生レル

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 その日、私は疲れていた。  緊急対応の必要な仕事が重なり、とても忙しかった。また、湿度と温度の高い天候と気圧の低さも相まって、酷く頭痛がした。怠く重い身体を引きずり、家に帰り着いた。  鍵を取り出し、玄関のドアを開ける。ゆっくりと靴を脱ぐ。妻は迎えに出てこなかった。  カバンを持ったままリビングに入ると、妻はいつものようにソファで卵を抱えて眠っていた。  膝と背を軽く曲げ、足と腹と胸の間に生まれる丸みにすっぽりと卵を包み込み、腕でしっかりと抱えていた。卵と一体になって、妻自身がさらに大きな卵になっているように見えた。  こめかみが心拍のリズムで刺すように痛む。目を強く閉じた。  薄く目を開けると、卵の殻に似た、透明な薄青い球体が妻を包んでいた。ガラスのようなそれは妻と卵を包み込み、こちらと向こうを隔絶する。妻に触れようとしても、殻が邪魔をする。すぐそこに見えるのに、触れることができない。それは、柔らかな拒絶であった。  頭が重く、痛い。  薄青い球体に包まれた妻をじっと見ていると、次第に妻の抱いている卵が同じように薄青く透明になって見えた。目を凝らしてみると、その卵の中には、同じように卵を抱えた妻が入っていた。更に、卵の中の妻の抱える卵の中にも、卵を抱える妻が見えた。合わせ鏡の中のように、いくつもの卵と妻がずっとずっと続いて永遠に終わらない抱卵を続ける——  頭の痛みに耐えきれなくなり、再度、強く目を閉じた。 「お帰りなさい」  妻の声に目を開けると、痛みは薄らぎ、いつものように妻はソファに座って卵を抱えている。先ほど見た、彼女を包む透明な薄青い球体は消え去っていた。私は痛みのあまり、幻覚を見ていたのだろうか。鞄をローテーブルに置き、両手でこめかみを押した。 「頭が痛いの?」  妻はけげんな顔をして聞いてきた。卵は抱いたままだった。 「ああ、少し。今日は仕事が立て込んでいて、忙しかったからね」  そう言うと、細く長く息を吐く。痛みは息とともに体外へ排出された気がした。  妻は急にふふふっと笑い出した。それは彼女自身が意識せずに思わず零れ出た、とても楽しそうな声だった。 「あらっ、ふふふ。思い出してしまったわ」 「どうしたの?」  心底楽しそうに、卵を撫でながら妻は言った。 「夢を、ね。さっきまで見ていた夢を思い出したの。——不思議ね、いつもは目覚めたら夢を見たことだけ覚えていて、内容なんて忘れてしまっているのに」  頭が両側から絞られるように痛み始めた。 「楽しい夢だったの?」 「えぇ、とても。この子が産まれた夢だったの」  ぎゅっと卵を抱きしめると、尖った楕円の先に顎を乗せて真白な殻に頬擦りをする。 「それは——喜ばしい夢だね。正夢だと良いな」 「いや、そういうことじゃないのよ。ふふふ」  頭がさらに強く痛む。妻は悪戯な眼差しをこちらに向けた。 「この卵から産まれてきたのはね、何だと思う?」  痛みのあまり何も考えられず、また、答えを聞くのが怖くて声を出せない。妻は私の様子には頓着せず、卵を優しく揺らしながら歌うように続けた。 「卵、卵よ。卵から卵が産まれたの。で、私はそれを見て『初めまして』、そうして『これからもよろしく』って言うの」  これから【も】よろしく。  その言葉に、息ができない程の頭の痛みをを感じた。心臓の鼓動が身体中に強く響いた。彼女の言葉が頭の中で幾度もリフレインし、耳鳴りのように重なって増幅する。  卵は彼女の世界を形作っている。殻を割らなければいけない。そうしないと彼女は卵から出てこられない。彼女を生むためには、卵を破壊しなければならない。  その想いが、雷撃のように頭から足先へと突き抜けた。全身の血が沸騰した。強い閃光を受けた後のように、視界が白く爆ぜた。  視界に映る妻の姿が、白く霞む。楕円の、まるで卵の形に見えた。  頭の痛みが干潮に向かう引き潮のように薄らいでいく。痛みが消えると共に両眼に視力が戻る。光を取り戻した私の目に映ったのは、透明な薄青い球体に包まれた妻だった。  ソファに座る妻の目の前まで進む。球体の中から、妻が私を不思議そうに見上げた。薄青く美しく快適に妻を守る外殻に、躊躇うことなく手を伸ばした。球体に手が触れたとき、ガラスを割るような高く澄んだ音が響いた。それは、もしかすると妻の悲鳴だったのかもしれない。  妻が大切に抱いている卵を奪い取ると、両手で掴んだ卵を頭の上まで振り上げてから床に強く叩きつけた。卵殻と床がせめぎ合う振動に続いて、殻が潰れる乾いた音が聞こえた。  それは、彼女の世界が崩壊する音だった。そうして、彼女の生まれる音だった。  床に散らばる卵の殻はただただ乾いていてバラバラで、中には何も存在しなかった。それを見た瞬間に、忘れてしまっていた主治医の言葉が頭に甦った。 『奥様はとても危うい均衡で精神を保っています。あの卵によって、何とか引き止められている状態です。卵がなくなると、どちらに転ぶか分かりません。我に返りこちらの世界に戻るか、自分の世界にこもってしまうか……。とりあえず、このままの状態を引き延ばしましょう』  私は妻を思うあまり、妻と卵の世界に取り込まれていた。彼女の想いに寄り添うあまり、私の世界をゆがめていた。そのことに私の精神は耐えきれなかった。  彼女を覆う薄青い球体は消え去っていた。  そこに在るのは、割れて、もう二度と元に戻らない卵と、顔を覆い泣き崩れる妻。私はただ立ち尽くし、肚から溢れ出る声を止めることなく叫びながら両手で耳を塞いだ。  新たな世界の誕生を祝う産声が、部屋中に響いた。
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