなかっただろう。最初のうちは完璧な公爵夫人として振る舞うために、不調を完璧に隠していたのではないだろうか。自分が同じ状況に置かれた時どう行動するかを思えば、想像に難くない。  イオネが体調について告げた時、アルヴィーゼはきっと母親のことを思い出したのだ。突然愛する家族を失う悲しみは、イオネも知りすぎるほどに知っている。 「わたしが思い出させたのね」 「君が本当に大切なんだな。愛する人を失う絶望を知っているから、君のことは尚更自分の手のひらの中にしまっておきたいんだ。アルヴィーゼ・コルネールは本来どんな男にもなってうまく立ち回れる器用なやつなのに、君の前では違うんだよなぁ」  しょうがないやつだ、などと言いながら、マルクは屈託なく笑ってイオネの身体をぐるりと回した。 「覚悟してくれ、イオネ。俺の親友は最愛の妻が先に逝こうものなら躊躇なく後を追うぞ。同じ棺桶にも入ろうとするだろうな」 「あら。じゃあ、先に死ねないわね」  イオネは冗談めかして言った。が、心の中はアルヴィーゼと同じくらい本気だった。  アルヴィーゼが自分の後を追って死ぬなんてとても考えられないが、あの男の行動はいつも想像を超えてくる。遂にはとうとうそんな男の妻になってしまったのだから、マルクの言うことはきっと真実なのだろう。妙に腑に落ちてしまった。  この時、イオネとマルクを不機嫌に眺めるアルヴィーゼの隣にやってきた者がいた。キリルだ。 「いい夜ですね、公爵閣下。あなたの親友は楽しい人だ」 「君は飲むなよ。イオネに叱られる」  アルヴィーゼはキリルから差し出されたワインを受け取り、内心で面白がった。こちらに対して敵意を隠さないキリル・アルバロは、やはり出逢った頃のイオネによく似ている。 「わかってます。それに、成人してもあなたとは酒を飲みません」 「その態度。大好きな姉上を取った俺が憎いのか?」 「姉から自由を奪う存在が憎いんですよ。イオ姉さんみたいな人には自由を与えてくれる人こそ相応しいのに、どうしてあなたなんだ?正直、納得いかない。ただ姉さんの面目を潰したくないから言わないでいるだけです」 「俺にはいいのか」 「ええ。あなたは別に気にしないでしょう」  そういうキリルの言葉には、姉の弟に関心などないだろうという冷淡な感情が隠れている。  道理だ。アルヴィーゼにとって、イオネ以外の人間はそれほど重要ではない。が、イオネが大切にしているものは話が別だ。  夜半、イオネは寝室に入るなり怒濤のように押し寄せてきた眠気に負け、寝台に倒れ込んだ。 「おい」  アルヴィーゼは常になく慌てて駆け寄った。 「疲れただけ。大丈夫よ。というか、ずっと大丈夫なの」  イオネはそう言いながら、半分目を閉じている。  アルヴィーゼはイオネの髪をくしゃっと撫で、靴をぽいぽいと脱がせて毛布を上から掛けてやると、イオネの頭の横に手を突き、身を乗り出して頬に優しく口付けをした。 「ねえ…意地を張って悪かったわ」  なんと、意地の塊が謝っている。アルヴィーゼは目を丸くした。 「明日は雪でも降りそうだな」 「本気で言っているのよ。あなたの気持ちを深く考えていなかったわ。妊娠は確かに危険もあるのに、妹たちが安産だったからって軽く捉えていたと思う。公爵夫人として認められなきゃって、そのことばかりに気を取られていたもの。だから、ごめんなさい。はい、あなたの番」  やはりイオネはイオネだ。自分だけが折れて終わりにはしない。 「俺はお前に心配していると、もっと伝える努力をすべきだったな。お前を失うのが何より怖いと」  イオネの温かい指が頬に触れる。この温もりが、アルヴィーゼの世界の中心だ。 「これからはわたしも自分の身体と赤ちゃんのことをもっと慎重に考えるって約束するわ。足が痛くなったとか眠くなったとか、小さなことでもちゃんとあなたに伝えることにする。だからあなたも、もう少しわたしを信用して。歩み寄りましょう。これからずっと、一緒に生きるんだから」 「はぁ…」  溜め息が出た。こう言われてしまってはこちらも折れるしかない。 (敵う気がしない)  まったく、小憎らしい。アルヴィーゼはイオネの身体をきつく抱き締め、唇に口付けをしようとして、やめた。代わりに唇で頬に触れると、スミレ色の目がとろりとした熱を孕んで見つめてくる。  ざわざわと、身体の奥から小さな衝動の波が起き始めた。 「……もう寝ろ。明日は婚礼だ」 「寝てもいいの?」  イオネが頭の横にあるアルヴィーゼの小指をそっと掴んだ。アルヴィーゼのやせ我慢など、お見通しなだ。 「侍医が概ね普段通りの生活をして問題ないと言っていたのを覚えてる?」  アルヴィーゼは思わず眉間に皺を寄せて長く大きな息を吐いた。 「誘うな」 「ふふ」  イオネが喉の奥で笑った。 「恋しかったのはあなただけじゃないわ」  イオネの目が柔らかく弧を描き、アルヴィーゼを見つめた。その美しい瞳が欲望に翳りを見せると、アルヴィーゼは小さく悪態を吐いた。 「くそ」  アルヴィーゼは頭の中で理性が瓦解する音を聞いた。急いたようにシャツのボタンを外して上着と一緒に床に投げ落とし、精悍な胸板を露わにしてイオネに覆い被さった。 「お前は俺の辛抱を無駄にした」 「あなたが我慢なんて、それこそ雪が降るわよ」  イオネがくすくすと笑ってアルヴィーゼの首に腕を巻き付けた。 「減らず口は塞いでやる」  アルヴィーゼも低い声で笑いながら、イオネのふっくらと柔らかい唇を覆い尽くすように唇を重ねた。  イオネが気持ちよさそうに唸り声をあげ、アルヴィーゼの髪に指を挿し入れ、易々と侵入してきたアルヴィーゼの舌に自分の舌を絡めた。この仕草が、アルヴィーゼの身体を一気に熱くした。  アルヴィーゼがイオネの背中へ両手を這わせ、腰から背中へと編み上げられているリボンを緩めていく。  時折背に触れる指先の感覚がひどくもどかしく感じられて、イオネは先を促すようにアルヴィーゼの首から硬い胸を通って腰へと手のひらを滑らせた。  自分の中の衝動がだんだん大きくなっているのが分かる。思っていたよりもずっと激しくこの男を欲していたのだと、イオネはこの時初めて思い知った。  糸杉の樹皮を剥いだようなアルヴィーゼの匂いも、汗の浮いた肌の感触も、口付けの合間の吐息も、名前を呼ぶ声も、全てが恋しかった。  アルヴィーゼはイオネの身体からドレスを剥ぎ取ると、白い首筋に口付けをし、絹のシュミーズの上から豊かな胸に触れた。イオネが小さく呻いてアルヴィーゼの髪にしがみつき、胸を上下させた。 「アルヴィーゼ…」  掠れた声が恍惚と名を呼んだ後、アルヴィーゼの髪を掴んでいたイオネの手が力を失い、ぱたりと枕元に落ちた。  アルヴィーゼはこの異変に気付き、サッと身を起こしてイオネの顔を覗き込んだ。イオネは平和そのもののような顔で既に寝息を立てている。  思わず奥歯を噛んだ。が、意識を無くしたイオネ相手に続けるわけにもいかない。  アルヴィーゼはもぞもぞと下へ移動してイオネの下腹部へと不機嫌な顔を近付けた。 「…お前の仕業か」  静かなイオネの寝息だけが聞こえてくる。 「覚えていろよ」  そう言ってアルヴィーゼはイオネの臍の下に口付けをし、柔らかく愛おしい身体を腕に抱いて毛布に包まった。  翌朝、イオネは、なぜ早朝から薔薇の花びらの浮いた熱い湯に浸かりながら後ろにいる夫の腕の中に身体を大人しく身を委ねているのだろうかと考えていた。  ほんの十分前までは、まだ隣の寝室で毛布に包まっていたはずだ。それが、「湯殿が調った」というアルヴィーゼの一言が聞こえた次の瞬間には身体を抱き上げられ、気付いた時には夫と二人、裸で浴槽に浸かっていたのだ。 (ああ、そうだった)  ようやく意識が覚醒してくると、昨夜のことを思い出した。事を始めたまでは覚えているが、その後の記憶が無いのはいつの間にか眠ってしまったからだ。イオネは思わず顔を覆った。 「少しは目が覚めたか」  アルヴィーゼがイオネの緩く波打つ長い髪を一方の肩へとよけ、その下から現れた滑らかな背に口付けをした。 「…怒ってる?」 「ひどいお預けを食らわされたことを言っているなら、勿論怒っていない」  言いながら、アルヴィーゼは湯の中でイオネの腰を引き寄せ、その身体を腕の中に収めた。 「今ここでツケを払って貰うからな」  耳朶に唇が触れるほどの距離で、誘惑するようなアルヴィーゼの低い声がイオネの神経を鋭くした。肉体は火がついたように熱くなり、心臓が跳ねて血流を速くする。 「ほ、本気?だってこれから…」  首筋に吸い付かれ、イオネは小さく呻いた。アルヴィーゼの手が鳩尾から胸へと這い上がってくる。 「ここならドレスを汚す心配がないから、ちょうど良いだろ」 「ちょうど良いって…あ!」  胸を這う手が先端に触れ、もう片方の手が秘所へと伸びてきた。 「ちょっと待っ――んん!」  アルヴィーゼの長い指が中心に触れた途端、イオネは喉の奥で悲鳴を上げた。呼吸が乱れ、豊かな胸が大きく上下し、言葉とは裏腹に全身でアルヴィーゼを誘っている。  アルヴィーゼは胸から頸へと手のひらを滑らせ、顎をつまんでイオネを自分の方へ向かせると、その官能的な唇を塞いだ。最後に身体を重ねて以来、何度この肉体に自分自身を沈める瞬間を夢想したか分からない。  イオネも頭をアルヴィーゼの肩に預け、腕を伸ばしてその黒髪に指を挿し入れた。  口付けの合間にイオネが熱い息を吐き、アルヴィーゼの指から創り出される快楽に顎を震わせた。イオネの内部がアルヴィーゼの指を湯ではないもので濡らし、強く吸い付いてくる。 「んっ、あ、もう…」 「イオネ…」  秘所の入り口の突起をアルヴィーゼの親指が撫で、中に埋められた中指と薬指が更に奥をつつくと、イオネがビクッと跳ね、甘い悲鳴を上げた。  アルヴィーゼはイオネの腰を掴んでぐるりと身体の向きを変えさせ、自分の脚に跨がらせた。スミレ色の瞳が熱に浮かされたように潤んでいる。唇を重ねると、イオネも激しくそれに応えた。 「今すぐお前の中に入りたい」  アルヴィーゼの唇が、首へ、次に胸へと下り、その先端に吸い付いた。先程の愛撫で感度を増したイオネが、声を喉の奥で押し殺しながらアルヴィーゼの頭にしがみつき、無意識のうちに腰を揺らして熱くなったアルヴィーゼの一部をあられもない場所で擦っている。 「ん…アルヴィーゼ…」  イオネの甘い声に、アルヴィーゼの呼吸がひどく乱れ始めた時だった。 「旦那さま、そろそろイオネさまをお預かりしてもよろしいでしょうか!」  続き部屋の寝室からソニアの声が聞こえた。早くイオネを着飾らせたくてうずうずしている様子が、声の調子から伝わってくる。 「チッ」  アルヴィーゼは不機嫌さも隠さずに舌を打った。我に返ったイオネはアルヴィーゼの膝から下り、顔を真っ赤にしてソロソロと身体を再び湯に沈めた。  アルヴィーゼは扉の外のソニアに渋々応じながら、イオネの真っ赤な頬を指でチョンと弾いた。
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