第二章 覚醒

1/1
16人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ

第二章 覚醒

「ブー、ブー、ブー」  静かに、そして確かにその存在を探さずには居られない呼び出し音。綾美は夢の渦中ではあったが、手探りで携帯を探し当てては耳元にかざした。 「もーし、もーし」 「おはよう綾美。朝だよ。もう起きた」  昨日の出来事が何もなかったかの如くに淡々と話す声。それは智香からのモーニングコールだった。 「いま何時」 「8時です。8時です」 「やべえー。遅刻しちゃうよ」  綾美は慌てて掛け布団をはねのけて起き上がると、部屋の洋服ダンスに一直線。着替えを済ませて、これまた一直線に学校めがけて駆け出して行った。  自席に座るやいなや目の前にプリント用紙が配られた 「いけねえ、今日、数学のテストだった。全然勉強してない・・・」 そう心の中で呟いて、あることに気が付いた。 「確か、トモとクレープ屋に行って、それから、それからどうしたのだったかなあ・・・」 「よーし、始め」テスト開始の号令が綾美のそんな迷いを断ち切った。 「ダメ元でも、『やるっきゃない』よね」  綾美はテスト用紙を引っ繰り返すと問題文を読み出した。すると、不思議なことに問題文を読み終えるか読み終えないうちに勝手に答えが頭に浮かんで来た。 「これって、どういうこと。こんなの初めて。あたしどうなっているの」  そうは思ったもののテスト時間には限りがある。貴重なテスト時間に余計な事で悩んでいる暇などありはしない。綾美は頭に浮かんだ答えをひたすら答案用紙に書きなぐった。いや正確には書き写した。何故なにの謎解きなんて試験が終わってから始めたって遅くはない。 「終了」  先生の一声で魔の時間は終わりを告げた。いや今日のこの時間は魔の時間ではなく、幸運の時間であった。少なくとも綾美にとっては。綾美は心の中で祈った。この至極の時が続くことを。せめて今回の学期末試験が終わる間だけでも。その願いが通じたのか、後日行われた語学、物理の試験でも同様の効果を手にした綾美だった。  折しも迎えた一学期の就業日。全科目の試験を終えた綾美たちは来るべき夏休みの到来に胸を躍らせていた。 「これから通知表を返します。みんな席に着いて」 教壇に姿を現した先生が一人一人の名前を呼び始めた。 「綾乃さん」 「はーい」 名前を呼ばれた綾美は教壇の前で先生から通知表を受け取った。 「よく頑張ったわね」先生から褒め言葉をいただいた。何年振りだろうか。  試験を終えた綾美と智香はいつもの道をいつものペースで帰途についていた。 「どうだった成績」智香が綾美の顔を覗き込んだ。 「まずまずってとこね・・・」 「それって、相当良かったってことよね」  智香は綾美が薄ら笑いを浮かべているその表情を見逃さなかった。 「智香には隠せないよね」  綾美は通知表を智香の前で広げた。 「やったね、オール5じゃない」 「でも、これってあたしじゃないみたい」 「どうして・・・」 「問題文を見ると勝手に答えが浮かんで来るの。それが例え、経験したこと、見たこともない問題であっても。誰かが耳元で『正解はこうだぞ』って囁くように。これまでそんなことはなかった」 「綾美が天才になったってことじゃない。よく言うじゃない、天才は先に答えが浮かんで来るって。だから心配することないって」 「そうかなぁ・・・」  智香の言った通り、心配には及ばなかった。綾美の成績は負け知らずに連勝連戦を続けた。同級生の誰もが羨む視線を感じながらも、受験する模試では常に高得点をマーク。そのうちに嫉妬に駆られていた同級生達も綾美を羨望の眼で見るようになって行った。次元の違う相手に誰しも無駄な戦いを挑みはしない。そして、この春、見事に旧帝大医学部に主席合格を果たした。 「今日でお別れね、綾美」 智香は別の大学に行くことが決まっていた。 「お別れにクレープ食べに行かない」 「もしかして、あのクレープ屋さん」 「懐かしいわね・・・」  綾美は店の壁に掛けられたバロック調の『振り返る女性』の絵画を見て、その言葉が自然と口からついて出た。そうだ、このお店の雰囲気に似つかわしくないこの絵を確かに覚えている。この絵を見て、それから、そうだ、次の日のテストで満点を取ったのだっけ。 「言いたいことはわかっている。ここから私は生まれ変わったんじゃないかって・・・」  智香の鋭い指摘にたじろいで返す言葉を失った。 「人の脳は赤ちゃんの時に生まれた環境に合わせて形成されるって聞いたことあるよね」 「赤ちゃんの時はどんな言語にも対処できるように脳神経網が張り巡られているけど、自分の生まれた言語圏、例えば、英語圏であれば、英語以外の言語を吸収する神経網が自然消滅するって話のこと」 「さすがにドクター候補生。理解が早い。人は生まれた環境に順応できるように脳の神経回路を形成していく」 「それが知能ってことね」 「でも知能に求められる脳回路は年齢と共に変わって行く、年齢と共に生活環境が変わって行くのだから当然のことだよね」 「そのためには、脳回路を作り直してやることが手っ取り早いってこと」 「そう。町全体を作り直すのであれば、作る街に合わせて交通網を作り直さなければ上手く機能しない」 「でも、それじゃこれまでの記憶はどうなってしまうの」 「その問題を解決するのがあの絵画なのよねえ」 智香は店の壁に掛けられた『振り返る女性』の絵に顔を向けた。 「あたしも不思議に思っていた。だって、あの絵、このお店の雰囲気に不釣り合いだもの」 「でも、記憶の釣り合いは取っているんだよね、これが・・・」 「もしかして、あの絵が何らかのセンサーになっていて店に来たお客の記憶を保存。脳回路を作り直した後に記憶を戻すってこと。そんなこと、出来っこないじゃない」 「だから、あんたがあんたのままでいられる。おつむだけ良くなってね」 「どうぞ、スペシャルクレープです」  テーブルにクレープの入ったグラスが置かれた。 「さあ、どうぞ、召し上がって・・・」智香が促した。 「あたし、もう充分賢くなったし、これはもういいよ」グラスを横に押しやった。 「ダメダメ、綾美が一人前のドクターになるには、どうしても後一回、脳回路のバージョンアップが必要なの。わかってくれる」 「でも、どうして、智香がそこまでやるの。本当に賢くなれるのなら、まずは自分に試せばいいじゃない。本当にお金持ちになれる方法、そんなものが本当にあるのなら、自分に試すのが普通でしょ。なんで、あたしなの。智香が親友なのはわかっているし、智香のおかげで念願の医学部に合格出来たのにも感謝している」 「これは、綾美のご両親との約束なの」 「じゃあ、あたしが両親を説得する。もう、脳のバージョンアップはしないって・・・」 「それは無理よ・・・」 「もう子供じゃない。両親の説得ぐらいあたしにだって出来る」 「じゃあ聞くけど、あなた、最後にご両親にあったのはいつか覚えている」 「綾美が通う高校は全寮制。綾美が高校に入ってから両親に直接会ったのは高校一年の冬休みが最後。それからは電話やメールでやり取りがあったものの、直接会ったことはなかった」 「でも、電話やメールで話はしているわ」 「これよねえ・・・」  智香は綾美の目前に携帯の受信メールをかざした。そこに書いてあった文面は、間違いなく綾美が母に充てて送ったメールだった。 「メールの相手が智香だったってこと。でも電話はお母さんの声に間違いなかった」 「もしもし、お母さんですよ、綾美」  智香が声色(こわいろ)を使って返事を返した。 「そんな、嘘でしょ」 「綾美、ちゃんと食べている」智香は執拗に声色を使った。 「もうやめてよ」綾美は両耳をふさいだ。 「そう、あなたのご両親は亡くなっていた。そして、あなたのご両親はあたしにあなたの教育係を託した。正確にはあたしの会社にね」 「あたしの会社・・・」 「あたしの会社はアンドロイドの派遣会社。そこから教育用アンドロイドとして派遣されたのがあたし」  両親が亡くなっていたなんて急に言われても理解出来ない。葬式だってやってやいない。それにもまして、智香がアンドロイドだなんて荒唐無稽な話を受け入れられるわけがない。 「そんなおとぎ話じみた話、信じられるわけないじゃない。本当のことを教えてちょうだい」  興奮した綾美は身を乗り出して捲し立てた。 「まあ、少しは落ち着いて・・・」  智香は店員の運んで来た水の入ったグラスを綾美に差し出した。興奮して喉に渇を覚えたのか、綾美は差し出されたグラスを握り締めると一気に飲み干した。 「あたし、もう帰る・・・」  綾美が席を立った瞬間。頭がボーっとして足元がぐらついた。 「こんなこともあろうかと思ってね。お水にもクスリを仕込んでおいたのよ」  綾美は智香と別れたクレープショップの前に立っていた。 八年という歳月がそう感じさせるのか、それとも成長した自分がそう感じるだけなのか、『くれいぷ』という文字がはげ落ちた店構えは以前よりも落ちぶれて見えた。  綾美は智香と別れて大学に進んだ後、順調に医師免許を取得。無事に研修期間も終えて、明日から海外ならぬ地球外勤務が決まっていた。地球で暮らすのもこれが最後かと思い、思い出の地であるこの地に足を運んだのである。 確かに智香が言ったように両親は既に亡くなっていた。いや正確には元々自分には両親などいなかった。それがわかったのも皮肉な話だ。付き合っていた彼氏が大病院の御曹司で、その親が興信所に依頼して調査した結果が綾美の耳に入ったというものだ。そんなこともあり、その彼氏とは別れることになった。もちろん、後悔はしていない。  考えてみたら不思議な事だらけだ。高校以前の記憶がはっきりしない。それに何処をどう探しても、あの日以来、智香の消息が掴めないのだ。役目を終えて忽然と姿を消した。そう表現するのがピッタリ来ると言ったところだ。 あたしは一体何者で、あたしは一体何処から来たの。 あなたには役目があった。あたしの役目は何。教えて、智香。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!